04.足掛かり
【安価】
ネット用語。アンカーのこと。 元々は過去の発言に対するレスポンスの意味。
多くの掲示板では、対応する書き込みを指定すると、分かりやすいようにリンクが貼られる仕様になっている。
これを逆用して「未来のレス番号」にアンカーを向けることで、さまざまな遊びに利用するようになった。
*****
「あー……死ぬ……」
うだるような夏の暑さだった。
時間が経つにつれ教室の窓から、こちらを覗き込もうと段々傾いてくる太陽が憎らしい。
折角クーラーがあるのに節電とやらでそれはつかないし、白い半袖のセーラー服の下に着ているインナーは汗でべたべた。最悪。
胸にかかるくらいまで伸びた髪も暑苦しくなってきて、そろそろ切り時かもしれない。
私は机に突っ伏しながら、それなら美容院代をママからどうやってせびろうか試案していた。
「はー、退屈だー」
毎日がつまんない。
昨日も、今日も同じような毎日が過ぎ去っていく。多分明日も同じ。
学校に行って、友だちと話して、休日は遊んだりなんかして。
それも悪かないんだけどなんか物足りない。
かといって何か夜遊びしたりするような勇気なんかはさらさらなくって。
あー、でもホントに暑さと退屈とで死んでしまいそう。
「ねえ、チヒロ、安価スレって知ってるー?」
机に突っ伏している私に話しかけてくる声がする。
このやわらかくて甘い声の正体はユウナだろう。
「え……?あー知ってる、知ってる。歴史上の人物名でしょ?ジョン・アンカスレーだっけ。私、次のテスト範囲の勉強なんてしたくないよ」
突っ伏していた顔を上げると、たれ目がちでポニーテールの女の子が目の前にいた。
やっぱし、ユウナだ。
最近、席が隣同士になってから意気投合して一緒に過ごすことが多い子だった。
のんびりしたような子でわたあめユウナと呼ばれるくらいふわふわしている。
「何それ?そんな人いないでしょ。もー!適当に言わないでよー、安・価・ス・レだよ」
あんかすれ?案?餡?駄目だ、わかんない。というか考えるのがめんどくさい。
「知らない、おやすみー」
「あー、ひどいなー。折角、チヒロの退屈を救ってあげようと思ったのに、じゃ、いいですよーだ」
ユウナは、欧米人がやるみたいに、大げさに肩を上下させてやれやれと言いたげな眼でこちらを見据えて来たと思いきや、どんどん表情が悲しげになっていく。
ちょっとマズかったかな。
「ウソだよ、ちょっと、ユウナ、聞かせてよ」
ユウナが拗ねてしまった。
わざとらしく彼女は唇を尖らせてほっぺを膨らませている。
「ユウナさまー、この私の退屈をどうか救ってよー」
私が上目遣いで両手を合わせてお願いをすると、彼女も観念して笑顔に戻ってくれた。
「いいよ!でも、詳しいことはやっぱり次の土曜にしよっかな。その時のお楽しみだね。場所はいつものチヒロの部屋ね」
「えー!……うー……おーきーどーきー」
今度は私が唇を尖らせることになった。
ユウナはまるでお仕置きだよと言わんばかりの笑顔で、たしなめるように唇へ人差し指を押し当てて来る。
うーん、こうなると一度決めたことは彼女、めったに曲げないからなあ。
そうして、仕方なく私は次の土曜日を待ち望むことになった。
いつも以上に日が過ぎるのが遅く感じられる。生殺し状態はかなりキツい。
この間の私はまるで干からびたミイラみたいだと友だちが心配していたらしい。
そして、待ちに待った土曜日。
インターホンを鳴らしたユウナをさっそく部屋に招き入れて、本題を切り出す。
「でさでさ、どうすんの」
安価スレが大体どんなものかはユウナからメールで教えてもらった。
絶対安価至上法という法律があって、"安価は絶対であり、守らなければ罪になる"ということらしい。
でも、実際のところ安価スレはこの法律が施行される以前から徐々に減っててマトモに使われたかはうんぬんかんぬんとか。
そこらへんは興味ないからあんま見てないけど。
都市伝説のようなものだろう、検索してもよくわかんなかったし。
私は信じてない。
「最近また、安価スレが流行り始めたらしいんだよー。あたしの友だちも立ててたし」
私がパソコンの電源をつけると、ユウナはブラウザを起動して大型匿名掲示板のサイトを開いた。
「で、どうだったの?」
「画像アップするのに手間取ってたらしいんだけどね、安価が決まってから暫くしたら警察が来たんだって!家の前まで!ちゃんとアップ出来たら帰っていったらしいんだけど。ホントかなあ」
椅子ごとユウナは私の方に向き直る。
そう言う彼女の眼は爛々としていた。
意外と度胸が据わっているんだな。
彼女の新しい一面を見た気がした。
ユウナも日常の退屈に飽きて、スリルに飢えていたのかな?
