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バタフライエフェクト

 【部下】


 ――憂さ晴らしだった。

 今日も野崎に理不尽な説教を喰らった。喰らい過ぎて些か過食気味である。それこそ毎日朝昼晩と法則の決まっている食事の回数よりは説教を喰らっているだろうし、そのぐらい野崎にはお世話になっているがもちろんそれは皮肉である。嫌味である。

 嫌味と言えば野崎だ。

 野崎は――あいつはとことん嫌味な人間であるし、なるほどどこを切り取って租借しても嫌な味しかしなさそうな人間だった。嫌悪感という名の細胞で構成されているのではなかろうかと疑いたくなるほどの、それは例えば美味しそうに見える見た目に反し食べても害しか与えてくれない菌糸類だったり、腐った小麦粉で外面だけ綺麗に整えられ捏ね上げられた食パンのような存在だった。

 野崎は、あいつは見た目だけは良い。凡そ見てくれだけは褒められた――いや、あとそこそこ切れる頭も少しは賞賛に値するかも知れず――まあ私以外と接触しているときのコミュニケーション力の高さも侮りがたいかもしれないが――しかしそんなことはどうでもいいのである。決定的に性格が悪いのだ、あいつは。その性格はそれだけで重罪であり、その事実だけで裁かれて然るべしである。

 野崎は、あいつは東京タワーの展望台から見下ろすコンビニに設置されている燃えるゴミのゴミ箱に入っている鼻をかんだティッシュを見るような目で見下しているであろう私以外への気遣いと言うか対応が、まあ良くいる出来た人間というか、好青年というか、気さくな態度で接しているから、私以外に彼の本性に感づいている人間は居ないだろうが、しかしこの間彼は会社近くの定食屋に繋がれていた犬に思いっきり吼えられていたので、あの聡明な犬には内面の汚さが感づかれているのかもしれなかったが、とにかくあいつの腐った人間性をいつか衆目の元に晒したいというのが私の野望だった。

 今日なんかは書類に一箇所誤字があったというだけで、誤字だけに五時間とは言わないまでも昼休憩の一時間を丸々使って説教された。何も食べてないのに胃がもたれたと錯覚するぐらいにはしつこく、結局その休憩では野崎に渡されたカロリーメイトしか口に出来なかった。少食の私には丁度良い量だったから気にならなかったが、しかしチーズ味だったことが腹立たしかった。嫌いなわけではなく、好きな味だったからこそ腹立たしいのだ。私は好みのカロリーメイト如きで買収されるほど安い男ではない。野崎は私をたかがカロリーメイト一箱で懐柔しようとしたのだ。私が不服そうな顔をすると、もう一箱出してきたがそういう問題ではない! 私はますます腹立たしくなって、席に戻るとカロリーメイト一箱分をまるごと一気に口に入れたが、当然粉っぽくてむせた。水分を求め自販機でミネラルウォーターを買ったが、きっとそこまでが野崎の作戦だったのだろうから、あいつは腐っている。性根が悪い。

 ――憂さ晴らしだった。

 時刻は七時半。ノートパソコンのモニターと向き合って電脳掲示板を閲覧していた私は、とあるスレッドに目を奪われた。俗に言う『安価スレ』である。安価スレが政府によって管理されだしてからはや一年、滅多にお目にかかれなくなったものだと感慨が深い。司法的強制力を持ったこのスレッドでは、新たなテロ集団が誕生しただとか新生アイドル(私もファンである)が登場しただとか、そんなようなことをニュースで見た記憶があった。ちなみにそのアイドルはうちの会社の近くでたまに目撃されるらしいが、私はまだ見たことがない。

 そういえば一時期、野崎がそのテロリスト集団の一員であり、野崎の建てた新居はそのアジトになっているらしいという噂を耳にしたことがあるが、私はその荒唐無稽な噂話に心底腹を抱えて笑った記憶がある。確かに野崎は政治的主張の強い側面があり、よく説教の場に政府批判なり国政批判なりを絡めてくるけれど、しかし流石にだからと言って、「あのお宅に娘さんが産まれたらしいですよ」みたいなノリで、「あのお宅はテロリストのアジトらしいですよ」というのは些か面白すぎている。そんな噂を立ててしまうテロリストなど、政府を転覆させれるわけがない。通報されて終わりである。

