09.情弱ねらーと包丁女
「……」
妹に腰をガシッと掴まれながら、順平はぼんやりとパソコン画面を眺めていた。これまで使っていたパソコンは間もなくOSのサポートが終了するとのことで、慌てて先月買い換えたものだ(因みに、この機にルータも買い換えた。)──画面は決して壊れてなどいないが、今はそう考えられなくもない。珠理が力いっぱい揺するものだから、視界は大きく上下に振動し、上手く画面を捉えることができないでいるのだ。
「ねー、おにーちゃん」
珠理が腕に力をもっと入れて、揺さぶってくる。
彼女の目的は単純明快──おおよそ遊びたいだとか、その辺だろう。順平は早々にそう判断すると、はぁとひとつ溜息をついてから、面倒そうに口を開いた。
「あー……今は忙しいからあっち行ってろ」
「えぇー! 全然忙しそうじゃないじゃーん」
「……っ」
と、ここでまさかの鋭い指摘である。順平は珠理の単純で的確な反言に、暫しぐうの音も出なかった。
「……ち、ちげえよッ、本当に忙しいんだって」
「ふーん」
言って、珠理は順平の腰に回していた手を引っ込めると、腕を組んだ。そして少々思案を巡らせたのち、半眼をつくって疑いの目を向けてきた。
「じゃあ、何がどう忙しいのか言ってみ?」
「えと、お……お前には分かんねえよ」
「む、分かるように説明してよ」
「無理だな、馬鹿にはどんなに簡単に言っても分かんねえよ」
「むー、難しくてもいいからとにかく言ってみてよ!」
「馬鹿には言いたくありませーん」
「うるさーいッ! 馬鹿馬鹿言うなー!」
とうとう珠理は怒り出して、順平の頭をぽかぽかと叩き始めた。
何というか、お互いよく頑張ったと思う。順平は脳内でそう結論付けると、振り返って立ち上がり、珠理の頭を撫でてやった。始めはムスッとしていたが、程なくして表情が緩んでくる。
「さて、そろそろ夕食にすっか」
「……うむ!」
とは言ったものの、順平は冷蔵庫を開けるや否や、
「ぁ……」
顔を戦慄の色に染めた。
次いで珠理も横から覗き込んで、凍りついた。
「ぁ……」
そう言えばそうである。丁度昨日、冷蔵庫の中身を全て切らしてしまったのだった。そして今日は、買い物に行っていなかったのだ。
「ごめん、何もないわ」
「──みたいだね」
「……」
「……」
暫しの間沈黙が場を支配する。都会の夕陽が仏壇の写真を虚しく照らして、心なしか、そのふたつの表情は淀んで見えた。
と、順平があることを思い付く。
「今日は久しぶりに宅配ピザにすっか」
「そだね」
「んじゃ電話するから静かにな」
「りょーかーい」
「ピザ、40分位で来るってよ」
言って、珠理の方を見やる。珠理は手元のスマホを見つめながら、脚をパタつかせていた。
「ん、それまでどうする?」
「俺は部屋に戻るよ」
「じゃ付いてく」
「付いてくんな」
「付いてく」
「それやってりゃいいじゃん」
「もう終わる。終わった」
「いいから自分の部屋行けよ」
「えぇー……どぉしてぇ……?」
突然珠理が態度を一変させ、熱い息を込めて言ってきた。両手を顎の下辺りで軽く合わせ、顔の位置はそのままに、視線だけこちらを見据えてくる。必殺、上目遣いである。しかも、両腕は丁度胸を挟むようにしており、部屋着の上からでも視認できる程、その大きさが強調されていた。
──コイツ、色目使ってきやがった……!
