盾を持った少年
少女は一人、荒野の中を疾走していた。
右腕からは血が滴り落ち、衣服もボロボロになっている。
足を動かし続ける体力ももはや限界に近づいていた。
けれど少女は走る事を止めない。
十数匹のヘルハウンドに追われていたがために。
「はぁ……はぁ……くっ!」
狼型モンスターであるヘルハウンドは獰猛かつ狡猾。
獣の群れは獲物が弱りきるまで執拗に追い回し、確実に仕留めるべく行動している。
それを少女もまた理解しており、このままではジリ貧だと思い、内心で己の浅はかさを強く恨んでいた。
少女がVRMMORPG、クロスクロニクルオンラインのプレイ資格であるクロクロアカウントを手に入れたのは地球時間で約1年前。
アクアというキャラネームで転生し、この異世界に初めてやってきたのはおよそ3ヵ月前。
その3ヶ月間、アクアは毎日3時間ログインし、アース世界で時を過ごした。
これをアース時間に直すとおよそ9ヶ月という歳月になる。
それだけの期間を生き抜いてきたというのに、彼女は今回このような凡ミスをおかしてしまった。
ヘルハウンドは一匹であるなら討伐ランクはDという判定がなされており、30レベル台のソロでも狩ることが可能と言える程度の脅威度である。
けれど十数匹で徒党を組まれた場合、討伐ランクB以上、レベル50以上のパーティークラスに匹敵してしまう。
現在逃走中であるアクアのレベルは35。
少女は窮地に立たされていた。
こうなってしまった原因は、少女がより効率の良い狩場を求め、自分でも狩れるモンスターが多く生息している地域に赴いたせいと言える。
討伐ランクがDというヘルハウンドを軽視してしまった結果、数で押し切られて撤退するほか無い程に消耗してしまったのだ。
「せっかく……《アース》にやってきたのに……」
地球の時間軸計算でおよそ1年前、新作VRMMORPG『クロスクロニクルオンライン』はβテスト無しで配信が開始された。
ゲームをプレイし始めたプレイヤーはいくつかバグがあるけれど良くできたゲームだなと感動の声を上げていたが、リアルすぎるNPCやモンスター、それに触覚や痛覚といった感覚のありえない再現度を通して困惑し、ゲーム会社および警察機関に通報を行った。
その結果、警察機関によりクロスクロニクルはネットから隔離され、プレイヤーは強制ログアウト、開発元であるゲーム会社『クレオス』本社に捜査の手が入ることとなる。
こういった経緯から行われた警察組織の捜査、及び各種研究の専門家集団による調査の結果、クロスクロニクルは地球とはルールの異なった異世界に繋がっていると推察された。
異世界に繋がっているなどという荒唐無稽な推察には数々の物議を醸し出したが、事実そうとしか考えられないほどに《アース》は独立した世界を構築していた。
そんな異世界への招待チケット、限定1万名様という制限の中で運よく手に入れた、個人のIDナンバーと紐付けがなされている『クロスクロニクルオンラインプレイヤーID』が少女の元に送られてきたのが地球時間における1年前。
このチケットが届けられ、とある特殊な教育機関からいくつかの訓練を施された後に手に入れた第二の自分。
異世界におけるアクアは《地球》にいる自分の分身と言っていい存在だった。
しかしそんな自分の分身が危険に晒されている。
アクアは絶望感を胸の内に満たしていった。
(ここで死んだら終わりなのに……!)
死んだら終わり。
地球人はHPが0になった300秒後に完全なる死を迎える。
そうなった場合、アクアは完全に消滅し、《アース》との交流を絶たれてしまう。
(いやだ……いやだよう……)
たった9ヶ月といえど、アクアという存在は既に自分そのものと言っていいほどの愛着を少女は持っていた。
自分そのものの姿で《地球》ではできなかったことができる己の写し見が消え去る事には、地球人であるなら誰もが恐怖する。
この恐怖はアクアにとって、《地球》における死への恐怖と同等のものを感じていた。
「あっ!?」
そんな死の恐怖に焦ったアクアは足を躓かせてしまう。
また、土ぼこりを上げながら転がる獲物を見て、狡猾な獣達は好機と捉えた。
ヘルハウンドは一斉に少女へと牙を向ける。
(やられる……!)
アクアは目を瞑った。
彼女は9ヶ月という時を獰猛なモンスターが住みつくアースで生き延びてきたとはいえ、地球ではまだ小学6年生。
この状況で目を瞑るなと言う方が酷な話である。
(…………あれ?)
