◇洗礼
【洗礼】
――…雨が降っていた。
(何をしている?)
男の声に、子どもは虚ろな目を向けた。
ひどく美しい柘榴石の瞳だった。
(……俺の言葉が理解るか?)
子どもは頷く。
幼いながらも整った顔立ちをしていたが、肌は見苦しいほどに汚れていた。伸びるに任せた髪と、欠けて形の歪な爪。纏った獣の毛皮には、所々に肉片がこびり付いていた。
(親はどうした?)
ほんの少し、子どもが首を傾けた。それがどういう意志を示す仕草なのか、男には判断が付かなかった。
(……おいで)
差し出された手を、子どもはきょとんとして、ただ見つめた。その子どもは、差し出された手の意味を理解していないように見えた。
(……おいで、お前はここの民にはなれない。いっしょに帰ろう)
降りしきる雨。
咳き込むほどの草と土の匂いに包まれたまま、子どもは自分の手を握った大きな手を見つめた。
(名前は?)
子どもは瞬く。
(親はお前を何と呼んでいた?)
小さな唇が開いて、零れ落ちる、ひとつの言葉。
「――…クリスタル」
***
「――…ああ、よかった。目が覚めました?」
瞼を上げたクリスの視界に、自分の顔を心配そうに覗き込んでくる少女の顔があった。見慣れてはいないが、見覚えはある。
「……カトリ」
「はい、歌鳥です。……具合、どうですか?」
そう問われ、クリスは自分の身体に感覚を向けた。
「……痛い」
無表情のまま呟いて、クリスは視線だけで天井を見渡す。歌鳥が慌てて立ち上がる。
「ああっ、そうですよね、すぐにお医者さまを……」
「いい。寝れば治る」
クリスのその言葉に、歌鳥は困ったような表情を浮かべた。クリスが不思議そうに、その顔を見る。
「……どうして、そんな顔する?」
「どうして……って……。心配だからに決まってるじゃないですか……」
「平気なのに?」
心底不思議そうなクリスの顔を見て、歌鳥は少し呆れてしまった。
「クリスさんが平気かどうかなんて、私にはわからないです。だから心配するんです」
クリスは少し瞬いた。「そうか」と呟いて天井を仰ぐ。なんとなく、このまま眠るのが惜しい気がした。
クリスが目を閉じない事、どうやら本当に平気らしい様子を確認し、歌鳥はほっと息を吐いて、ベッド脇の椅子に座り直した。
「もうすぐケイヴィンくんが、お水とか持ってきてくれると思います」
「……ん」
「……皆さん心配していましたよ。今は何か、大事なお仕事に人手が必要だからと、大勢で出かけてるんですけど」
「……ん」
クリスの返事は無愛想だったが、怪我のせいもあるのだろう、と歌鳥は気にしなかった。
歌鳥の言った“大事な仕事”というのは、ゴーレムの屍体の処理だろう、とクリスは見当をつける。ふと、クリスは歌鳥の方を見た。
「おれ以外、けがは」
「え? ……ええ、何人かいらっしゃったみたいですけど……。でもクリスさんが一番ひどい怪我でしたよ。
……皆さん驚いてました。クリスさんが怪我するなんて、……って。ケイヴィンくんに聞いたんですけど、ここで一番お強いのって、クリスさんなんですってね」
歌鳥のその言葉に対し、クリスは特に自慢も謙遜もしなかった。静かに、開け放たれていた窓の外に視線を向ける。
その向こうに、一羽の鷹が城壁からこちらを覗き込んでいるのが見えた。イリアスのラリーだ。見張りか様子見か、それを見て、一応心配されているのだと思った。
「……出ていく、……」
「え?」
ふと出たクリスの呟きに、歌鳥が首を傾げた。
「出ていく、って……。あ、トイレですか!?」
「ちがう」
慌てて腰を浮かせた歌鳥を横目で見て、
「……イリアスが」
ポツポツと、クリスは言葉を紡ぐ。
「おれは敵とおなじ戦いかたをするから、ここにいてはいけないと言った」
歌鳥は怪訝そうに眉をひそめた。意味がよく理解らないが、とりあえずは話を聞いてみる。
「どうして戦っているのかを考えろ……と言われた。
考えてもよくわからない。わかったような気がすると、すぐに違くなる」
クリスの口調は、まるで子供の喋り方だ。要領を得ず、歌鳥がおずおずと口を挟む。
「あの……、私もよくわからないんですけど、ここの人たちは悪い王様を倒す為に戦っているって、ケイヴィンくんに聞いてますよ?」
「そういうことはおれにはよくわからない。《森の仔》だから」
歌鳥は首を傾げた。
「もりのこ?」
「……おれは森で育ったから、人の世界のしくみがよくわからない。国、っていうしくみも変なかんじがする。……おたがいの顔も見たことのない大勢の生きものが、同じものにまとめられているのは変だ」
「……そう、ですか? ……う〜ん……」
「……同じなら、どうして戦うんだろう……」
語りながら、それでもクリスの表情は変わらない。温度のない柔らかな声は淡々としていて、しかしどこか危うげだった。
事情は全くわからないが、わからないなりに歌鳥は口を開く。
「……同じだから、」
「?」
「同じだから……、少しの違いが怖いんです」
歌鳥は弱々しく微笑む。
「全然違うなら、気にならない。でも少しの違いだと、その“少し”が目に付いて仕方なくなるんです。
……自分とは違う、正しいのはどっち? ……って」
