6: 離別する
「人は罪を重ねる。なぜなら、抑えきれない業をこそ、罪と呼んでいるからだ」
そんな詭弁で、罪を正当化できるものか。
「全ての罪は、すべからく許されなければならない。それは慈悲ではなく、罪の在りようによってこそ。罪が罪であるからこそ、ね」
突然、ミルシエーラが覆い被さるように身を寄せてきた。
ファスに乗るために触れ合っていたときとは違う、女性の女性ゆえの柔らかさ重さが、全身に襲いかかってくる。
その瞬間、俺はミルシエーラに恐怖した。
沸き上がるすべてを抑え込み、ミルシエーラの背に手を回す。
すがり付くようにシャツの胸を掴んだミルシエーラは、首を振る。それ以上を求めている証を示そうとするように、顔を寄せてきた。
艶やかに潤いを帯びた長い睫毛が、まばたきに揺れる。
優しく、気立てがよく、人を立てて慎ましく、気が利いて、尽くしてくれる。
そんな人間が、そんな女がいるものか。
ミルシエーラは確かに間違いなく、レテルを好いていた。
個人として俺に迫る理由があるか。
こんなにも優しく奥ゆかしい娘に、俺がどんなに理性の虚勢を張っても消し去ることのできない、極めて人間的な感情を引きずり出されそうになっている。
「待て」
肩を掴んで止める。
ミルシエーラの吐息が首をくすぐった。
「待てません」
指が首を探る。
「待てよ」
「嫌です」
睫毛が頬を撫でる。
「待てって」
「抱いて」
「やめろ!」
ミルシエーラは、肩に額を押し付けて、小さな体を震わせた。
吐いた溜め息が、ひどく重い。
本当に、待ってくれ。
「どうして止めるんですか。……そんなに、私が嫌ですか」
「そんなわけないだろ」
「じゃあ、どうして、」
ミルシエーラは言葉を飲み込んだ。それ以上、その言葉を使う虚しさに耐えかねたのだろう。
言わされる苦しさに胸を詰まらせながら、吐き出した。
「……お前、本当は、レテルに惚れてるんだろ」
「やめてください!」
苦痛に耐えるように、掴んでいる俺の服を、きつくきつく握り締める。
「二度と、それを言わないで……。私は、私には、あなたしか、いないのに……」
うずくまるミルシエーラは小さな子どものようで、しかし、到底触れるわけにはいかなかった。
彼女の体温が、夜闇のなかに浮いている。
「そんな、誰かの決めた規律に、従うことはないだろ」
少し、勘違いをしていた。
神子は人間を捨てていると思っていたが、実際は勇者に捧げていたらしい。
要するに、ミルシエーラが「恋をするとしたら勇者しかいない」のだ。
そんな理由も理屈もない禁忌なんて、意味がないと、俺は思う。
ミルシエーラは顔をあげようとしない。
「怖いんです」
「なにが」
「……たくさんの、ことが」
まるで懺悔するように、ぽつぽつと続く言葉を絞り出していく。
「また、ディエドが来たら。今度は、みんな殺されてしまうかも、しれなくて」
昨日も、ディエドは前触れなく現れた。こんな月のない夜に、突然に。
「もし、なにか、忠志様だけが亡くなることがあれば、私は、どうすればいいのか」
ミルシエーラは顔を俺に押し付けたまま、首を振った。
「もしすべてがうまくいっても、そのあと私は、どうすればいいのでしょう」
「どうにでも、好きなことを、すればいい。神子じゃなくなるんだ。レテルのとこに行けばいいんじゃないか」
「ダメですよ。神子は命に拝する使命。一生、神子は神子のままです」
身じろぎ。
胸のペンダントを握ったようだった。赤い宝石と金細工。
「魔女に呪文を施してもらえば、あとは、魔王を倒すだけです。私の一生の意味は、そこで、終わってしまうんです」
「そんなことは」
聞く耳を持たない様子のミルシエーラに口をつむぐ。いや、言葉が続かなかっただけだろうか。
そこでやっと、ミルシエーラは首をもたげた。
「忠志様は、すべてが終われば、どうされるおつもりですか?」
「さあな」
肩の力を抜いて、空を仰ぐ。
魔王を倒せばどうなるのか、倒すべきなのかどうか。
まだ分からない。
ただ、すべてが終わったら、となると。
「少なくとも、この世界とはお別れだな」
俺はここにいるべき人間ではない。この地に根付く存在ではないから。
