表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/10

6: 離別する

「人は罪を重ねる。なぜなら、抑えきれない業をこそ、罪と呼んでいるからだ」


 そんな詭弁で、罪を正当化できるものか。


「全ての罪は、すべからく許されなければならない。それは慈悲ではなく、罪の在りようによってこそ。罪が罪であるからこそ、ね」




 突然、ミルシエーラが覆い被さるように身を寄せてきた。

 ファスに乗るために触れ合っていたときとは違う、女性の女性ゆえの柔らかさ重さが、全身に襲いかかってくる。


 その瞬間、俺はミルシエーラに恐怖した。


 沸き上がるすべてを抑え込み、ミルシエーラの背に手を回す。

 すがり付くようにシャツの胸を掴んだミルシエーラは、首を振る。それ以上を求めている証を示そうとするように、顔を寄せてきた。

 艶やかに潤いを帯びた長い睫毛が、まばたきに揺れる。


 優しく、気立てがよく、人を立てて慎ましく、気が利いて、尽くしてくれる。

 そんな人間が、そんな女がいるものか。


 ミルシエーラは確かに間違いなく、レテルを好いていた。

 個人として俺に迫る理由があるか。


 こんなにも優しく奥ゆかしい娘に、俺がどんなに理性の虚勢を張っても消し去ることのできない、極めて人間的な感情を引きずり出されそうになっている。


「待て」


 肩を掴んで止める。

 ミルシエーラの吐息が首をくすぐった。


「待てません」


 指が首を探る。


「待てよ」

「嫌です」


 睫毛が頬を撫でる。


「待てって」

「抱いて」

「やめろ!」


 ミルシエーラは、肩に額を押し付けて、小さな体を震わせた。

 吐いた溜め息が、ひどく重い。

 本当に、待ってくれ。


「どうして止めるんですか。……そんなに、私が嫌ですか」

「そんなわけないだろ」

「じゃあ、どうして、」


 ミルシエーラは言葉を飲み込んだ。それ以上、その言葉を使う虚しさに耐えかねたのだろう。

 言わされる苦しさに胸を詰まらせながら、吐き出した。


「……お前、本当は、レテルに惚れてるんだろ」

「やめてください!」


 苦痛に耐えるように、掴んでいる俺の服を、きつくきつく握り締める。


「二度と、それを言わないで……。私は、私には、あなたしか、いないのに……」


 うずくまるミルシエーラは小さな子どものようで、しかし、到底触れるわけにはいかなかった。

 彼女の体温が、夜闇のなかに浮いている。


「そんな、誰かの決めた規律に、従うことはないだろ」


 少し、勘違いをしていた。

 神子は人間を捨てていると思っていたが、実際は勇者に捧げていたらしい。

 要するに、ミルシエーラが「恋をするとしたら勇者しかいない」のだ。

 そんな理由も理屈もない禁忌なんて、意味がないと、俺は思う。


 ミルシエーラは顔をあげようとしない。


「怖いんです」

「なにが」

「……たくさんの、ことが」


 まるで懺悔するように、ぽつぽつと続く言葉を絞り出していく。


「また、ディエドが来たら。今度は、みんな殺されてしまうかも、しれなくて」


 昨日も、ディエドは前触れなく現れた。こんな月のない夜に、突然に。


「もし、なにか、忠志様だけが亡くなることがあれば、私は、どうすればいいのか」


 ミルシエーラは顔を俺に押し付けたまま、首を振った。


「もしすべてがうまくいっても、そのあと私は、どうすればいいのでしょう」

「どうにでも、好きなことを、すればいい。神子じゃなくなるんだ。レテルのとこに行けばいいんじゃないか」

「ダメですよ。神子は命に拝する使命。一生、神子は神子のままです」


 身じろぎ。

 胸のペンダントを握ったようだった。赤い宝石と金細工。


「魔女に呪文を施してもらえば、あとは、魔王を倒すだけです。私の一生の意味は、そこで、終わってしまうんです」

「そんなことは」


 聞く耳を持たない様子のミルシエーラに口をつむぐ。いや、言葉が続かなかっただけだろうか。

 そこでやっと、ミルシエーラは首をもたげた。


「忠志様は、すべてが終われば、どうされるおつもりですか?」

「さあな」


 肩の力を抜いて、空を仰ぐ。

 魔王を倒せばどうなるのか、倒すべきなのかどうか。

 まだ分からない。

 ただ、すべてが終わったら、となると。


「少なくとも、この世界とはお別れだな」


