10.等価交換のエントロピー
――安価は絶対。
こんなバカげた思想が法律として、確立されてしまったのは遡ること半年ほど前。
お国は何をトチ狂ったのかネット上で安価がつけられたら、
それを絶対に行動にうつさなくては罰せられる。
こんな悪夢のような法案を通してしまったのだ。
当然、世間は物議を醸しだした。
新聞やニュースなどで知らないような専門家が弁舌を奮った。
大手掲示板@ちゃんねるではこの法案が可決された時に、
絶対安価法案クソワロタwwwwwと掲示板にてスレッドが立ち祭りが開催された。
いつもの光景、良くある光景。
――のはずだった。
スレの勢いも早かった。
それは好奇心か悪戯心からか住民の一人が、
>>788がゴキブリを食べると書き込んだ。
それから20レスほどの後に、安価指定された>>788の書き込み。
その当時の原文の一部だ。
808:以下、名無しのJAPがお送りします
ちょ……マジマジマジ、なんか今呼び鈴鳴ったんだけど、マジで超マジこえ~
810:以下、名無しのJAPがお送りします
政府キターーーー!!!
811:以下、名無しのJAPがお送りします
あの男に連絡だ!
812:以下、名無しのJAPがお送りします
釣りだろ何時だと思ってんだ
813:以下、名無しのJAPがお送りします
政府、早すぎワロタwwwww
814:以下、名無しのJAPがお送りします
さあ次はてめえの番だぞおらあ!!!!!!!!!
816:以下、名無しのJAPがお送りします
いや、やらないんで^^
817:以下、名無しのJAPがお送りします
政府早すぎンゴーーwwww
825:以下、名無しのJAPがお送りします
>>817巣に帰れ
830:以下、名無しのJAPがお送りします
あー安価ついちゃった、この場合てどう解釈すんだろ
なんDに帰るって基準でいいのか? 巣の解釈が凄く曖昧じゃね?
833:以下、名無しのJAPがお送りします
実家に帰るという解釈もできるし
なんDに帰るという解釈もできる
これはけっこう危ないな向こう次第で何でもアリてことになるぞ
835:以下、名無しのJAPがお送りします
あれだけレスしてたのに808帰ってこねえぞ
――
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――――――
その次のスレで2人の書き込みがあった。
一人は玄関を開けたら黒服の男が数人いて、ゴキブリを本当に食べさせられたと言っていた。
もう一人はいきなり黒塗りの外車に乗せられ、実家に強制送還されたらしい。
たまたま実家が近かったから何ともなかった、
と当時の様子を興奮覚めやれぬように書き込んでいた。
そして嘘だ真実だと、住民を巻き込みながらスレは進行していき、東京タワーから飛び降りる。
ついにこんな安価がついた。
ある者は高見の見物だと笑みを浮かべ、またある者は安価法案のシステムに冷や汗をかいただろう。
次の日の朝刊、それは載っていた。
絶対安価法案第1号による東京タワーからの飛び降りで死亡。
それからネットが凍った。
書き込みは激減、安価法案による恐怖と混乱でネットは絶対零度による凍死。
これまで気軽にできた書き込みには、常に真横にいて戯れる死神が付きまとう。
ネットに書き込みしなければいい。
そう、それだけだ。身を守るための実にシンプルで簡単な答え。
だけど書き込みは減らなかった。
絶対安価法案にまつわるある背景。
それはあるスレにまつわる噂とその奇跡。
いや奇跡とよんでいいものかどうかの、推測の域を出ないおぼろげなものだった。
(1000をとると必ずその願いが叶う)
そんな都市伝説に驚くほどよく似た噂が水面下で流れる。
水が上から下へと流れていくように、いつの間にか人々はそれをオカルトでなく、それが真実であるように吹聴しはじめる。
代わりにスレにある他人の不幸の大きさや、数によって願いが成し遂げられる。
100や200や300のキリ番にもその効果は微弱ながら現れた。
些細なものでは毎年のように、冬には荒れる乾燥肌が治ったとか、
会社で設備融資が受けられ、経常利益の見込みが出る様になったので、ボーナスが出ただのという話だ。
それもキリ番を取った次の日のことだというのが、主張する彼等の言い分だ。