いや、しかし、だとすれば。
死んだ俺に、帰る場所などあるのだろうか。
シャツを強く握られ、くたりとミルシエーラの体から力が抜けていた。
「……おい?」
返事がない。
首を傾けて顔を覗き込んでみる。ミルシエーラは眠り込んでいた。
子どもの寝相のように、人の服を掴んで離さない。
苦笑が浮かぶ。
毛布をミルシエーラにも掛けて、溜め息を吐いた。人の温もりを傍らに感じながら、目を伏せる。
きっちり手を出さない気高い誇りに、万歳。
ふんす、というか、はす、というような息づかいが聞こえた。
よく絞った濡れ雑巾で、いきなり頬を撫でられたような感触。
「でぁっ?」
半分だけ起き上がり、緑に繁る森を見張らした。
うるさそうに隣のミルシエーラがうなる。それを背に振り返れば、毛むくじゃらに埋もれる青灰色の瞳が眼前にあった。
「ファス」
ファスは面白くなさそうに、そっぽを向いて離れていく。
「あれ……」
ろれつの回らない曖昧な声。またも振り返れば、ミルシエーラが半分閉じたような目で俺を見上げていた。
寝ぼけたまま頭を下げる。そのまま倒れて寝入るか、という角度でカクリと止まった。
「おはようございます」
「おはよう」
頭をゆっくりとあげる途中で首をかしげ、考え込むように瞑目し、そこでやっとミルシエーラは目を覚ましたようだった。
半ば飛び上がるように距離を取り、体がそこにあることを確かめるように自分の服を撫で付けた。
「なにもしてねーよ」
思わず口調が粗っぽくなる。
ミルシエーラは首を縮めて、赤くした顔を隠すように伏せている。
「は、はい、すみません」
空は晴れ渡り、朝日からは惜しげもなく光が降り注いでいた。
岩山は険しく高かったが、ファスは軽々と登っていく。むしろ振り落とされないよう、しがみついていなければならなかった。
苔むした清水を滴らせる谷まで、ものの三十分もかからない。
「ここが切り裂け谷?」
「ええ。黒の魔女はこの先におられるはずです」
谷の深さは、あっという間にファスの背丈を越え、左右の崖に遮られて日の届かない暗がりになってしまう。谷川のほとりの砂利は狭く、ファスが歩いて精一杯だ。
空気は水気を帯びてヒヤリとしている。湿った岩の臭いが満ち、水が岩を叩くざらざらという音が響く。苔があちこちを覆っている。
高い崖が完全に空まで伸び、まるでトンネルでも歩いているかのようだ。
「なんだか、きれいですね」
ミルシエーラがつぶやくほど、幻想的な光景だった。
切り裂け谷という名前はピッタリのようで、かけ離れている。
しかし、だんだんそうも言ってられなくなってくる。
道はみるみる狭まり、ファスは川に入って進まなければならなくなっていた。
崖は高くなり、日の光は弱くなる。
曲がりくねる崖に遮られて、道の先を見通すことができない。
ファスは滑る岩に慎重に足を置くため、格段に歩みが遅くなっていった。ざらり、じゃらん、と水を蹴る音が続く。
跳ねた飛沫が氷のように冷たい。切るような痛みさえ伴う冷水にさらされて、ファスはもう一時間も歩いている。
「そろそろ、少し休ませたほうがいいんじゃないか」
「でも……休める場所がありません」
ミルシエーラは困惑気味に辺りを見回している。
ファスが水を避けて体を休められそうなところはない。
「せめて降りるか? 重いだろう」
今にも降りようとしたミルシエーラが、踏みとどまるように座り直し、肩を落とす。
「ファスを引いて歩くには狭すぎます。それに、私たちの足では、余計に進みを遅くするのではないでしょうか」
それはまあ、確かに。
ミルシエーラは首を伸ばして、道の先を見通そうとする。
「ですが、なんとか休ませてあげたいですね」
薄暗くてあまり遠くが見えない。
見上げれば、高層ビルほどにも高い崖がそびえ立っている。
はらり、と。
視界のすみで動くものがあった。
まるで軽く落ち葉でも降るようだったそれは、加速し、砲弾のように空気を裂いて落ちる。
声をあげる暇もない。
墜落。
水を跳ねあげ、吹き散らす。
冷えきった水滴が広範囲に撒かれ、温度がそれだけで何度か下がった気がする。
「なんだ?」
硬直するミルシエーラの肩越しに顔を出す。
