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02.安価で遊ぼう!

【安価】

 ネット用語。アンカーのこと。

 元々は過去の発言に対するレスポンスの意味。

 多くの掲示板では、対応する書き込みを指定すると、分かりやすいようにリンクが貼られる仕様になっている。

 これを逆用して「未来のレス番号」にアンカーを向けることで、さまざまな遊びに利用するようになった。


*****



 夜遅くまでパソコンばかりしていると目が悪くなるぞ。

 僕はキーボードを叩く麻衣の背中にぶっきらぼうに言葉をぶつけた。彼女からは返事がなかった。僕は仕方なく彼女の後ろ姿を眺めてその場に立ち尽くしていた。彼女はキーボードをカタカタ鳴らし、時たまマウスを操作している。かと思えば、手を後ろに伸ばして延びをし、モニターが暗転した時には前髪を確認したりする。そんな何気ない仕草を、僕はただ見ているしかなかった。


 彼女は僕と同棲する前から、パソコンが趣味だった。僕はイマイチ機械類に疎かったので、彼女の趣味が高尚なものか下賤なものかわからなかったし、人の趣味に口を出すほど野暮でもなかった。

 

以前、僕がどうしても家のWi-Fiの繋ぎかたがわからず、仕方なく彼女を頼ったときは、彼女のその作業の手際の良さに驚き、感心した。彼女はそこで言った。

「こういうことって逆じゃない?」と。

「どういうこと?」僕は首をかしげた。

「普通は女子が男子にケーブルとかパソコンの無線通信とかの接続を頼むんだってば」


 こんなことがこの後も数回あったから、僕は麻衣のパソコンの能力をすっかり信じていた。僕自身、パソコンの基本的な操作を彼女から教えてもらったりした。


 同棲してからも僕は彼女の趣味に寛容だった。だけれど、彼女が毎日パソコンいじりに熱をあげているのを見ると、時たま寂しくなる。ちょうど今のように。寂しくて、小言を言ってみたりもする。ちょうどさっきのように。

「夜遅くまでパソコンばかりしていると、目が悪くなるぞ」


 返事のない彼女の、その一挙止一投足に視線を送っていると、彼女は居心地が悪そうに振り向いた。

「目が悪くなるって、もう悪いんだけど」とこちらを睨んできた。

「だから私普段はコンタクトだし、今は眼鏡かけてるんでしょ」

 彼女はわざとらしくため息をついた。僕も大きな黒ブチ眼鏡の麻衣にため息をついた。

「今より更に目が悪くなるぞ」

「別にいいよ」

「でもさすがに毎日毎日パソコンやりすぎじゃないか。いったい何にそんなに熱中しているんだよ」

 僕がこう訊いた瞬間、彼女の眼鏡の奥に妖しい光が見えた。

「私が何をやってるか知りたいんでしょ」

 彼女は鼻を鳴らして得意気に口角をあげた。その顔をよく見ると、頬が以前よりもたるんでいて、それが僕はイヤに気になった。

「全部わかっているんだから。君は私のいる世界に来たいんでしょ。だから目が悪くなるとかテキトウな事言って。本当は私がパソコンでなにやってるか知りたいだけのくせに」

 あまりにも彼女の指摘が図星だったから、僕はもう気にせずに、彼女の座る椅子に背もたれに肘をおいて、彼女の肩口から首だけだしてモニターを見つめた。


「これ、スレッドっていうの」

 麻衣はこのサイトを「大型ネット掲示板」だと言った。彼女は僕にそれについての一通りのことを説明した。説明を受けながら僕はひとしれず安堵していた。なんだ、彼女も僕と同じじゃないか。彼女もまた人とのつながりを求めて毎日キーボードを叩いていたのだ、と。


「安価スレなんかが面白いんだよね」

「安価って何?」

「スレッドの未来の書き込みを指定して、その書き込みで指示されたことを実演するアソビ」

 知識のない僕にそうやって説明するときに彼女は自然体だった。心地よいけだるさを纏っていた。それに対比されるように、ちらちら目にはいる匿名の書き込みの内容が下品なものが多い。僕は顔をしかめた。それでも、彼女の世界を共有するためだからと、おそるおそるマウスを操作して、あるひとつのスレッドを開いた。

「『総理大臣になった者だけど、>>5の法案を国会に提出する』だって」

 僕の開いたスレッドを彼女は読み上げた。それから、愉快そうに、そういえば最近選挙あったね、とその選挙で当選した党の代表の名前をあげた。


「旭日党だっけ?」

 僕はパソコンほどではないが政治にも疎かった。もちろん選挙には行っていない。それでもニュースを見ていれば党の名前くらいは自然と目に入ってくる。

「そうそう。あの党の代表。総理になったらしいけど、実際どうなんだろうね」

 彼女は物憂げに瞼をおとした。彼女もまた、あの首相の政治手腕について不審感があるのだろう。彼女もまた選挙には行っていない。テレビのなかで旭日党代表は、どういう会話の脈絡のなかで言ったのかは失念したが、確かにこう言った。

「国民は指示されたことを忠実にこなせばそれでいいんですよ」

 一党の代表たる男がそんな発言をしたから、他党はよってたかって、大失言だ、ファシズムだ、と騒いだ。その後この旭日党が突出した票数で比例代表の首位党となったことを聞き、いったいどんな力がはたらいたんだろうということが僕と彼女の間で一時ハナシの種になった。


「これ、本物かな」

 僕は心配した。日本の最高権力の内閣総理大臣がこんな軽薄なスレッドをたてているとは思えなかった。国の法律をそんなに簡単に変えられてしまっては困る。というか、国の未来を憂いて熟考すべき人物がこんな時間にインターネットで遊んでいる時点で大問題なのだが。