順平はそんなことを思いつつも、珠理の年齢相応──否、それ以上の発育を遂げる妹の肢体から、目を逸らせなかった。
濡羽色の艶やかな髪、
透き通るような柔肌、
豊満な双丘、
けれども華奢で端整な肢体。
改めて見れば、自分と血縁関係があるとは思えない体付きだ。一語で言えば、「美少女」と、異口同音に唱えるだろう。
「なぁに生唾呑んでるの? もしかして私と、気持ちいいことしたい?」
珠理が顔を近付けてくる。その双眸は潤んでいて、艶やかさを際立たせていた。
「こっ珠理……? さささ、流石にそれはマズいってばッ!」
と、順平が頬に脂汗を浮かべて狼狽えたところで──
「……ふふっ、お兄ちゃんもまだまだだねっ」
珠理がフッと、元に戻った。対して順平は、きょとんとしてしまう。
「? おいまさかお前……演技だった?」
「んー、そうでもないかなー」
「いやまあ演技だった方が嬉しいんだが」
「むー、私はお兄ちゃんにならいつ襲われてもいいんだけどなー」
「……ノーコメントで」
結局、順平はひとり自室に戻り、再びパソコン。珠理は一眠りするとのことで、リビングに残った。尤も、ものの40分で眠れるとは到底思えないが。
「はぁ……またか」
半ば無意識に、溜息が溢れる。それは決して自身が疲労している訳ではない──今開いているウェブページに向けられたものだった。
見ているページは、某匿名掲示板サイトのスレッド一覧。「安価」でページ内検索し、『1件中1件目』と表示されている。
少ない。少な過ぎる。
順平は遠い目をして昔時に思いを馳せた。
安価は絶対。
そんな掲示板社会が形成されてからどのくらい経っただろうか。利用者──所謂住人が刑罰を恐れて安価スレは衰退し、今では稀少スレと成り果てた。
無論社会と言えど、それは掲示板の中での話。現実社会は相も変わらず廻り続けるから癪に障る。結局はマイノリティが屯するスラムの現状など、忙しない毎日を送るビジネスマンや健全な日々を過ごす学生が知らないのも無理からぬことだった。そしてそれが、安価スレの減退を後押しする形となっている。
この社会形成の全ては、『絶対安価至上法』の成立に起因する。この忌々しい法案こそが、以前の安価文化を崩壊させ、善として統制しているのだ。
──などと歎嗟したところでこの法律が削除される訳はない。国民である以上、法には従わざるを得ないのが実際だった。
「はぁ……」
もうひとつ溜息が漏れる。
やがて、順平は口の端をニィっと上げて、
「しゃあねえ、いっちょやったるわ」
あまりよく知らない関西弁を、それっぽく言い放った。手元ではキーボードを操作し、スレッドタイトルに『安価行動するwwwwwww』、本文には『>>5する』と打っている。
「……なーんつって」
順平はそう言って、バックスペースを押した──筈だったのだが、押してから気が付いた。エンターの乾いた音が、室内に響いて消える。
「おい……マジかよ」
ねっとりとした汗を浮かべながら、スレッド一覧から今し方建てたスレッドを開く。レス数は疾うに5を超えており、20強。5には、こう書かれていた。
『>>10と殺し合う』
順平は戦慄したが、直ぐに眉根を寄せた。
レス番号10が、自分と同じIDだったのだ。掲示板に於いて、通常IDは日付とIPアドレスに依存するから、同じIDということは基本的に同じ日付で同じIPアドレスであることを示す。だが、順平にこのようなレスをした覚えは無かった。
帰結は、恐ろしく残酷なものだった。
「珠理……」
と、そこで、
──ピンポーン
軽快なチャイムが鳴った。ふと画面右下の時計を見る。時間的にみて、宅配ピザだろう。順平はそう思ってドアノブを握ったが、そこで止めた。
もしかしたら、受け取りの最中に後ろから襲われるかも知れない。可愛い妹を疑いたくはないが、その可能性がある以上、態々殺されには行けない。ここはパソコンに夢中で気付かなかったことにして、もう2コール程待つことにしよう。
だが、順平は直ぐさまそれが杞憂だったと気付く。ドアの向こうをドタバタと横切る足音がしたのである。聞き違う筈なく、珠理だった。
順平は胸を撫で下ろすと、ノブを捻ってドアを開ける。途端、冬の夕刻の冷気が吹き込んできて、順平は鳥肌を立てた。
玄関を見やると、珠理が宅配ピザのバイト君と対峙していた。と思ったが、違う。今順平の目に映っているのは、彼よりずっと小柄な女性だった。この過疎アパートの隣に住む、千堂リカ──いつもは笑顔の絶えない、明るい女性だ。しかし今、その目は虚ろだった。
「ごぇ…ぁさぃ」
彼女が何か言った。が、順平には聞き取ることができなかった。
