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ねむりびと、いまだかえらず。

作者: 椎乃みやこ

 この髪を乱し、その草を籠いっぱいに摘みとれるのなら、祈りはかたちになるべきと、少なくともルゥは信じていた。いや、信じていたかった。

 冬の朝は残酷だ。太陽は顔をだしていても、底からくる冷たさを暖めてはくれない。森に降り積もった真白の雪を反射させ、明るさに弱いルゥの目に痛みを浴びせる。幼い少年の頬は赤く、手袋をはめていない手はかじかみ、細い脚は膝小僧まで剥き出しになっていた。衣服を満足に買う金など、ルゥは持っていなかった。

 森の雪はルゥの軽い体重すら受け止められず、歩くたびに足が沈んだ。履き潰したブーツの中に雪が入り込む。穴だらけの濡れた靴下は、ルゥの素足を守ってくれなかった。

 寒さは痛さ、そして熱さに変わる。

 ルゥの細い首にはマフラーが巻かれていた。姉のエルに編んで貰った若草色のマフラーは、唯一の宝物だ。口元を覆い、匂いを嗅ぐ。微かにエルの匂いが残っているような気がした。

 エルが眠りに落ちたのは、初雪が降った日。

 この森に雪が降るのは珍しかった。雪が降り始めてから、ひたすら眠たいとエルは訴えていた。仕事の疲れかと眠らせたが、目を覚まさなくなってしまった。いくら揺り動かしても反応はない。この異常事態にルゥは家を出て、森を駆け、一日かけてようやく町医者を連れてきた。ところが町医者は首を傾げるばかりで、原因がわからないと言う。

 二人に両親はいない。父はルゥが産まれる前に蒸発し、母は三年前に病で息を引き取った。年の離れたエルが、姉として、時に母としてルゥを育ててきた。金はなかったが、一日一日噛みしめるような幸福を二人で大事にした。そうして、ひっそりと森で暮らしてきたのだ。

 二人だけの家族。

 それが、ルゥの世界だった。

 姉を助けたい。そのためならなんでもすると泣きじゃくるルゥに、町医者はしばらく考え込んだ。十歳にも満たない少年を落ち着かせたあと、ゆっくりと口を開いたのだ。

「本当になんでもできる覚悟があるのなら、魔女に手紙をだしてみなさい」

 魔女。

 エルから聞かされた覚えがある。この森の奥地に「魔女」と呼ばれる人物が住んでいるらしい。「魔女」は困っている人に知識を与えるが、知識によって幸福になるかはその人の行いによって変わるという。

 知識を得る方法は簡単。何に困っているのか魔女へ手紙を書き、自分の家のポストに入れる。翌日の朝、音もなく返事が入っているそうだ。

 ルゥにとって、それは祈りと似ていた。たった一人の家族である姉を助けるため、拙い文字を書き、家の古びたポストに入れた。

 噂通り、翌日に返事が届いた。ただしポストではなく、扉前に置かれた見知らぬ籠の中に。マリーゴールドの香りが染み込んだ封筒が添えられていた。

「その籠に、冬にしか芽吹かない金色の草花を摘み取りなさい。それを煎じて飲ませれば、目を覚ますだろう」

 それからだ。ルゥが家を飛び出し、雪が降り積もる森の中を歩き始めたのは。

 あと、少し。何度も自分に言い聞かせたが、その「少し」がどれくらいなのか見当がつかなかった。

 次第に足の感覚がなくなってくる。のしかかるような眠気が、何度もルゥを襲った。このまま雪の中に倒れ込んだら楽になるだろうか。いや、それはだめだと誘惑を振り払った。

 そうだ。どうせ眠るのならば。

 姉さんと眠ってしまいたい。

 どれくらい森を歩いていたのか、わからなくなっていた。ほんの数分かも知れない。いや、数時間、一日かも知れない。空を仰ぐ。地上は冷え切っているのに、空を覆う葉の隙間から陽光がきらきらと差し込んでいた。

 ふと、真白の世界に小さな金色の煌めきを見つけた。摘むと分厚くも柔らかい弾力がある。匂いを嗅ぐと植物独特の甘さが、鼻腔をくすぐった。

 あぁ、これは花だ。金色の花びらだ。

 籠に入れた魔女の手紙を広げる。「冬にしか芽吹かない金色の草花」と書かれた癖のない筆記に、ルゥの心は躍った。

 近いかも知れない。重くなった脚を動かす。前へ前へ、ひたすら突き進む。途中でつまずき、顔面から雪を被ってしまった。立ち上がり、濡れた目を拭う。泣いている場合じゃないと自分を奮い立たせた。