 とにかく。

 どうやら面白そうなものに巡り合った、と思った。

 丁度いい憂さ晴らしである。

 まだ産まれたてのスレッドをダブルクリックで切り開く。

 

 【***】

 

 去年新築したばかりの愛おしい我が家には、覆面を被った男が五人居る。

 そのうちの四人はノートパソコンをバラバラに開いていて、残った一人が僕に銃を向けている。僕の家族はロープで拘束されていて、銃を向けられている僕は、しかし呑気に電脳掲示板を開いていた。銃を向けている覆面がこもった声を発する。

「安価スレって知ってますか?」

 僕が帰宅したとき、ただいまの挨拶に返事が無かった。いつもならば玄関先まで迎えに来てくれるはずの娘が、今日に限って現れなかったから寂しかった。そういう年頃なのかと寂しかった。ドアの向こうに見るリビングの電気が消えていて、ああ留守なのかもしれないと安堵した。施錠もせずに無用心だなと妻を叱ってやろうと思った。今が留守中だということは、夕飯までにはまだ少し時間があるということだから、昼飯にカロリーメイトしか食べていない僕は少しげんなりしたけれど、そのときリビングから物音がして、ああそういえば今日は僕の誕生日だったなとか、そんなことを思い出した。だとしたらこれはサプライズで、このドアを開けるときっとクラッカーの音がして驚かされるだろうから、その準備をしておこうと思った。

 ドアを開けた――火薬の弾ける音がした。

 クラッカーではない、もっと暴力的な破裂音だった。破壊的な火薬の臭いだった。耳が痛くなるほどに大袈裟な音だったから、パーティーというには物騒すぎる印象を受けた。

 ――銃声?

 何となくそう思った。

 照明のスイッチを押した。

 浮かび上がったのは、五人の覆面の男たちと愛すべき妻子の姿で、ああこれは即ち、監禁というか束縛というか、そういった状況なのだろう、その妻子たちはロープで手足を拘束されていた。五人のうち一人が僕に銃を向けていて、残りの四人はビジネスバックを提げている。せめて銃の矛先が僕で良かった、なんて見当違いのことを思った。

「我々の指示に従えば、君の妻子の命は保障しよう」

 僕に銃を向けている男がそう言った。または違う男が言ったのかもしれないが、覆面をつけているため釈然としない。僕の足元には銃痕があり、先程の発砲は威嚇射撃だったのだろう、どうやらあの銃は本物らしかった。

「僕は何をすればいいんだ」

 覆面の上からでも分かるような笑みを、銃を持った男が浮かべた。そして覆面の一人が僕にビジネスバックを投げ渡し、どうやら中身を取り出せということらしい、僕は中に入っていたノートパソコンを取り出した。銃を持っている男以外も同じようにノートパソコンを取り出して腰を落としている。折り畳まれたノートパソコンを開くと、画面には電脳掲示板らしいサイトが表示されていて、僕は当然呆気に取られた。

 何が始まるというのだ。

 何かが終わりそうな予感がした。

 

 

 【X】

 

 

 俺はXという文字が好きだ。

 ローマ数字では10を表す。

 数学では未知数を表す。

 俺はこの、Xという文字が好きだ。

 俺は今銃を握っている。

 俺は覆面をしているから未知数だ。

 銃で未知数のこの俺は、だからこそXが好きだ。

 Malcolm X が好きだ。

 彼は夢半ばで息絶えたけれど、俺はそうじゃない。

 たまたま近所に住んでいた彼ら家族には申し訳なく思っている。

 謝罪もするだろう。

 しかしだからと言って俺たちが悪いとは思わない。

 歴史上最も攻撃的な指導者だった彼のように。

 俺はXが好きだ。

 俺は銃を持って言う。

「安価スレって知ってますか?」

  

  

 【部下】


 

 『安価先>>10』と書かれていた。

 血が滾って指が動く。今の書き込み数は二件なので急げば間に合うかもしれないとキーボードを叩く。内容を考えている暇は無いから、脊髄反射的に出た言葉を書き込んだ。指示内容は『住所うp』。社会的にダメージが出るだろうという目論見で思い付いたのだが、いやなるほどなかなかどうして良い指示だったかもしれない。悪い意味で良い発想だったかもしれない。個人情報を自ら流さなければいけない状況というのは見事に滑稽である。小気味良いものである。