「まさか」彼女は一笑に付した。

「でもホンモノだったら、日本の未来は相当ヤバイな」

 僕が他人事のように嘯くと、彼女は「ないない」と呆れ半分で目をこすった。


 そこで、唐突に僕はこのスレッドに何か書き込んでみたくなり、彼女にその旨を告げた。

「でも、別に何を書き込みたいってワケじゃないんだ」僕が沸々と湧き上がる曖昧で実のない欲求に困惑していると、彼女は僕に、

「じゃあ、こうレスしなよ」と言って、入力欄にこう打ちこんだ。

『安価は絶対』

 意味を問うと、彼女は

「安価で決まったことを守らないヤツにはこうレスするの」と面倒くさそうに、僕にマウスをクリックするよう促してきた。僕は躊躇わずにクリックした。

「はい。これで君の書き込みが反映されるよ」

 見れば、僕の書き込みはそのスレッドの>>5をとってしまっている。彼女はそれを見て、小さく呟いた。

「案外このスレ勢いがなかったんだね」

「これどうすればいいの?」

「ほっとけばいいんじゃない。どうせ釣りだろうし」

 釣り。彼女は僕に気をつかうそぶりを全く見せずに専門用語らしき言葉を用いた。かといって知識の多少を自慢しているわけでもない。僕が「釣り」の意味を求めても顎をついて「フィッシング」としか答えなかった。さっきからずっとこんな調子だ。


 彼女は僕を自分と同じ世界に連れてこれて少しは満足しているようではあった。だけどそれでも、彼女はどこか面倒くさそうで、退屈そうで、会話もぶっきらぼうだった。知識のないぼくにいちいち教えるのが面倒なのだろうか。いや、違う、と僕は手を振った。僕の家のネット回線の接続を快く引き受けてくれた彼女なのだ。


 では何が彼女を退屈させているのか、僕は頭を捻った。そして最終的に思い当たったのが、僕だった。僕のこの受動的な態度だった。そういえば僕はずっと、彼女から一方的に説明を受け、相槌をうちながら最小限の参加しかしない、そんなスタンスをとっていた。さっきだって、彼女が僕の小言を拾い上げてその意図を指摘してくれなければ、僕はパソコンの光が目に与える影響についてのハナシを延々続けていたかもしれない。彼女はそんな僕の性格に飽きてきているのだろう。看板を前にして案内されるのを待っているような僕に退屈を感じているのだろう。


 そんなことを考えながら、彼女の頬のあたりのたるみと、こうこうと明るいパソコンのモニターを交互に眺めて、僕はあることを思い付いた。

「僕にもスレッド立てさせて」

「君が? なんて書き込むの?」

「『今から彼女と>>5する』って安価を出したい」

「何、考えてるの?」彼女は怪訝そうに眉をひそめた。

「いいから早く」はやる気持ちのせいで、彼女の手の上からマウスを操作してしまった。

「この格好だと、私が君にパソコンを教えて貰ってるみたいだね」彼女は感慨深そうに二、三度大きく頷いた。


「立てたよ」

「ありがとう」

「何するのか教えてよ」

 僕は彼女の言葉を無視してモニターを見つめた。二個、三個と書き込みが増えて行く。彼女は僕の様子を不思議そうに眺めている。僕は唾を飲み込んで集中した。そして>>5を狙って、書き込んだ。

『笑う』


 書き込みの反映がなされるまで、僕はまばたきができずにいた。

「やったじゃん。君スナイパーだね」彼女が小さく興奮した声をもらした。

「でも、自演だけどね」

 彼女が、安価スレのタブーだよ、となだらかに僕を諌めたが、既にその声が僕の耳に入ってくることはなかった。その代わりに、楽しい、と僕は声にならない声をあげた。なんだ、僕にもできるじゃないか。簡単じゃん、パソコン。僕の中で自信が色づきはじめていた。


「じゃあ、『今から彼女と笑う』ってことでいいんだよね」僕は余裕たっぷりの念押しをした。

「なんでここで『笑う』なの?」彼女は再び眉をひそめた。

「じゃあ、『今から彼女と日本征服』がよかった?」

僕は僕のレスの一個下の書き込みを指差した。驚くことに、その書き込みは僕の>>5とたった0.1秒の差だった。

「それはもっとイヤだけど、でも今ここで急に笑えっていわれても無理なんだけど」

 彼女は笑えという僕の要求をなおも肯じえなかった。


だから僕は言った。


「ほら、でもアレがあるだろ? あの言葉」わざととぼけてみせたのだ。

「ああ」と彼女はその瞬間、思わず目尻を下げ、徐々に顔を崩して、ついに声を出して笑った。単なる失笑ではなかった。僕も堪えきれなくなって吹き出した。

「な、そうだろ? 『安価は絶対』だ。だろう?」

 僕の言葉に、彼女は相好を崩した。彼女は満面の笑みとはいえなかったけれど、こんなツマラナイことでも笑いあえるとやっぱり幸せなんだなあと心に思う。


 僕は彼女の世界でもうまくやっていけそうだ。今までは彼女がひとりでいた世界に僕が遊びにきてもいいんだ。一気に頭が軽くなるような感覚がした。


 けれど、いつかは彼女を僕の世界に連れてこよう。今でこそ僕と彼女の間だけの笑い声だけど、ブラウザの閉じた世界では笑顔がこの部屋に充満するのではないだろうか。彼女の笑顔がカーテンに染み込む日をささやかに願った。


 僕はもう一度響きを反芻するために呟く。

『安価は絶対』

「君、それ言いたかっただけでしょ」

 その指摘があまりにも図星だったから、僕の顔はみるみる赤くなった。

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