大人っぽい黒とグレーのバイカラーミニワンピと無邪気な子どもっぽい表情がなんだか微妙にズレていて面白い。
「えー、ウソじゃないの?それ。てか、警察がホントに来るならヤバくない?」
「安価を守ればいいだけの話だよ、最近のログ見ても大体出来そうなのばっかだったしー、なんか変なのもたまにあったけど。チヒロ、もしかして怖い?」
ユウナにけらけら笑われて、私はちょっと恥ずかしくなった。
言わなきゃ良かったな。どうせ来ないに決まってる。
もしかしてビビってると思われてたりして?
何か言いかえそうと思ったけれど、ユウナはすでに回れ右をしてパソコンと向かい合ってしまっていた。
私は仕方なく言葉を飲み込んだ。
たどたどしい手つきでユウナはキーボードに指を滑らせていく。
「『今から>>1が>>15の安価する』これであたしが、まずやってみるねー」
えいっ、と言ってユウナが送信ボタンを押すと暫くのあと、一覧に彼女の建てたスレが現れた。
スレを開くとすでに3レスついていたけれど、その内容はkskやkskstなんていうよくわからない英字の羅列。
「ちょっと時間かかるかもねー」
そういうと、しばらく、ユウナは携帯に眼を落としてしきりに画面をタッチしていた。
「緊張するねー、ムリなのだったらどうしよ」
椅子に座っているユウナは、くりくりした大きな眼をパソコンのスクリーンのほうへ移し、下唇を噛んでそれを見つめている。
それを見ていると、彼女が緊張してるんだっていうことが私にまで伝わってきた。
そして、つぎに更新ボタンをユウナが押すとどっと数十レスほどまとめて画面上に表示された。
よくもまあ短い間にこんなに書き込んだものだ。
「えーっと、>>15は……?」
ユウナがカーソルを下ろすとレス番が下がっていく。
そして現れたのは。
「『部屋うp』……?私の部屋?ユウナ、全く関係ないんだけど」
これじゃ、私の安価じゃん。
ちょっと気に入らない。
「まぁまぁ……『安価は絶対』だからさ。でも、この下にあるえっちなのじゃなくてよかったよー」
ユウナは自分の携帯端末を取り出して部屋が一番綺麗に写る位置を探して撮り始めた。
何枚か撮ると納得出来たのか、せわしなく動いてコードやらを繋ぎ写真を取り込みアップロードを済ましていく。
「……アップ完了!あとはレスして、これで終了!どう?大丈夫そうでしょ?ドキドキしたね。チヒロはやるのかな?やめる?」
「うーん……」
私はユウナみたいに『安価は絶対』だなんて信じてるわけじゃないけど、確かに安価が決まるまでのあの緊張感みたいなのは悪くなかった。
「やる」
まあ、ユウナがやってるのに私がやらなかったら「いいんだよー、でもチヒロって案外怖がりさんなんだねー」なんて言われかねないのもあるからだけど。
私はゆったりとキーボードを叩く。
指定する安価のレスは何番にしようか……
よし、決めた。
「『>>1が安価で>>50をやる』これで建てる」
「安価遠くないかなあ?」
「さっきも一瞬だったじゃん。これくらい大丈夫でしょ」
さっきよりちょっとだけ長く緊張感を味わってやろう、安価されたのをやるかやらないかは別にしても。
出来るものだったら、まあ、やってあげてもいいけど。
スレが立って画面が更新されると書き込み数がもう10になっている。