しかし目を瞑ってしまった結果、今起きた現象を認識する事が彼女にはできなかった。
(……襲ってこない?)
そして何時まで経ってもやってこないヘルハウンドの攻撃に疑問を抱きつつ、アクアはうっすらと目を開ける。
「大丈夫か?」
すると少女の目には一人の少年が映った。
背中を見せてヘルハウンドを見据える高校生くらいの年齢らしきその少年を見て、自分は助けられているのだと理解し、お礼を言おうとして少女は勢いよく口を開く。
「あ、あの! ありが――」
「礼を言う前に早く体勢を立て直せ。いつまでパンツを見せてるつもりだ」
「え? あ……」
少年の言葉を聞き、少女は自分の服装がミニスカートである事を思い出した。
また、そのミニスカートは倒れた際にめくれ、少年に向かって股を開いた状態となっている。
これでは今日履いていたピンク色のパンツが少年には丸見えだ。
そう思った少女は羞恥に頬を染めつつも立ち上がった。
「それと回復剤はあるか? あるなら早く飲め。その間は俺が盾になる」
「は、はい!」
突然現れた少年に戸惑いつつも、アクアは指示に従ってポケットから回復ポーションを取り出す。
その瞬間、周囲で唸り声を上げていたヘルハウンドが一斉に飛び掛った。
「あ、あぶない!」
少女は叫んだ。
何故かヘルハウンドが標的にした少年へ向けて。
「大丈夫だ。それより早く回復しろ」
「へ?」
しかし目の前の光景を見てアクアは目を丸くする。
十数匹いるヘルハウンドは少年の持つ盾に受け流され、齧りつく事ができずにいた。
「……早く回復してくれ。時間の無駄だ」
「あ、ご、ごめんなさい!」
アクアは少年の困ったような声を聞き、手に持ったポーションを慌てて口に含む。
そしてその後、合計5本のポーションを飲み干した少女はお腹の中をタプタプさせ、中毒症状に若干の吐き気を催しながらも、左手に持った大剣をヘルハウンドに向けて構えた。
「ありがとうございます。HP回復しました」
「そうか、それじゃあこいつらを一匹ずつ倒してくれ。グレートソードを持っているならできるだろう?」
「え? は、はい」
自分の手に持つ装備品の名称を一目見ただけで当てられたことにアクアは驚く。
加えてグレートソードの武器カテゴリーが大剣で、それを装備してマイナス補正がつかないレベル30以上で得られるジョブの『グラディエーター』である事を察しており、更にはヘルハウンドが30レベル台でも十分に倒せる事を把握しているからこそ言えるような台詞を吐いた目の前の少年に少女は感心してしまっていた。
少年は赤と黒の織り交ざった重装備を着込んでいるところから察するにおそらく戦士職。
今は大盾と小盾を両手に装備しているものの、かつては大剣を装備してこの辺りを狩り場にしていたのかもしれない。
そう考えたアクアは少年の言動に納得してヘルハウンドを一匹づつ確実に仕留めていく。
(でもなんで自分で倒さないんだろう?)
が、少年は守るだけで一向にヘルハウンドを倒す素振りを見せない。
それを見て、もしかしたら少年は自分に経験値を与えてくれているのではないかとアクアは推察した。
パーティーを組んでいない以上、経験値はモンスターを倒したプレイヤーのものになるのだから。
(だとしたらこの人、やっぱり私より格上のプレイヤーなんだ)
少年がアース人ではなく地球人である事は網膜に映るプレイヤー情報ですぐ判別できた。
けれど彼がどれ程の強さを秘めた人間なのかはよくわからない。
ヘルハウンドのいなし方から察するに相当な手錬であることはわかるのだが、スキルは振らないしダメージを受けた様子も無いというのでは判断材料が乏しい。
しかしこうしてモンスターの経験値をあえて譲っているところを見ると、もはやヘルハウンドでは経験値の足しにはならないのだろうという推測が成り立つ。
アクアはそう考え、わざわざ助太刀をしてくれた少年に対して感謝の念を強めていく。
こうしてヘルハウンドを全て倒し終えた少女は、少年に向かってペコリと頭を下げた。
「あの! 助けていただきありがとうございました!」
「いや、別に頭を下げなくてもいい。俺もたまたま通りかかっただけだから」
たまたま通りがかっただけ。
そう言いながら手をひらひらさせる少年の仕草を見てアクアはホッと息をつき、同時に興味を持った。
加えて、命の恩人とも言える少年に対し少女は何かお礼ができないかと思案する。