と、順平に気付いた珠理が振り返る。刹那、珠理の頭上でキラリと何かが光った。
「あ! おにーちゃ──」
珠理はそこで言葉を止め、一拍置いて、顔から倒れて突っ伏した。
「ぇ……?」
一瞬、順平には何が起こったのかが分からなかった。しかし、倒れた珠理の背中を見て、気付く。そこには明らかに異質な、『それ』が突き刺さっていたのだ。
恐怖、嫌悪、憎悪、はたまた他の要因か、順平は『それ』を目にした瞬間、体の制御が効かなくなった。否──正確に言えば、体を動かすことを忘れていた。
そして『それ』こそが、彼女の異様さの原因──目的を示していた。
「……」
彼女が無言で、珠理の背中から包丁を抜き取る。
「ぅ……」
瞬間、珠理が小さな呻きを上げたので、順平は我に返った。
「珠理! 大丈夫か!?」
言って、珠理の元に駆け寄ろうと一歩前進するが、
「おにぃ……ちゃ、来ちゃ……ダメ」
「ああ、わかってるからもう喋るな、深呼吸だ深呼吸」
そう。リカの目的は珠理ではなく、順平だ。その証拠に、彼女は既にこちらを睨め付けている。
順平はキッと視線を鋭くした。背中にはふたつの責任が重く伸し掛かっている。
「……」
「……」
数秒程の間、沈黙が流れる。
今、この場は緊張感に溢れていた。何か音がしたならば、彼女はすかさず襲い来るであろう。
──キシッ
それが、合図だった。彼女は包丁の赤い切っ先をこちらへ向けると、歩を進めてくる。元々靴など履いていなかったのだろうか、彼女の足は靴下だった。
順平は、それを認めたのち、踵を返す。
奥のリビングに行けば、武器が調達でき、また、家具があるため逃げやすい。ひとまずリビングへ避難して、体制を整えよう。そう思った矢先、
「んなッ!?」
あろうことかその考えは、儚くも崩れ去った。
順平の目前に聳えるのは、ドア。どうやら部屋から出た際、閉め忘れたようだ。全身から一気に汗が噴き出してくる。
ドアを閉めるという手もあったのだが、咄嗟の判断に冷静さは皆無だった。順平は自室に入ると、部屋を見回して武器になりそうな物を探した。
「……アレだ!」
目に付いたのは、キーボードだった。そして、それを乱雑に掴み上げ──ようとしたところで、それに繋がったコードがビンッと張り、それ以上持ち上げることができなくなった。
「クソ、取れね──え……?」
と、そこで。
順平は、視界の右側が、刹那にして赤く塗りたくられるのを見た。
安価スレを映すパソコン画面が、
コードに繋がれたキーボードが、
そして、順平の右腕も。
「あぎぃぃぁぁぁあああああああああああ!!」
痛覚が機能したのは、それから数瞬後のことだった。
いつの間にか右腕全体の感覚は無くなっていて、代わりに右肩に、耐えられない程の激痛が走った。
痛い。痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
空気に触れているだけで、何も動いていないのに、痛い。熱い。
「ひぎぃぃぃぃいいいいいい!!」
順平は入り乱れ、のたうち回った。
パソコン画面を蹴り倒し、リカを左手で殴り飛ばし、クローゼットに頭突きをかまし、フローリングに右肩を打ち付け、再び悶絶する。部屋中に、血液を撒き散らした。
「ぐあぁ……」
今、順平はクローゼットの前で横になっている。右肩が床に当たっているが、もう順平には何が痛みかわからなくなっていた。
眼前には、朧気にリカの姿があった。先程振り下ろした包丁を、パソコンを載せていた台から抜こうとしているのが見て取れた。どうやら振り下ろした際、刃が台に食い込んでしまったようだ。が、台は木製。包丁は台によく食い込んで抜きにくくなっている。不幸中の幸いと言えるか、順平はまだ生きることを許された気がした。
程なくして、彼女が包丁を無事抜きとった。刃はすっかり真っ赤に染まっており、余った液体が刃先から滴り落ちる。
「……」
一歩、一歩と、肉薄するリカ。結局、最後まで無言だった。
そして、最期の刃が振り下ろされる──。
順平は潔く目を閉じた。
──ん?
いつまで経っても痛みも音もしないから、順平は目を開けた。
「ぁ……?」
すると、リカが包丁を振り被った体勢で固まっている。
霞む目を凝らすと、彼女の左胸──丁度心臓の辺りから小さな刃が突出しており、それを中心に血が滲み出ていた。
「ぁ……く……」
彼女が微かに呻きをあげ、やがて、くずおれた。同時に、後ろからひょいと、珠理が現れる。
「……お兄ちゃん、私やったよ!」
「よくできたな……偉い、偉い……」
「そぉ? なら……」
言いながら、珠理が頭を差し出してくる。
順平は苦笑して、その黒髪を撫でてやった──。