◇あふれる
【あふれる】
――…とりあえずクリスが問題なく歩き回れるようになるまでには、6日程かかった。
常識で考えれば驚異的な回復力なのだが、クリスならそれくらいの事はやってのけても不思議はないと思われたのかもしれない。誰もが大きな疑問も感じずそれを受け入れた。
部屋を出て、砦の中を歩き回る。回廊を抜けた所でケイヴィンと出くわした。労りの言葉と、安静の指示を無視している事へのお叱りを受けて、クリスは一応おとなしく、もと来た道を引き返す。
しばらくして渡り廊下で中庭を見下ろし、足を止めた。
――…見つけた。
彼女は籠を抱えている。歩きながら、途中で兵士のひとりに声を掛けられている。笑ってそれに応えてはいたが、クリスにはあれは笑顔に見えない。一度クリスに向けてくれたものとは違う。
――…深手を負ってから初めて目を覚ましたあの日以来、クリスは歌鳥と顔を合わせていない。
世話する手が足りたせいだが、クリスは歌鳥を待っていた。もう一度ちゃんと話したいと思った。なんとなく、クリスの求める答えを彼女は持っているような気がした。
クリスはきびすを返し、廊下を歩き始めた。
*
スッキリしない薄曇りの空の下、籠の中の小芋が揺れる。
さっきの兵士から声を掛けられたのは、さっきで確か3回目くらいだと思う。内容は他愛ないものだが、そうやって話し掛けてくるものが他にも5人ぐらいあって、歌鳥は少々困惑している。
元いた世界では歌鳥に話し掛けてくる男子なんていなかった。それは歌鳥が周囲に対してあまりに厚い壁を張っていたからなのだが、本人が意識していなかっただけで、歌鳥は実は男子の人気は高かった。
それがこちらに来てやけにあからさまになった。どうやらこちらの人々はそういう事に積極的らしく、屈託なく話し掛けられれば笑って応えるしかない。悪意はないのだから決して不快ではないのだが、何せ慣れていない状況だ。
(……疲れた……)
情けなくため息を吐いたところで、歌鳥は回廊の段差に足を引っ掛けた。
「きゃっ」
かろうじて転倒は回避したが、バランスを崩したせいで籠の中身が下に転がる。
「あぁ、……」
膝をついて散らばった小芋を集めていると、不意にそれを拾って差し出してくる手があった。礼を言おうと顔を上げて、歌鳥はその手の主を見る。
「あ、クリスさん」
それに頷き、クリスは小芋を腕に集め始めた。
「あ、……ありがとうございます……」
「ん」
その短い返事に、歌鳥はつい吹き出した。それに気付いたクリスが首を傾げる。
「なに?」
「あっ、……いえ、何でもないです、ごめんなさい」
クリスは不思議そうに歌鳥を見つめる。少し傾けた顔が幼げで、微笑ましい。
「……もう怪我はいいんですか?」
歌鳥が訊ねると、クリスは無言で頷いた。
「……この前」
「え?」
ポツリと零れた呟きに歌鳥が首を傾げると、クリスは確認するようにしながら言葉を続ける。
「ちがうことが、怖いって話……」
あ、と歌鳥は複雑そうな顔をした。
「あの時は……、ごめんなさい」
「?」
クリスは予想していなかった反応に首を傾げる。
「私、なんだか事情もよく知らないくせに、えらそうに知ったような口を利いた気がして……」
「……何が?」
「あ、……え・と……」
口籠もる歌鳥を、クリスは見つめる。
「……はじめて話したときも、その次のときもカトリは謝ってた。……なぜ?」
「え? そ、そうでしたか? ごめんなさい」
クリスが首を傾げる。
「悪いなんて思ったことはない。
カトリはおれがけがをした時、おれが平気かわからないから心配だと言った。なのにどうして、おれの気持ちはいつも悪いほうに先回りする?」
歌鳥の肩が微かに震えた。
クリスの口調に責める色はない。ただ不思議そうに歌鳥の目を真っすぐに見ている。
その無垢な瞳には、ごまかしの通じない何かが漂っていた。
「……え、と……」
――…なぜ?