 書き込む、というハイパーテキストをクリックし、更新されていくページを見守る。鼓動が熱く、心音が痛い。どうだろう、結果が気になった。それは宝くじの当選発表を見るよりも現実的で、受験の合格発表を見るよりも胸踊る確認だった。

 マウスを使いスクロールする。文字列がゆっくりと進んでいる、というよりは、感覚が過敏になって緩やかに見えているというような感じだった。順を追って書き込みを滑らしていく。


1 名前:以下、転載禁止でVIPがお送りします

 安価先>>10

2 名前:以下、転載禁止でVIPがお送りします

 拳銃を一00丁手に入れる

3 名前:以下、転載禁止でVIPがお送りします

 拳銃を一00丁手に入れる

4 名前:以下、転載禁止でVIPがお送りします

 かおうp

5 名前:以下、転載禁止でVIPがお送りします

 顔うp

6 名前:以下、転載禁止でVIPがお送りします

 うまい棒一万本買う

7 名前:以下、転載禁止でVIPがお送りします

 拳銃を一00丁手に入れる

8 名前:以下、転載禁止でVIPがお送りします

 拳銃を一00丁手に入れる

9 名前:以下、転載禁止でVIPがお送りします

 そうめんうp

10 名前:以下、転載禁止でVIPがお送りします

 住所うp


「よっしゃああああああああああ!!」

 咆哮を抑制しようとするストッパーもなく、ただただ溢れ出てくる叫びは止め処ない。大脳はアドレナリンによる支配下にあり、その支配的空間においては右脳や左脳などと言った区別は全く機能しておらず脳全体が感動というか興奮をただひたすらに受容するだけの器官と成り下がっていた。

 自分でも驚いてしまうぐらいの喜びようで、逆にそれが、私の冷静さを引き寄せた。

 何故こんなに嬉しいのだろう。

 私は人に嫌がらせをすることが心底好きなのだろうか。

 いや。

 突き詰めればただの憂さ晴らしであり八つ当たりであるが、しかし今はどちらかと言うと、選ばれたということにこそ感動なり興奮を覚えていた。非日常だったりドラマチックだったり奇跡だったり、人は特別性というものに恋焦がれる性質を持っていて、それは恋愛や労働やギャンブルなんかの持つ魔性に抗うことが出来ないということであるけれど、これは、承認欲求というものと相似なのかもしれない。または合同なのかもしれなかった。

 かくいう私も、野崎に認めて欲しかっただけなのかもしれない。

 選ばれたかっただけなのかもしれないと、そう思った。

 いつの間にかスレッドには有象無象が跋扈している。書き込み数は裕に百を超え、流れを追うことが困難となっている。住所は公表されたのだろうかと画面を流し見る。野次馬どもの野次のせいで目に五月蝿く、目標の人物の書き込みは見つかり難い。

 そして見つけた。

 

152 名前:以下、転載禁止でVIPがお送りします

  石川県金沢市○○○ー○

  次安価>>200

 

 ――ん?

 なんだか見覚えのある文字列と言うか、住所だった。それは――ああそうだ年賀状の宛先である。私はこの住所に年賀状を送ったことがあり、その文面がなっていないと説教を喰らった憶えがある。

 つまり野崎だ。

 あの辺りの新興住宅街は確か、こんな住所だった気がする。

「まさかな……」

 疑惑の念は晴れず、しかし次の目的は既に公示されていて、時間的な余裕はない。思い付いたのは本名である。本名を聞けば、否応なく野崎か否かが明確になる。

 私は素早く打ち込んで送信した――。


 

 【***】


 

 覆面たちは見るからに憤っていた。

 なるほどこの男たちは、僕に何かしらの行動を起こさせたいらしかった。それも武力による脅しではなく、司法の力による強制力が必要であるらしい。僕にやらせようとしていることは、自分たちではできないようなことで、僕にしかできないことなのだろうか。