「あとお礼も必要ない。今のは先輩として当然の事をしただけだから。今後はこんな事が起こらないよう気をつけてくれればそれでいい」
「え、あ、は、はい……そうですか……」
先輩。
それはこの異世界の住民としてでも当てはまり、年齢的にもおそらくそうであるのだろう。
彼は童顔ながらも、背格好から推察するにおそらく15才くらいだろうとアクアは思った。
また、それならば学校でも先輩後輩の立場にあるはずだと思考を続けていく。
「えっと……それじゃあせめてお名前だけでもお聞かせ願えませんでしょうか。あ、わ、私の名前はアクアって言いますっ」
少女は自己紹介としてアクアという名を少年に告げた。
つまり彼女は少年にアースでの名を訊ねたということになる。
本来ならプレイヤーのキャラネームとジョブは顔を見るだけで目の網膜に映し出されるため、聞かなくてもいい事だった。
なのにキャラネームを訊ねるということは、少年が意図的にその情報を伏せているからに他ならない。
「……シン」
「シン……さんですか?」
「そうだ」
そしてそんな彼女の思考を読んだ少年は自らをシンと名乗った。
アクアはその名を聞き、更に質問を重ねる。
「シンさんはどこのギルドに所属しているんですか? やっぱり【黒龍団】か【流星会】あたりでしょうか?」
「いや……俺はどこのギルドにも所属していない」
「あれ、そ、そうなんですか」
ギルドには所属していない。
そんな答えを聞き、少女は僅かに首を傾げる。
通常、腕のいいプレイヤーならまず間違いなくどこかのギルドに所属している。
何故ならギルドに所属していたほうが効率的な狩りができ、仲間同士で装備品やアイテムの融通なども行え、ギルドメンバー同士で切磋琢磨しやすい事から技術向上に繋がる等のメリットがあるからだ。
それに対するソロ、あるいは少数で活動し続けるプレイヤーは装備品の更新も効率的なレべリングもギルド加入者より劣ってしまう。
「でもシンさんってお強いですね……私もソロで頑張ってるんですけど……」
「特に理由がなければギルドには入っていたほうがいい。ソロの生存率なんてたかが知れてるんだから」
「そう……ですか……わかりました」
アースでソロを貫くことはほぼ不可能。
それは学校の先生も口をすっぱくして言っている事だった。
アクアはその先生があまり好きではなかったが、自分を助けてくれた少年もそう言うのであればそれは正しい事なのだろうと納得した。
「それじゃあ今度からは気をつけなよ」
アクアの了解する声をこの話の区切りと見たのか、少年はそう言って少女に背を向けて歩き始める。
「あ……」
けれどこれで少年とお別れするのも寂しいと感じてしまい、少女はつい彼を引き止めてしまった。
「あ、あの! やっぱりお礼はさせていただけませんでしょうかっ!」
アクアの声に反応してシンが振り向いた。
少年の顔には困ったというような表情が浮かび、ぼさぼさ頭を手で掻いている。
「とはいってもな……」
「…………」
アクアにはシンが何を言いたいのかがわかった。
お礼などと言ってもそれほど高価なアイテムでないのなら貰うだけ無駄
ヘルハウンドに苦戦する程度のレベル帯にいるアクアから物を貰っても意味は無い。
だからこそ少年はお礼を貰うことを拒否しているのだろうとアクアは思った。
「お礼はこの先にある『テキサス』でのお食事です! 私、美味しいハンバーガーを売っているお店知ってるんですよ!」
しかしそれならばとアクアは考えた。
美味しい食べ物を売っている店を紹介する。
これならば高価なお返しではなくとも、それなりのお礼にはなるはずだとアクアは機転を利かせた。
時刻は丁度昼時。
お腹も空かせているだろうと思い当たり、そこで少女は少年を食事に誘うことを閃いたのだ。
「美味しいハンバーガーか……そういえば最近食べてなかったな……」
「そ、それならご一緒にどうでしょうかっ!」
「……ああ、そういうことならいいよ」
「! ありがとうございます!」
そしてその提案は少年に受け入れられた。
この反応を見て少女は何故かお礼を言い、満面の笑みを顔に浮かばせる。
「こんな事でありがとうって言われてもな……とりあえず村の方に行こう。ここで立ち話をしててもアレだし」
「は、はい!」
こうしてアクアはとある謎の少年シンと一緒に村へと戻る事にした。
その時、彼が《ビルドエラー》と呼ばれ、地球人とアース人の両方から畏怖されている最恐のプレイヤーであったという事を少女はまだ知らない。