 俺はここにいるべき人間ではない。この地に根付く存在ではないから。

 いや、しかし、だとすれば。

 死んだ俺に、帰る場所などあるのだろうか。


 シャツを強く握られ、くたりとミルシエーラの体から力が抜けていた。


「……おい?」


 返事がない。

 首を傾けて顔を覗き込んでみる。ミルシエーラは眠り込んでいた。

 子どもの寝相のように、人の服を掴んで離さない。


 苦笑が浮かぶ。

 毛布をミルシエーラにも掛けて、溜め息を吐いた。人の温もりを傍らに感じながら、目を伏せる。

 きっちり手を出さない気高い誇り(チキンハート)に、万歳。




 ふんす、というか、はす、というような息づかいが聞こえた。

 よく絞った濡れ雑巾で、いきなり頬を撫でられたような感触。


「でぁっ?」


 半分だけ起き上がり、緑に繁る森を見張らした。

 うるさそうに隣のミルシエーラがうなる。それを背に振り返れば、毛むくじゃらに埋もれる青灰色の瞳が眼前にあった。


「ファス」


 ファスは面白くなさそうに、そっぽを向いて離れていく。


「あれ……」


 ろれつの回らない曖昧な声。またも振り返れば、ミルシエーラが半分閉じたような目で俺を見上げていた。

 寝ぼけたまま頭を下げる。そのまま倒れて寝入るか、という角度でカクリと止まった。


「おはようございます」

「おはよう」


 頭をゆっくりとあげる途中で首をかしげ、考え込むように瞑目し、そこでやっとミルシエーラは目を覚ましたようだった。

 半ば飛び上がるように距離を取り、体がそこにあることを確かめるように自分の服を撫で付けた。


「なにもしてねーよ」


 思わず口調が粗っぽくなる。

 ミルシエーラは首を縮めて、赤くした顔を隠すように伏せている。


「は、はい、すみません」


 空は晴れ渡り、朝日からは惜しげもなく光が降り注いでいた。


 岩山は険しく高かったが、ファスは軽々と登っていく。むしろ振り落とされないよう、しがみついていなければならなかった。

 苔むした清水を滴らせる谷まで、ものの三十分もかからない。


「ここが切り裂け谷?」

「ええ。黒の魔女はこの先におられるはずです」


 谷の深さは、あっという間にファスの背丈を越え、左右の崖に遮られて日の届かない暗がりになってしまう。谷川のほとりの砂利は狭く、ファスが歩いて精一杯だ。

 空気は水気を帯びてヒヤリとしている。湿った岩の臭いが満ち、水が岩を叩くざらざらという音が響く。苔があちこちを覆っている。

 高い崖が完全に空まで伸び、まるでトンネルでも歩いているかのようだ。


「なんだか、きれいですね」


 ミルシエーラがつぶやくほど、幻想的な光景だった。

 切り裂け谷という名前はピッタリのようで、かけ離れている。


 しかし、だんだんそうも言ってられなくなってくる。

 道はみるみる狭まり、ファスは川に入って進まなければならなくなっていた。

 崖は高くなり、日の光は弱くなる。

 曲がりくねる崖に遮られて、道の先を見通すことができない。

 ファスは滑る岩に慎重に足を置くため、格段に歩みが遅くなっていった。ざらり、じゃらん、と水を蹴る音が続く。

 跳ねた飛沫が氷のように冷たい。切るような痛みさえ伴う冷水にさらされて、ファスはもう一時間も歩いている。


「そろそろ、少し休ませたほうがいいんじゃないか」

「でも……休める場所がありません」


 ミルシエーラは困惑気味に辺りを見回している。

 ファスが水を避けて体を休められそうなところはない。


「せめて降りるか? 重いだろう」


 今にも降りようとしたミルシエーラが、踏みとどまるように座り直し、肩を落とす。


「ファスを引いて歩くには狭すぎます。それに、私たちの足では、余計に進みを遅くするのではないでしょうか」


 それはまあ、確かに。

 ミルシエーラは首を伸ばして、道の先を見通そうとする。


「ですが、なんとか休ませてあげたいですね」


 薄暗くてあまり遠くが見えない。

 見上げれば、高層ビルほどにも高い崖がそびえ立っている。


 はらり、と。

 視界のすみで動くものがあった。


 まるで軽く落ち葉でも降るようだったそれは、加速し、砲弾のように空気を裂いて落ちる。

 声をあげる暇もない。

 墜落。

 水を跳ねあげ、吹き散らす。

 冷えきった水滴が広範囲に撒かれ、温度がそれだけで何度か下がった気がする。


「なんだ?」