 この場合疑わしい書き込みは一つしかなかった。

 四件全く同じ内容が打ち込まれているという時点で確信的だ。四人と言うのは、ここでノートパソコンを操っている覆面の人数と合致する。そしてなにより、この長い文章をあのほとんど一瞬のあいだに打ち込むという芸当は、およそコピー&ペーストでも使わない限り不可能だ。物理的に不可能であると言える。

 コピー&ペーストであれば、この時間に『安価スレ』が立つということを予め知っていなければならず、そしてそれを知っているのはここにいる僕らだけなのだ。

 つまり彼らの目的は――。

「おっと、余計な詮索はしないでくださいね。俺たちには人質が二人居る。あなたを含めて三人だ。その意味をどうか忘れないでください」

 ぞっとするような脅し文句を銃を持つ男が言う。

 恐らく僕が彼らに逆らえば、最初に殺害されるのは妻だろう。そして次が娘で、最後が僕だ。僕の命などは捨ててもいいが、妻子の命だけは守りたいと、そう思う。

「僕は、どうすればいい?」

 ちょっと待っててください、銃を持った男がそう言うと覆面たちは集まって、どうやら話し合いを始めるらしかった。聞こえてくる言葉は物騒染みていて、僕は僕のこれからが少しだけ不安になった。

「思っていたより勢いが早いな、どうする?」

「この際拳銃は諦めるっていうのはどうだ?」

「これから絶対に必要になってくるものだろ」

「しかし、ここであの目的を達成しなければ」

「拳銃はいつかどうにかできるかもしれない」

「ただあの目的だけは今じゃなければ駄目だ」

 拳銃を持った男がそういうと、覆面たちはみな頷いた。なるほどこいつがリーダー格なのだろう。彼の言うことには正当性があり、説得力があるみたいだった。

 気付いたことが一つあった。

 恐らく彼らには財力がないのだろう。

 だから僕に法的な力を持って拳銃を買わせようとした――しかしそれはあくまでも最終目的ではなく副次的なもの、つまりついでのようなものらしいが――ということはつまり、やはり彼らはいま巷で話題のテロリスト集団なのだろう。争いが全く生まれていないという意味においては平和であると言ってもいいこの社会で、まあ国家に不満を持っている人間だって少なくはないのだろうけれども、しかしやはりテロリスト集団として存在し続けるのには限界がある。限度がある。争いが生まれないというのはつまり、それだけ国家の支配力が強大であるという証でもあるからだ。内敵も外敵もすべてまるごと押しつぶせるだけの圧力があるということだからだ。つまるところ、財力という最大の武器を持たないテロリスト集団なんかが存続し続けることなど、それこそ国家の力でも借りない限り不可能と言うことである。

 『安価スレ』による法力は何事においても最優先されるという『安価絶対至上法』――つまりそれは他のどの法律もこの悪法の前では効力を持たないということであり、なればこそ、国家権力も行政権力もこの悪法の前では無力化してしまう――いや。無力化というよりは助力化というか、法的圧力の前で従うしかない行政機関はむしろ逆に、この法を遂行するために尽力しなければならない。

 ただし国家を転覆することは、少なくとも『安価スレ』の効力ではできない。この政府の成り立ちに安価スレが関わっていて、その存続も安価スレにより強制されているらしく、だからこそ反逆行為を行った時点で件のテロリスト集団もむしろ、保護対象から駆逐対象に移行するとか――。

 と、ここから先は余計な回顧だった。

 問題はそこではない。

 彼らがしていることは立派な犯罪行為であり、反逆行為であるから、この時点で彼らは国家からの保護という防護服を脱ぎ捨てていることになる。つまり彼らにとってこれは、この一連のテロ行為は、最後の戦いなのだろう。自分の命を捨てることすら決意した、決死の戦いなのだろう。そこまでして彼らは何をする?

 彼らの目的はなんなのだ?