「“どっち”?」
歌鳥が小さく頷く。
「“違い”と“間違い”は似てる。正しくない、って言われてるみたいな気持ちになります。
だから、……怖い」
「……カトリは、ちがうのが怖いのか?」
クリスの問いに、歌鳥は寂しげに笑む。
「……私は違いが“少し”じゃないから……」
その笑みが、壊れるかと思った。クリスは瞬いて歌鳥を見つめた。
「――…カト」
「あ――っ!! クリス起きてる――っ!!」
クリスが歌鳥に呼び掛けようとした声は、部屋に入ってきたケイヴィンの快活な声にかき消された。
「よかったぁ〜! 平気? 痛くない?」
部屋に駆け込んでくる少年の姿を見て、歌鳥は椅子から腰を上げる。
「私、お医者さまに知らせて来ますね。お薬とか包帯も必要でしょうし」
「あっ、うん! お願い!」
水差しを手にしたケイヴィンが笑って、扉に向かう歌鳥を送る。
一礼して少女が出て行った方を、クリスはしばし見つめた。
――…違う。
確かに、彼女はクリスが知る誰とも違う。
何が違うのか、わからないけれど。
*
――…家庭においても学校においても、“浪川歌鳥”という少女は“異物”だった。
嫌でも目立つ容姿、嫌でも目立つ境遇。
歌鳥には友人はいない。周囲に嫌われていた訳ではないし、歌鳥が拒絶した訳でもない。ただ歌鳥は自分の家庭の話を頑なに避け、周囲もいつしか腫物に触れるような扱いをし出し、自然と距離が開くようになった。
そして、それで良かった。
歌鳥は何より、他人との接触が怖かった。
自分が誰かと関わると、必ず誰かを不快にする。そんな気がしていた。
何故なら歌鳥は“異物”だから。
――…なのに、この場所は居心地が良い。
理由はわかっている。
歌鳥がここで“違う”のは当たり前だからだ。“異物”であることを恐れる必要がない。
皮肉にも歌鳥を今まで苦しめてきたものが、この境遇においては歌鳥を守っていた。
***
「――…調子でも悪かったのか?」
イリアスの問いに、クリスはベッドに仰臥したまま首を振った。
ラリーを通してクリスの意識が戻った事を知り、イリアスはすぐに作業の指揮をドルサックに任せて駆け付けた。
そして部屋に踏み込んでからクリスの普段通りの様子を見、イリアスは安心を通り越して虚脱してしまった。
ベッド脇の椅子に腰掛け、呻きにも似た声を発する。
「……俺の言葉のせいか」
どこか沈痛なイリアスの面持ちに、クリスは目を丸くしてすぐに首を振った。
「ゴーレムにやられた」
「知っている。そういう意味じゃない。お前の集中力が欠けていたというのは、俺がお前に言った言葉が原因か。……そう聞いている」
クリスは瞬き、少し考えてから頷いた。
「急所を外すのは難しかった、だから」
「なんでゴーレム相手にそんな事をする!!」
イリアスが張り上げた声は小さな一室に響き、クリスを少しばかり驚かせた。
それに気が付き、イリアスが顔を伏せる。その様子に、クリスは微かに動揺を滲ませた声を掛けた。
「人間で、練習はできない」
「……だから、そういう意味じゃない……!」
イリアスは怜悧な顔に苦渋の色を浮かべる。
「自身を傷つけてまで、他者を傷つけるなとは言わない……。俺が言いたいのはそういう事じゃないんだ、クリス……!」
クリスはただ、微かに困惑した表情でイリアスを見つめた。
「……イリアスはおれがいると、辛いのか」
虚を突くその問いに、イリアスは瞬いてクリスを見返した。
「クリス……、そういう事じゃない」
「辛そうに見える」
「辛いんじゃない。……悔やんでいるんだ。俺はお前に何をしてきたのだろうと」
「……? ……育てられた」
イリアスは首を振る。
――…子供が捨てられると、森の精霊がその子を育ててくれる。それを《森の仔》という。
しかし人間はすでに森にとって“異物”だ。だからだろうか、《森の仔》は皆、子供のままで生涯を終える。
だからイリアスはクリスを森から連れ出した。その時のクリスは、《森の仔》としての寿命に限りなく近い年齢だったから。
しかし、それ故に、クリスという人格は既に完成されていたのだ。
「――…飯を食わせるだけなら獣でも出来る。それではお前を森から連れ出した意味がない……」
初めて会ったあの日と変わらぬ無垢なままの瞳で、クリスはイリアスを見返してくる。
「……イリアス」
「うん?」
「おれは本当に人間なのか?」
その言葉に、イリアスは目を瞠った。クリスの声はどこまでも抑揚がない。
「おれは同じはずの人間の気持ちがわからない。ちがうことが辛くない。
……ほんとうは同じ生きものじゃないからなんじゃないのか……」
「……クリス……」
イリアスは返答に窮し、それでも何か言葉を返そうとクリスの顔を見た。
しかし、それを断念した。問いかけておきながら、こちらの気が抜ける程あどけない顔で、クリスが寝入ってしまっていたからだ。
「………」
ため息を吐き、それでも、ふと笑みがこぼれた。
(……子供の頃と同じ顔で眠るんだな……)
愛しそうに、イリアスはその額を撫でた。……こうしていると、自分がこの子に何を求めているのか、わからなくなりそうになる。
……それでも――…
***