目を逸らせないまま、歌鳥は自問する。
……だって、いつもそうしてきた。
責められる前に、傷つく前に。
いつだって問題の原因は歌鳥にあったが、いつだってそれは歌鳥に責任はなかった。
歌鳥本人も、そして周囲もそれをわかっていた。だからこそ誰も歌鳥を責めなかったのだ。
――…なら、なぜ?
なぜ歌鳥は、いつも顔を伏せねばならなかった?
「……私、は……」
不意に、クリスの顔に動揺の色が浮かんだ。
どうしたのだろうと瞬いて、すぐにその理由が理解った。
頬を伝う、雫の感触。
「……あ。」
クリスにとっても予想外だったが、歌鳥にとっては更に動揺する事態だった。
「うそっ……、あれ?」
1度それが決壊すると、もう止まらなくなった。
溢れて溢れて、理由もわからないまま頬を、掌を、袖を濡らし続ける。
「違っ……、ごめんなさい、何でもないんです、ごめんなさいっ……、……どうして…っ…?…」
クリスは慌ててハンカチになるものを懐に探していたが、そもそもそんな物を持ち歩く習慣がないので見つかる筈もない。
歌鳥は必死に声を殺して、涙を止めようと謝りながら俯いている。時折ゆれる小さな肩が痛々しい。
ひどく胸がざわついて、クリスは困り果てた。
クリスには自分が泣いた記憶がなく、誰かが泣いているのを慰めた経験もなかった。必死に記憶を辿り、どうするべきか頭を回転させる。しかし答がわからない。
わからないなりに、クリスはゆっくり手を伸ばし、歌鳥の頭に触れた。
「……」
「……ごめん、なさい……」
「いい。カトリは悪くない」
歌鳥は目を見開く。
……その言葉は――…
「……私、……」
しぼり出される、積年の思い。
「私……、嫌われる事が怖かった……」
クリスは首を傾げたが、促すでもなくただ頷いた。
「私のせいじゃないって……思っても、何も、変わらなかった……。
いっそ本当に私のせいなら良かったのに……私のせい、なら、自分で解決できたの……に……」
父親がいなくなったのは歌鳥のせいじゃない。
母親が死んだのは歌鳥のせいじゃない。
祖母と伯母が不仲だったのも、歌鳥が何かをしたせいじゃない。
歌鳥を幸せにしない全ての要素が、歌鳥の行いとはまったく無関係のものだ。
「仕方ない……って、……私のせいじゃないって……言い聞かせてきて……。でも、そうしたら、誰かのせいにするしか……、なくて……。
……でも駄目なの。誰かのせいにしてしまったら、今度こそ私のせいで私が嫌われる……」
「……、ん」
事情はまったくわからないが、言っている意味はなんとなく理解出来た。頷くクリスの声は、染み入るほどに柔らかく淡い。
「そんなの気にしなければいいのに……。他人にどう思われるかばかり気にして……悪いほうばかり目について……、……いつも……」
「ん……」
「……嫌い……。私、こんな私…、私が一番嫌いですっ……」
顔を覆ったまま、歌鳥は俯いている。なおも「ごめんなさい」と呟いて。
指の間からこぼれ落ちる雫を見やって、クリスはそっと、歌鳥の腕を下ろさせた。触れた指が、涙で濡れた。
「だいじょうぶ」
相も変わらず、抑揚に欠けるその声。
「おれはカトリをきらってない」
涙で濡れた瞳を丸くして、歌鳥は顔を上げてクリスを見た。
無表情。しかし無垢そのものの顔がそこにある。
「カトリが泣いても、おれはカトリをきらわない。
だから謝らなくていいし、おれの気持ちは考えなくていい」
赤紫の澄んだ瞳が、滲むほど濡れた濃紺の瞳を見る。
視界が潤んだ。
クリスの顔が見えない。けれども握ってくれた手の感触だけは鮮明だった。
――…後にもクリスと幾つかの言葉が交わされた気がしたが、歌鳥はそれを後日になっても思い出す事が出来なかった。
ただ、人前で声を上げて泣いたのは、記憶にある限り初めての事だったと思う。
***
――…セヴァルスタに雨期が近付いている。
風に混じる水の匂いが草をそよがし、薄藍の空は一層憂いを増してゆく。
――…雨はまだ降り始めてもいない。
***