 彼等の最後の一手は、果たして国家転覆の切り札足りえるのだろうか――。

 呑気にそんなことを考えた。



 【X】

 

  

 我々の目的は言うまでもない。

 国家転覆である。

 それが俺たちの最終目標だ。

 その為にこそここに居る。

 死ぬ覚悟でここに居る。

 これは最後の戦場だ。

 自由を取り戻すための戦争だ。

 安価スレで生まれた俺たちが、安価スレで決着をつける。

 悪くない結末だ。

 俺たちはもうこんな不自由に飽き飽きしている。

 こんな平和であれば必要ない。

 周りにいるのは理想を共有し合った仲間たち。

 同じ理想の元に集った同志たち。

 思えばあの時も賭けだった。

 テロリスト集団を作るための賭けだった。

 俺がスレッドを立てて、仲間が書き込む。

 そうやって生まれた俺たちが同じ事を成し遂げられないわけがない。

 次に書き込む内容は決まっている。

 俺たちの仲間は次にこう書き込む。

 ――今の政府の中心人物である首相を銃殺しろ。

 

 

 【部下】

 

 

 結論から言えば、安価を踏んだのは私ではなかった。しかしだが、恐らくこのスレッドの創造主が野崎だろうということは大体確信できた。次の指示内容は『今日のお昼ご飯を言え』。彼の回答は『カロリーメイトチーズ味』だった。当選できなかったことは当然とても悔しくはあるけれど、今回安価を踏んだ人はなかなかの馬鹿でだからこそいい仕事をしてくれた、と思った。お昼ご飯にカロリーメイトチーズ味を食べる人間なんか野崎ぐらいだ。いや私もだったが、しかしそれも野崎によるお裾分けだったのだから、実質野崎の食事である。

 正直、笑いが止まらない。

 どんなことを野崎にやらせようか。どんな風に普段のお返しをしようか。どうやって辱めを与えようか。どういう嫌がらせをしようか――

 どうして――そんなことができるというのか。

 私は知っていた。

 野崎のあの皮肉的な態度は、なによりも直接的な思い遣りだったではないか。悪いのはいつも私の方だった。今日だってたった一箇所の誤字くらいで休憩時間をまるごと使って叱ってくれたじゃないか。私のために休憩時間を返上してまで説教してくれたじゃないか。それが愛情でなくて――なんだと言うのか。

 私はこれを最後だと思ってキーボードを叩く。

 既にこのスレッドも埋まりかけで、もちろんこの流れの速さだから、私のお返しが届くという保障はない。恩返しできるという確証はないけれど、しかしそれでいい。だって彼への一番の仕返しは、私自身が成長することだからだ。

 なんだか感傷的な気分になった。

 とにかくこれでいい、と私は自らの最後の文章を見返す。

 これでいいのだ。

 感謝の気持ちを乗せて、私はマウスをクリックした――。

 

 

 【***】

 

 

 そういえば人に昼飯を聞くのが趣味だと言う人間が、うちの会社には居たなとか、そんなどうでもいいようなことを思い出した。今日はそいつのせいでカロリーメイトしか食べられなかったが、けれどそいつを恨む気にはなれなかった。僕はそいつのことをどうしようもなく嫌いではなかったからだ。

 最後の安価先を指定してから、僕はただただ安堵した。もうすぐこの酷く脆い空間から開放されるからである。何より妻子の安全だけは確実になってくれる。それだけで良かった。

 恐らく私はもうすぐ、犯罪者となってどうなるか分からないけれど、まあきっと妻や娘には大変な思いをさせてしまうことになるだろうけれど、それでも、命を失ってしまうよりはいいだろうと信じて、僕はただこの流れを見守った。

 生きていればきっといいことがあるだろうと信じて、見守ることにした。

 覆面の男たちの顔色は、覆面に隠れて見えはしていないけれど、なんとなく焦りの色が見える。彼らにとってはたった一度残されたチャンスであり、最後の希望なのだろうから、それに縋りたくなる気持ちは分かる気がした。僕自身、今の政府に良い感情は抱いていない。彼らは縛り付けることによって治世しているけれど、それはつまり抗うという自由を奪っているということだ。

 国民の不自由による、国家の自由。

 それに反発したいという気持ちは、僕にだってよく分かる。分かるというよりは、それは僕自身の気持ちでもあるのだ。自分と同じだからこそ分かるし、だからこそ――その間違いにだって気付いてしまう。

 そうだ。

 彼らは間違っている。

 僕たちの自由を引き換えにして、得たものは平和だ。多少の不自由さを受け入れることによって争いも戦いもない社会になった。それの何が駄目なことだと言うのだろう。何を変える必要があるのだろう。