暗がりにのっそりと立ち上がるそれは、どうやら人間のようだった。人型で頭があって胴があって腕があって足がある。
その顔はただれ、むくんだように膨れて、また肉がこけている。腐れた体から鼻をつく刺激臭。
知っている。よく知っている。
「ディエド……」
ガスの抜けるような、断続的な笑声が、水流の音に交わった。
まさか、こんなところで再び会う羽目になるとは思わなかった。
いや、本当は想定してしかるべきだ。
もともとディエドは、山に棲んでいたのだから。
ファスは地鳴りのような唸り声をあげる。
崖は左右にそびえ立ち、ファスが二頭と並ぶこともできないほど狭い。
足場は悪く、まともに身動きも取れない。
逃げ場はない。
「腐れ野郎」
場所を選んで襲ってきやがった。
ディエドは嘲笑うように息を吐き、悠々と歩み寄ってくる。
舌打ちして、頭を切り替える。恨んでいても埒はあかない。
どうにかして払わなければ。生き残るために。
レテルはもみの木、生命の象徴で追い払った。
それは、生と死が、互いに排他的な「対立するもの」だからだ。
「ひっ」
ミルシエーラが怯えたように息をのみ、身じろぎした。
そうだ。生は死によって奪われるが、死を生で奪うことはできない。
もちろん、剣で死を払うことなど、できるはずもない。
死は終わりだ。どうすれば打ち消せる?
いつまでも考えさせてはくれなかった。
ディエドが体勢を傾けたと見えた瞬間、水を蹴り立てて飛びかかってくる。
耳鳴りがして、体に突き上げるような衝撃が走る。ファスが飛び下がったのだ。
ファスの濡れた足に引きずられて、水柱が立ち、ディエドに踏み潰された。
着地するディエドの左肩に、ファスは噛み付く。
その首を伸ばした拍子に、俺の手から手綱が外れた。合皮の感触が指に残る。
デジャブを感じて寒気が走る。
ファスは首を振り、川底にディエドを叩きつけた。弾けた水が岩に跳ねる。
慌てたあまり、ミルシエーラにしがみつく。ミルシエーラも右手で俺の腕をきつく押さえつけた。
ファスは水気を払うように首を振り回す。ディエドの体は周囲の崖に打ちのめされた。ひしゃげた右足が不自然に伸びて揺れる。
そして大きく身を捻って、背後にディエドを放り捨てた。
その動きに放り出されたのはディエドだけではなかった。片手で俺を押さえていたミルシエーラが、転がるように振り落とされる。伸ばされた左手が、空を掴んでいた。
腕につかまっていた右手が、俺を引き寄せる。
ひと一人の重みが腰にかかる。
踏ん張りも虚しく、俺の体も鞍の上を滑った。
浮遊感に恐怖を抱く間もない。
左腕を痛みが引き裂いた。
上がりかけた悲鳴が、凍るように冷たい水を呑み込む。冷水に喉が痛む。
全身が一瞬で凍ったように冷やされ、体の芯が縮み込む。
「がっ、は、げっほ、がほ」
体を起こす。肌に張り付く服が、密着してくるぶん氷よりも冷たい。
ファスの大きな尾が見えた。
急激な体温の変化にめまいを起こし、視界が暗い。そんな赤黒い世界で、ファスはぶるりと体を震わせた。
ひと蹴り。
一気にこれまで登ってきた谷を、雪崩のように駆け下りていく。
いつしか高くまで登っていたようだ。谷の入り口が遥か下にある。
ファスの白く目立つ姿は、遠く崖の岩間に消えてしまった。
ミルシエーラが腕を押さえながら体を起こし、さっと目を瞠る。
「ファス……ファス? 忠志様、ファスは!」
「分からん。一気に下って行ったんだが」
深追いする必要はなかったはずだ。それにあんな乱暴な動きで、振り落とされるなんて。
しかし、ミルシエーラは激しく動揺した。
「ああ、そんな。追いかけなきゃ。でも、ああ、忠志様、私、どうすれば。私っ」
俺の両腕を掴んで顔を落ち着かなくめぐらせる。
「落ち着け。どうしたんだ」
「ファスが、あの子が意味なく居なくなるはずがありません! それに、私を振り落とすなんて……」
「ディエドに怯えてたんじゃないのか?」
「違います、手綱を握ってて分かります。あの子は、私たちを守らなきゃって、それで」
ああ、とミルシエーラは顔を歪ませて谷を見下ろした。
まさか。
ファスは、ディエドから逃げられないから、囮になったのか?