『これさっきの部屋の奴じゃね?』
『男?女?』
『部屋的に女の子かな?とりまksk』
スレにはこんなようなことが書かれていた。
さっき立てた人間だとなんでわかったのかと思ったけれど、画面上を見回すとすぐに察しがついた。
「うえー、なんでさっき立てたってわかるんだろ?」
「この横に出てるIDがあるからじゃない?」
自分や他の人のレスに指を指す。
「なるー、さすがチヒロー」
振り向くとユウナは笑顔で頭をコクコクさせている。
顔の前で携帯を掲げて、何故かムービーを撮っていた。
「なにしてんの」
「"証拠"だよ、"証拠"」
あー、後でスレを立てたとか言ってた友だちとやらに見せるのか。
ユウナが「結局こなかったよー」と言って、友だちから嘘に決まってるじゃん、と笑われるところまで簡単に想像出来た。
1度、2度と更新ボタンを押していく度に指数関数的にレスは増えていく。
そうして4度目のボタンをクリックしたときにはすでに50なんて優に越えていた。
ゆっくりと下げていき、指定の>>50を見てみるとこう書いてあった。
『全裸で家から最寄り駅まで往復、動画もうp』
一瞬、あまりにも非現実的な内容だったから頭の回転が追いつかなかった。
でも、段々と目の前に書かれていることが理解出来て来る。
「はー、バカバカしい。何でこんなことしなきゃいけないのよ」
これならひとつ上のレスの、鼻からパスタを食べながら逆立ちして町内一周の方が断然マシだ。
そこまで思ったときに、自分がすっかり安価法なんてものを気にしてたことに気付いて、少し笑えてきた。
そうだよ、こんなことやる必要全くない。
「で、でも、"安価は絶対"ってさ
、みんなも。ほら、怖いよー」
相変わらずのユウナに少しイライラしてきた。
そういえば、昔イジメられてたとか笑って話してたことがあったっけな。
確かにユウナのこういう性格は人によってはムカつくのかもな。
「ユウナ、そんなのウソに決まってるでしょ?アンタ、友だちにからかわれてるのよ」
お前の手に持ってる携帯は何のためにムービーを撮ってたんだよ、と言いたくなる。
私の全裸での奇行を撮影するためじゃないでしょ?
「……そ、そうだね、チヒロがそう言うんだから間違いないよね。あたし、緊張して汗かいちゃったよ、あはは……」
そういってユウナは携帯を置いて、私のベットの上に腰を下ろした。
「飲み物入れてくるから、ユウナはここで待ってなよ」
「うん!ありがとー」
台所へ降りてふたり分のコップを出し、冷蔵庫から取り出したジュースをとくとくと注ぐ。
私は戸棚を開いてお菓子の準備をしながら、安価スレも一時の暇潰しにはなったけど大したことはなかったなと思った。
また退屈に逆戻りか。
ジュースとお菓子を持って自分の部屋まで戻っていくと何故かユウナが驚いた顔をして窓を覗いていた。
「そ、そ、外みて……!」
持って来たものを小さい丸テーブルの上に置く。
何かに指を指しているようだった。
「どうしたの?ユウナ?脅かしはなしだよ?」
ユウナに促されるがままにカーテンから外を見ると、前の道路にはパトカーが止まっていた。
中から警察官が出てきてこちらへ向かってくる。
「……ウソでしょ……?」
インターホンが鳴ってる。
まさか、あんな下らないことごときで警察が来たの?