 硬直するミルシエーラの肩越しに顔を出す。

 暗がりにのっそりと立ち上がるそれは、どうやら人間のようだった。人型で頭があって胴があって腕があって足がある。

 その顔はただれ、むくんだように膨れて、また肉がこけている。腐れた体から鼻をつく刺激臭。

 知っている。よく知っている。


「ディエド……」


 ガスの抜けるような、断続的な笑声が、水流の音に交わった。


 まさか、こんなところで再び会う羽目になるとは思わなかった。

 いや、本当は想定してしかるべきだ。

 もともとディエドは、山に棲んでいたのだから。





 ファスは地鳴りのような唸り声をあげる。

 崖は左右にそびえ立ち、ファスが二頭と並ぶこともできないほど狭い。

 足場は悪く、まともに身動きも取れない。

 逃げ場はない。


「腐れ野郎」


 場所を選んで襲ってきやがった。

 ディエドは嘲笑うように息を吐き、悠々と歩み寄ってくる。

 舌打ちして、頭を切り替える。恨んでいても埒はあかない。

 どうにかして払わなければ。生き残るために。


 レテルはもみの木、生命の象徴で追い払った。

 それは、生と死が、互いに排他的な「対立するもの」だからだ。


「ひっ」


 ミルシエーラが怯えたように息をのみ、身じろぎした。

 そうだ。(ミルシエーラ)(ディエド)によって奪われるが、死を生で奪うことはできない。

 もちろん、剣で(ディエド)を払うことなど、できるはずもない。


 死は終わりだ。どうすれば打ち消せる?


 いつまでも考えさせてはくれなかった。

 ディエドが体勢を傾けたと見えた瞬間、水を蹴り立てて飛びかかってくる。


 耳鳴りがして、体に突き上げるような衝撃が走る。ファスが飛び下がったのだ。

 ファスの濡れた足に引きずられて、水柱が立ち、ディエドに踏み潰された。

 着地するディエドの左肩に、ファスは噛み付く。

 その首を伸ばした拍子に、俺の手から手綱が外れた。合皮の感触が指に残る。

 デジャブを感じて寒気が走る。

 ファスは首を振り、川底にディエドを叩きつけた。弾けた水が岩に跳ねる。

 慌てたあまり、ミルシエーラにしがみつく。ミルシエーラも右手で俺の腕をきつく押さえつけた。

 ファスは水気を払うように首を振り回す。ディエドの体は周囲の崖に打ちのめされた。ひしゃげた右足が不自然に伸びて揺れる。

 そして大きく身を捻って、背後にディエドを放り捨てた。

 その動きに放り出されたのはディエドだけではなかった。片手で俺を押さえていたミルシエーラが、転がるように振り落とされる。伸ばされた左手が、空を掴んでいた。

 腕につかまっていた右手が、俺を引き寄せる。

 ひと一人の重みが腰にかかる。

 踏ん張りも虚しく、俺の体も鞍の上を滑った。


 浮遊感に恐怖を抱く間もない。

 左腕を痛みが引き裂いた。

 上がりかけた悲鳴が、凍るように冷たい水を呑み込む。冷水に喉が痛む。

 全身が一瞬で凍ったように冷やされ、体の芯が縮み込む。


「がっ、は、げっほ、がほ」


 体を起こす。肌に張り付く服が、密着してくるぶん氷よりも冷たい。

 ファスの大きな尾が見えた。

 急激な体温の変化にめまいを起こし、視界が暗い。そんな赤黒い世界で、ファスはぶるりと体を震わせた。

 ひと蹴り。

 一気にこれまで登ってきた谷を、雪崩のように駆け下りていく。

 いつしか高くまで登っていたようだ。谷の入り口が遥か下にある。

 ファスの白く目立つ姿は、遠く崖の岩間に消えてしまった。

 ミルシエーラが腕を押さえながら体を起こし、さっと目を瞠る。


「ファス……ファス? 忠志様、ファスは!」

「分からん。一気に下って行ったんだが」


 深追いする必要はなかったはずだ。それにあんな乱暴な動きで、振り落とされるなんて。

 しかし、ミルシエーラは激しく動揺した。


「ああ、そんな。追いかけなきゃ。でも、ああ、忠志様、私、どうすれば。私っ」


 俺の両腕を掴んで顔を落ち着かなくめぐらせる。


「落ち着け。どうしたんだ」

「ファスが、あの子が意味なく居なくなるはずがありません! それに、私を振り落とすなんて……」

「ディエドに怯えてたんじゃないのか?」

「違います、手綱を握ってて分かります。あの子は、私たちを守らなきゃって、それで」


 ああ、とミルシエーラは顔を歪ませて谷を見下ろした。

 まさか。

 ファスは、ディエドから逃げられないから、囮になったのか?