放り投げて、投げたディエドを追いかけてまで。
「嘘だろ……」
登ってきた道を駆け下りたファスの姿は、もう見えない。
戻ってくる気配もない。
ミルシエーラは、まるで鎖につながれた犬のように、俺の傍らから離れようとしなかった。
目だけがただ、求めるように、祈るように、崖の向こうを見つめている。
ざわざわ、と水が流れている。
今さらのように、冷たすぎる水から立ち上がった。足の感覚が覚束ない。
ファスの体では何の意味もないが、谷川の端っこはまだ少し濡れずに歩けそうな空間がある。
力なく座り込んでいるミルシエーラを見下ろす。
「追いかけなくていいのか」
「私が、本気のファスに追いつけるわけありません」
ミルシエーラは泣いていなかった。
「じゃあ、行くか」
「はい」
一分一秒でも早く。
万が一にも、ファスの稼いだ時間を無駄にしないために。
と、ミルシエーラが何かに気づいたような顔をした。
おもむろに服を脱ぎだす。マントを外し外套を脱ぎ、チョッキを脱いで、ノースリーブのシャツからほの赤く上気した肩が突然露になった。
「お、おい?」
「服で冷えると危ないですよ。特に忠志様は、まだ病み上がりなんですから」
下半身の腰巻とカーゴパンツもすすっと脱ぎ捨てる。
激しく動揺する。昨夜の彼女の言葉を思い出し、崖に頭を打ち付けたくなった。
涙が出そうだ。
「そうだな、間違っちゃいない」
顔をそらし、上着を脱ぐ。
湿った服は脱ぎづらい。苦心するように顔を伏せながら、ひどく自分を呪った。
この状況で、ファスのことを一瞬忘れかけた自分に、吐き気がする。
さっさと脱ぎ捨てて下着姿になる。
標高が高く気温も低い。脱いでもあまり変わらないような気がした。
「貸してください」
服を絞り終えると、ミルシエーラが手を差し出してきた。
そのすらりとした白い腕が、どこにつながっているのかを意識しないようにする。
「ん、いいよ。重いだろ」
「いえ。すぐに乾かします」
え、と驚いている間に、ミルシエーラがさっさと服を取り上げてしまった。
彼女の肌着の胸にあるペンダントが、淡く輝く。
「光量と熱量はある程度調整できるんです」
少し笑ったように言って、ペンダントを手に握って服を撫でる。そこから蒸気が吹き上がった。
こう、あれだ。
アイロン掛け。
「終わりました」
ものの数十秒で、服を一通り乾かしてしまった。
「それ、熱くないのか?」
「私は全く。でも、神子以外の人が触れると火傷してしまったり、最悪、燃えてしまいますね」
「燃えて、って……」
「思いっきり熱くした場合だけですよ。温度が高すぎて発火してしまうんです」
「へえ」
そんな凶器を首からぶら下げて持ち歩いてたのか。
「とにかく、助かるよ」
「いえ。これが神子の役目ですから」
袖を通す。本当にカラッと乾いていた。凄い。
ミルシエーラも自分の服を乾かし、すぐにすすっと着なおしてしまう。
うん、その厚手のマントは、俺の精神衛生にとても役立つな。
「お待たせしました。行きましょう」
「ああ」
保温は体力温存のために必須、とはいえ、この状況で足を止めたのは痛い。
道を急ぐ。
はずが、ややもしないうちにその足を止めることになった。
轟音。
銅鑼を叩いた音を、永久に引き伸ばしたような。
霧がかった空気を裂くように、その滝はあった。
長く、段々と無数の小さな滝を繰り返しているが、流れは別れず一本に白い線をたどる。
切り裂け谷の終わりであり、何万年と時を重ねて谷を築いた流れのもと。
鋸滝。
この先に、いるはずだ。
黒の魔女。