いやいや、ありえない。
「た、多分べ、別のことで来たのよ。ちょっと出てくる」
階段を駆け降りて、玄関へ向かう。
心臓の鼓動がどんどん早くなってる。
とっさには思い付かないけど、何か別の件で来たに違いない。私はそう思い込む。
玄関のドアを開くと体格のいい警察官がそこにいた。
「えー、絶対安価至上法違反の方は貴女ですか?少し上がらさせて頂きますね。令状はありますので」
彼は私に書面を突きつける。
私が絶対安価至上法違反だって?
「ちょ、ちょっと!」
警察官は靴を脱いで家にあがってこようとしていた。
「うわー、やっぱホントだったんだねー」
ユウナが階段を早足で駆けてきたようだった。
今この場では場違いなような笑顔を彼女は浮かべている。
そういう雰囲気じゃないんだってば。
「うーんとね、短い間だったけどありがとう、チヒロ。今まで楽しかったよ」
「は……?」
「どうしても、どうしても、どうしてもあたしにはね、復讐したい相手がいるの」
思わず言葉が漏れる。
この子は何を言ってるの?
訳がわからない。
「だから、試したの。騙したわけじゃないよ?ちゃんと言ったもん」
頭が真っ白になる。
ドヴォルザークの『新世界より』が脳内で再生されている。
ユウナが私を騙した……?私がユウナに騙された……?
「な、なんで私なのよ……?」
ふらふらと、足で立っているのもつらくて、近くの靴箱に体をもたれかける。
「なーんかいつも退屈そうにしてて、煽るとすぐ流されて、扱いやすそうだったから、かなあ?でもよかったね、今から退屈しなくて済むよ!」
今まで黙っていた警官はどちらが安価を守らなかったのかを聞いてきた。
私が口を半分開いたまま呆然としていると、ユウナが言葉を発した。
「この人です、スレ立てしたの。しかも安価を守らなかったの。あたし、ちゃんとムービーも撮ってます」
あのムービーはそういうことだったのか。
私は利用されたんだ、復讐の予行練習として。
私は考える間もなく外へ向かって駆け出した。
ドアの前にいる警官を押しのけて、必死に外へと。
「とにかく、逃げるしか……!」
パパやママならわかってくれるはずだ。
とにかくこの訳の分からない状態から抜け出したかった。
でも、ドアを開けて外へ出た瞬間、足をかけられた私の身体は宙に浮き、そのまま重力に従って地面に打ち付けられた。
「……いっつつ……!」
立ち上がろうとするけど、途端に両腕をきめられて身動きが取れなくなった。
抵抗しようとしても逆に痛めつけられて肩の関節が悲鳴をあげる。
身体の上、ちょうど私のお尻の上部辺りに警官が馬乗りになって手錠をかけてくる。
「困るよ、お嬢さん逃げようとしちゃ。まあ君に限った話じゃないんだけど」
彼の声にはやれやれ、いつものことだといわんばかりの響きがこもっていた。
「パパぁ、ママぁ助けてよ……わたし、利用された……!悔しいよ……」
ユウナがあんな子だったなんてとか、まさか騙されるなんてとか、これから私はどうなるのだろうとかそういう一切が頭の中をぐーるぐーると回っていた、走馬灯みたいに。
「チヒロのこと、キライじゃなかったよ……じゃあいってくるね」
ユウナの黒いハイカットスニーカーが倒れている私の眼前を横切っていった。
涙が溢れて、前が見えなくなっていく。
無責任な彼女の言葉が腹立たしかった。
退屈だった毎日がいとおしい。
それがどれだけありがたかったのか今ではわかる。
こんなのは望んでなかった。
「死んじゃえ!この糞ビッチ!私はアンタなんか大キライよ!」
私は自分自身とユウナを恨みながら虚しく叫んだ。
さっき打ち付けた拍子に切れたのか、口内には血の味が広がっていた。
絶対に、絶対に、絶対に私は許さない。
「見てろ……」
もはや頭の中には唯一のことしか浮かんではいない。
そう、たったひとつ。
ユウナ、アンタを、どん底まで突き落として、必ず復讐してやる。