 点々と金色の花びらがルゥを誘うように落ちている。花びらを拾っては籠に入れた。

 辿り着いたのは、ルゥの家だった。

 戻ってきたのだ。姉のエルが眠る家に。金色の花びらの道は家へと続いている。扉に鍵はかかっていなかった。エル姉さんと呼びかけ、そっと開ける。

 蔦が、あった。

 蔦が壁を覆い、床を浸食し、家具に取り付くように巻いていた。愕然としたルゥの手から籠が落ちる。その拍子に金色の花びらが散らばった。

 姉さんは、エル姉さんは。

 ルゥはエルの部屋へ走った。部屋の扉にも蔦が絡んでいた。蔦を掴んだ瞬間、鋭い痛みが走った。掌から血が流れている。蔦には細かな棘があったのだ。

 ルゥは怯んだ。扉から後ずさった。これは悪夢だ。夢を見ているのではないかと、逃げ出したくなった。だが、逃げ出したところでどうなるのだろう。ルゥに寄り添ってくれるのは、扉の向こうにいる姉のエルだけなのに。

 涙を堪えきれなかった。ぼたぼたと落ちる大粒の涙を拭わず、姉の名前を叫びながら、蔦を引っ張り、ドアノブを掴む。ルゥの幼い肌に赤い筋が走ったが、今はエルの部屋に入ることしか頭になかった。

 扉をこじあけ、駆け込んだ。

 金色の花が、咲き乱れていた。

 ベッドの上で眠るエルを取り囲むように、金色の花が咲いていた。雪と違う眩しさにルゥは目を細めた。

 エルに歩み寄り手を握る。体温があった。胸に耳を当てる。心臓の鼓動が聞こえた。ほっと安堵の息をついた。

「姉さん、どうしていいのかわからなくなったよ」

 弱音をこぼすルゥに、エルの返事はない。

 魔女の手紙には「冬にしか芽吹かない金色の草花」と書かれてあった。それはこの花でいいのだろうか。なぜこの花が家にあるのか、しかもエルの周りで咲いているのか、ルゥにはちっともわからなかった。

 町医者が匙を投げたのは、病気ではなく魔法のせいだからかも知れない。どこかの童話に、悪い妖精によって眠りの魔法がかけられたお姫様がいた。王子様の口づけでお姫様は目を覚ましたが、あいにく、ルゥはエルの王子様ではなかった。

 ただの弟だ。

 ベッドに座り、姉の頬を撫でた。姉は目を覚まさない。周囲に咲く金色の花びらをルゥは千切った。

 「それを煎じて飲ませれば、目を覚ますだろう」と書かれた言葉を思い出す。本当だろうか。疑問は疑いに変わる。毒でもあったら、嘘だったら。ぼんやりとした頭でルゥは花びらを口の中に入れた。もしだ。もし、自分が食べて何もなければ姉さんに飲ませよう。

 もし、自分に何かあったのなら。

 花びらはどこまでも甘かった。何かの味に似ていたが、ルゥはその「何か」を思い出せなかった。飲み込んだ瞬間、視界がぐらりと揺らいだ。

 あぁ、毒があったのか。

 でも、どうせ眠るのならば。

 姉さんと一緒に。

 苦しみはなかった。痛みもなかった。襲いくるのは強烈な眠気。ぐらりとルゥの体が傾く。隣にエルの横顔があった。

「ねえさん……」

 大好きだよ。

 声は、言葉にならなかった。


 エルが目を覚ましたのは、早朝だった。

 ベッドに眠ったルゥがいる。外出していたのか、体は濡れ、手や腕や顔に切り傷がいくつもできていた。

 ルゥを呼び起こすが目を覚まさない。傷の手当をしても、着替えさせても、反応はない。ルゥを自分のベッドの布団に眠らせ、一息ついてから家の小さな異常に気づいた。

 扉口に、見知らぬ籠と金色の花びらが落ちている。これは何の花だろう。見覚えのない花だ。おそらく、可愛いルゥが拾ってきたのだ。珍しく思って、エルに見せようと集めてくれたのかも知れない。

 籠の中には手紙があった。

「その籠に、冬にしか芽吹かない赤色の草花を摘み取りなさい。それを煎じて飲めませれば、目を覚ますだろう」

 几帳面だが、個性のない字。「目を覚ます」とは誰を指しているのか考え、嫌な予感が過ぎった。

「ルゥ、私の可愛いルゥ。起きて」

 自室に戻り、何度もルゥを揺り動かすが一向に目を覚まさない。すやすやと眠る幼い弟は、城の中で眠るお姫様の童話を連想させた。

 手元にあるのは金色の花びら。赤色ではない。誰の手紙かわからないが、赤色の草花を探せば何か変わるのかも知れない。

 ルゥの額に口づけを落とす。童話のような王子様になれないとエルは確信していた。自分はただの姉だ。それ以上も以下でもない。

 防寒には物足りないコートを羽織る。エルは籠を掴み、早朝の森へと足を踏み出した。

 この髪を乱し、その草を籠いっぱいに摘みとれるのなら、祈りはかたちになるべきと信じていた。いや、信じていたかった。


 背後で家が蔦に覆われ、ルゥの周りに赤い花が咲き乱れているのを知らずに。

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