たまたまじゃないのかという、頭に浮かんでくる疑問符はこの際おいておこう。
キリ番を取った者が不幸な安価をつけられた場合だ。
これも、もちろん実行される。安価は絶対だ。
では、なぜ未だにこの安価リレーが行われているのかというと、
破滅と幸運を天秤に賭けてでも取りたいのだろう1000を。
絶対安価法案の唯一の適用外、それは治外法権にして絶対的な聖域。
――1000レスへのいかなる安価をも無効とする。
だから僕もその1000を取ろうとする人種の一人だ。
900を超えると計算したように勢いが早くなる。みんな1000狙いなのだから当然と言えば当然。
人は焼かれながらもそこに希望があればついてくる。
誰かのそんな言葉を思い出しながらも、震える手で1000を狙う。
鼓動が警鐘を打ち鳴らし爆発的に早くなる。このパソコンのモニターに向かう間にも、
隣の家にピンポンダッシュ、人食い虎と素手で対決、エベレストに登頂などなどなど首を横に振りたい案件が幾つも絨毯爆撃されていく。
安価された人には気の毒だがご愁傷様だ。
目標は1000だ、960、970、980、981、982……。
やはり900から爆発的にレスが増えていく。
モニターを見ながら、祈るように震える手でエンターキーを打つ。
その思考に停滞した川のように一点の風景だけを映し出す。
むせ返るような消毒薬と清潔感があって、無機質で白い通路の奥。
その部屋に僕の彼女はいた。重度の病気で余命幾許もない。
神経質そうな顔の医者は小さい部屋に僕を呼び出して、そう言った。
消え入りそうな押し殺した声を聞き、僕は空の両手に力を込め「そうですか」とつぶやきうつむく。
――僕に何ができるんだろう。
彼女はただ普通に生きるのを望んでるだけだというのに。
投薬の副作用と治療をイタチゴッコの様に繰り返して、彼女の体はもうボロボロだった。
ついには彼女は、声まで失ってしまったのだ。
情けなくて悔しくて、運命と神とやらに怒りの丈をぶつけてやりたくなる。
「何か欲しい物は?」と聞くと、ノートパソコンとインタネーットと、ミミズが這うような文字でそう書かれていた。
紙を受け取り弱々しいその手を握る。すると小さく僕の手に力を込めてくる。
愛しさで包まれていく僕の胸の内を、一抹の不安が波のように押し返しいった。
それは近い未来にくるかもしれない彼女の事。そんなもしもを想像するだけで、とても辛いんだ。
そこで知ったのが絶対安価法案の裏。
聖域かつ奇跡の1000レス――この質量の無い弾丸ともいえる、ロシアンルーレットによく似たそれに僕は賭けた。
目指すは1000!
エンタキーを押す。
そして閉じた瞳をゆっくり開くと僕のレスは999だった。
――彼女の病気が治りますように。
外した……イヤな汗をかきながら僕へのレスを見渡すと999へはなかった。
ホッと溜息一つ。ついさっきまで彼女の為にと、
この1000レスを取ろうとしたのに自分の身を案じる等身大の僕。
情けなさの自己嫌悪で消えてしまいたくなる。
涙目でモニターを見る。
1000レス。
――全ての人が幸せになりますように。
なんだこれは? あり得ない、普通は自分の為に1000レスを取るものだ。
それから数日して彼女が亡くなった。
それとほぼ同時に、絶対安価法案は否決された。
理由は、民衆による一斉蜂起と国外からの圧力。
もちろん政府は警察や自衛隊を使って抵抗した。
だが、数の力にはそれを押し返した。
もはや内乱といえるほどまでその規模は膨れ上がり、政府の方から折れたのだ。
外国の方でも問題視されていたようで、あっさりと絶対安価法案は無くなったのだ。
ネット上では、いつもの光景が繰り広げられている。
そしていくつかの奇跡を起こしてきた、1000レスの板は蜃気楼のように消えてしまった。
後から知ったことだが1000レスを取ったのは彼女だったらしい。
どうして、自分の病気のことを願わなかったのだろう?
今となっては聞くことも叶わない。
僕が代わりに1000レスを取っていれば彼女は助かったのだろう。
そんな考えが、一日中トグロを巻いたヘビのように思考に絡みついてくる。
彼女にとっては絶対安価法案が無くなる事が、すべての人の幸せとイコールだったのだろうか。
等価交換のエントロピー。
彼女の墓に線香と花束、そんな言葉を添えて僕は岐路についた。