 彼等のしていることは、反抗期の駄々っ子と同じだ。学校という檻から、家庭という枷から、縛られているだけのことを嫌がって反抗しているのと何も変わらない。その檻によって守られていることにも気付かず、その枷によって救われているということにも気付かず、不平を漏らして不満を垂らして、不義を働いているのと何も変わらないのである。

 理想という名の悪夢を夢見て、格好つけているだけの少年だ。

 いつか現実を見なければいけない。

 不自由だからこそ活きる自由というのもある。不自由の中にこそ生まれる自由というのも存在する。少なくとも争いの起こる世界で、誰にも生きることを保障してもらえない世界で、娘を生きさせたくはない。

 そう思った。

 まもなくスレッドは埋まる。この悪夢は終わりを告げる。僕は見守ることしかできない。娘の行先も、この覆面たちの薄っぺらい理想の終末も、見守ることしかできないのだ。

 僕はとても安らかだった。この自由のない選択肢のない事態において、僕にできることはほぼ皆無だった。これ以上ない不自由さに、とても安堵した。何も選択する必要がないというのは、これ以上にない自由さだった。

 僕はウェブページを更新した。

 そのぐらいしか、することがなかったからだ。

 

 

 【X】

 

 

 は?

 

 

 【部下】

 

 

「よっしゃああああああああああああああああああああああああ――っ!!」

 最後の最後にもう一度選ばれた私は、とても幸福だった。選ばれるということに生ずる快感は、きっと他のどの娯楽より酷く強大なものだ。この場合の幸福は更に、野崎への恩返しができるということで上乗せされていた。

 野崎の喜ぶ顔が目に浮かぶようだった――いや、それは違う。正確には、野崎の笑顔が画面に浮かぶようだった――いや、それすらも違う。浮かんでいるのではなく映っている。実際に映り出ている。JPG方式で表示されていた。

 笑顔ピース姿で、映っていた。

 ――全裸で。

 私は一人で腹が捩れる思いをするほど笑った。痛い。腹筋が痛い。口角が痛い。痛い痛い痛い。面白すぎて痛すぎる。私がそんなこと、野崎への恩返しなど、考えるわけがないじゃないか。野崎への最大級の恩返し。これは皮肉ったらしい野崎に対する、最大級の仕返しであり恩返しでありお礼返しであり仇返しだ。

 野崎の顔を見てもう一度爆笑する。

 野崎はあまりに苦痛な行いのせいで、普段の顔とは全く違って見えた。

 そう、あまりにも別人だった。

 そこまで顔が変わるほど喜んでもらえて、本当に良かった――本当に顔が違う。崩れに崩れすぎてあまりに別人……

 ……いや。

 それすらも違った。こいつは、いやこの人は――

 だれなんだ?

 どう見ても野崎ではない。もしかして、間違えたか?

 ま、いっか。

 僕はPCの電源を落とした。

 

 

 【だれか】

 

 

 救われたのか救われていないのか、よく分からない。結果的にいえば、彼等の安価スレでの内乱は、見事失敗に終わった。見知らぬ誰かが最後の安価を踏んで、彼等の野望は文字通り踏み躙られた。

 僕への嫌がらせとしては大成功だったのだろうけれど。

 警察が来たのはその数分後のことである。僕の会社の知り合いが、たまたまこのスレッドを見ていたらしく、きっと僕に何かあったに違いないと緊急通報用電話番号に連絡してくれたのだ。警察は当初、公然わいせつ罪で僕のことを逮捕しようとしたが、しかしそれよりも先に妻が事情を話して、計画が倒れて文字通り倒れこんでいた覆面軍団を連行して行った。脅迫罪とか暴行罪とか殺人未遂とか住居侵入罪とか器物破損とか銃刀法違反とか国家転覆罪とか、どの罪がどのくらい覆面たちの重荷になっていくかは分からないけれど、しかしそこはかとなく、僕をはずかしめた責任くらいは取って欲しいものだと思った。警察の人曰く、僕の処罰はどうなるか分からないというが、まあ余程悪すぎることにはならないだろうとの事だった。