 放り投げて、投げたディエドを追いかけてまで。


「嘘だろ……」


 登ってきた道を駆け下りたファスの姿は、もう見えない。

 戻ってくる気配もない。


 ミルシエーラは、まるで鎖につながれた犬のように、俺の傍らから離れようとしなかった。

 目だけがただ、求めるように、祈るように、崖の向こうを見つめている。


 ざわざわ、と水が流れている。

 今さらのように、冷たすぎる水から立ち上がった。足の感覚が覚束ない。

 ファスの体では何の意味もないが、谷川の端っこはまだ少し濡れずに歩けそうな空間がある。

 力なく座り込んでいるミルシエーラを見下ろす。


「追いかけなくていいのか」

「私が、本気のファスに追いつけるわけありません」


 ミルシエーラは泣いていなかった。


「じゃあ、行くか」

「はい」


 一分一秒でも早く。

 万が一にも、ファスの稼いだ時間を無駄にしないために。


 と、ミルシエーラが何かに気づいたような顔をした。

 おもむろに服を脱ぎだす。マントを外し外套を脱ぎ、チョッキを脱いで、ノースリーブのシャツからほの赤く上気した肩が突然露になった。


「お、おい?」

「服で冷えると危ないですよ。特に忠志様は、まだ病み上がりなんですから」


 下半身の腰巻とカーゴパンツもすすっと脱ぎ捨てる。

 激しく動揺する。昨夜の彼女の言葉を思い出し、崖に頭を打ち付けたくなった。

 涙が出そうだ。


「そうだな、間違っちゃいない」


 顔をそらし、上着を脱ぐ。

 湿った服は脱ぎづらい。苦心するように顔を伏せながら、ひどく自分を呪った。

 この状況で、ファスのことを一瞬忘れかけた自分に、吐き気がする。

 さっさと脱ぎ捨てて下着姿になる。

 標高が高く気温も低い。脱いでもあまり変わらないような気がした。


「貸してください」


 服を絞り終えると、ミルシエーラが手を差し出してきた。

 そのすらりとした白い腕が、どこにつながっているのかを意識しないようにする。


「ん、いいよ。重いだろ」

「いえ。すぐに乾かします」


 え、と驚いている間に、ミルシエーラがさっさと服を取り上げてしまった。

 彼女の肌着の胸にあるペンダントが、淡く輝く。


「光量と熱量はある程度調整できるんです」


 少し笑ったように言って、ペンダントを手に握って服を撫でる。そこから蒸気が吹き上がった。

 こう、あれだ。

 アイロン掛け。


「終わりました」


 ものの数十秒で、服を一通り乾かしてしまった。


「それ、熱くないのか?」

「私は全く。でも、神子以外の人が触れると火傷してしまったり、最悪、燃えてしまいますね」

「燃えて、って……」

「思いっきり熱くした場合だけですよ。温度が高すぎて発火してしまうんです」

「へえ」


 そんな凶器を首からぶら下げて持ち歩いてたのか。


「とにかく、助かるよ」

「いえ。これが神子の役目ですから」


 袖を通す。本当にカラッと乾いていた。凄い。

 ミルシエーラも自分の服を乾かし、すぐにすすっと着なおしてしまう。

 うん、その厚手のマントは、俺の精神衛生にとても役立つな。


「お待たせしました。行きましょう」

「ああ」


 保温は体力温存のために必須、とはいえ、この状況で足を止めたのは痛い。

 道を急ぐ。


 はずが、ややもしないうちにその足を止めることになった。

 轟音。

 銅鑼を叩いた音を、永久に引き伸ばしたような。

 霧がかった空気を裂くように、その滝はあった。

 長く、段々と無数の小さな滝を繰り返しているが、流れは別れず一本に白い線をたどる。

 切り裂け谷の終わりであり、何万年と時を重ねて谷を築いた流れのもと。

 (のこぎり)滝。


 この先に、いるはずだ。

 黒の魔女。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