 とにかく妻と娘の命が無事だったことだけは、明確に慶事だった。

 このテロリスト達は、去年ぐらいにこの新興住宅街にアジトを構えたらしく、まあ確かに言われてみれば、覆面を取った素顔になんとなく見覚えぐらいはあったかもしれない。

 これで良かったのだろう、とも思う。

 いや、僕個人的なことを言わせていただければ、決して今回の事件が良かったとは到底言えはしないけれど、しかもよりによって会社の知り合い――僕の会社は芸能事務所で、僕はマネージャーだった――に僕の全裸画像を見られてしまったかもしれないということは正直享受しづらい現実でこそあったけれども、だが、しかし一社会人として、彼らにお灸を据えれたことは良いことだと思えた。

 娘たちの平和は、少なくとも保障されたのだから良かったのだ。

 銃を持っていた男――確か名前は野崎、と言っただろうか――の顔はとても悲惨だった。悲しみやら悔しさやら何やら様々込み入った感情によって、なんとも形容しがたい様相になっていたというか、有り体に言えば、まあ顔面が酷いように崩壊していたというような感じだった。

 彼の素顔を知るものが見れば、あまりにも別人に見えたことだろう。

 なんとなく、そうなのだろうと思った。

 

 

 【部下】

 

 

 今朝会社に着くと、なんと野崎が逮捕されたという噂が広まっていた。どうやら本当にテロリストだったとかなんとか、そういうことらしかった。

 私の願望はしかし、私の望んでいたものとは全く違う形で叶ってしまったらしい。野崎の本性は私ではなく警察の手によって暴かれてしまった。私の手によってできなかったことが少しだけ腹立たしいが、世界の平和が守られたと思えば、良かったのだろう。

 お昼ご飯を食べようとぶらぶらしていたら、野崎の正体を早い段階から見破り、一人立ち向かっていた勇猛で勇敢で聡明な――例の犬と出会った。

 こんな可愛らしいナリをしていても、彼と私は共に野崎に立ち向かった同志だった。敵の敵は味方――私はこの犬と熱い友情を感じ、昨日野崎に貰ったカロリーメイトのもう一箱の封を開けた。犬も私を認めているようだった。

「何してるんですか!」

 少し遠くから走ってきたのは麦藁帽のようなものを深く被った女性だった。良く見ると犬の首には首輪とリードが装着されていて、なるほどこの犬に振り切られてしまっていたのだろう、彼女は息が切れていた。

「ああ、すみません――この犬とは面識がありまして」

「そうなんですか……でも、この子はカロリーメイト食べないですよ」

 こいつもカロリーメイトなんかで懐柔されるような器ではないということか。ますますこの犬に対する好感度が増した。どうしても仲良くなりたいと、そう思った。

「この方とお近づきになりたいのですが」

 私は飼い主にそう言う。

 彼女は笑って、

「犬、好きなんですね」

 と言った――その笑顔には何故か見覚えがあった。

 どこかですれ違ったことでもあるのだろう。そう結論付けて、私は言う。

「今度この子と三人でお食事でもどうですか?」

 犬がワン、と朗らかな返事をして、彼女は言った。

「この子があなたを気に入っているみたいですし――是非」

 彼女の笑みは綺麗だった。やはり見たことがある。

 そういえば、と彼女は言う。

「今日のお昼ご飯はなんでした?」

「今日はまだ食べていないですけれど……どうしてです?」

「あたし、人にお昼ご飯を聞くのが趣味なんですよ」

 と、彼女は笑った。釣られるように僕も笑った。見覚えのあるその笑顔は、やはりどこまでも見覚えがあって、僕は思い出した。

「昨日聞いた人は、まあ会社の知り合いだったのですが、カロリーメイトしか食べていないって言ってましたね」

「それはもしかして、チーズ味ではないですか?」

「どうして分かったのですか!?」

 彼女は目を大きく見開いて、丸くした。

「実は私も、そうだったのですよ」

「それはとてもすごい――偶然ですね」

 私と彼女はお腹を抱えて笑った

 そう、全ては偶然だったのだろう。

 偶然と言えば、とは言わなかった。

 そういえば、と僕は言う。

「――安価スレって知ってますか?」

 もちろん知っていますよ、と彼女は言った。

 

 The neglect end...


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