10: 終結する
「物語が終わるとき、役者の意志は関わらない。悲しいことだけどね」
まるで広大な砂漠を歩いているかのようだった。
灰色山脈の盆地には、荒涼とした荒野が広がっている。峻険な山々に囲まれ、まるでケーキの型抜きの底を歩いているかのようだ。 日は中天に差し掛かり、青白い空が柔らかく広がっている。
盆地は広すぎ、山は多すぎ、天の塔はあまりにも大きすぎる。歩いても歩いても、進んでいる気がしない。
夏というほど暑くはないはずだったが、日差しを遮るものがなく、風が全くない。体温はじりじりと上がっていく。
「大丈夫か、ミルシエーラ」
「はい」
「無理はするなよ。疲れる前に休まないとな」
「分かっています。……それを言ったのは私ですよ」
「そうだっけ」
ミルシエーラは小さく笑った。ふと、何かを探すように、視線を背後に流す。いつの間にか魔女のいた山が、ずいぶんと遠くなっている。
何も言わずに視線を戻したミルシエーラの横顔で、なんとなく察する。
ファスは、無事なのだろうか。
追いかけたはずのディエドが姿を見せた時点で、望みは薄い。しかし、俺だって命を何度も助けられて、恩を感じないほど厚顔無恥ではない。どうか無事でいてほしい。
俺が言うのも、皮肉だが。
「それにしても、大きいな」
何がなどと言う必要はなかった。ミルシエーラも天の塔を見上げてうなずく。
「本当に。感覚がおかしくなってしまいそうです」
というより、すでにおかしくなっていた。
巨大な塔を支えるため、基礎部分の大きさは尋常ではない。山と見間違えてしまいそうだ。建材を安定させるため、塔の形となれば本来は円錐形や三角錐が望ましいはずだが、この塔は円柱のまま、景色を引き延ばしたかのように霞むほど高く伸びている。普通ではない。
全く、どんな技術でこんなことが成し遂げられたのか、うかがい知れない。魔王の所業と呼ぶにふさわしい、無茶苦茶な存在だった。
「忠志様、どうぞ。水分は小まめに補給しないといけませんよ」
ミルシエーラに水袋を勧められる。
本当に頼りになる。
口を湿らせるくらいでやめて、水袋を返す。ミルシエーラは受け取った水袋を見つめて、うつむいた。
「忠志様。お願いがあるのです」
「ん。何だ?」
「もし、もしもですけど。魔王を倒しても、このままこの世界にいられそうなら……一緒に、暮らしませんか」
「なんだって?」
ミルシエーラの表情は不安げに揺れていた。
前も言っていた。神子として以外に、生き方がない、と。
それに事実俺は見ている。ミルシエーラが村人に、不思議そうな顔で見送られていたことを。
ミルシエーラは、神子は、外在性に強い要素がある。この世界に生きながら、この世界に繋がりが薄い。そうでなければならなかった。他でもなく、神子であるために。
先生だったらしい長老は見るからに老い先短く、ファスさえ……帰るかどうか、わからない。
「そうだな、魔王を倒してもこの世界にいられるなら、一緒に暮らすのもいいかもな。よく考えればそのときは、俺だって身寄りがないわけだから」
「ふふ。そうでしたね。私も失念していました」
ミルシエーラはちっとも安心したようには見えなかった。俺も同感だった。
この世界の者ではない俺が、魔王を倒してもしつこく居残るのは、筋が通らない。伝承でも語られていたはずだ。
勇者は魔王の出現に呼応して現れる、と。
ならばその退場もまた、タイミングを同じくすることに何の不思議もない。
「きっと旅が続いているみたいに思えちゃいそうですね」
ミルシエーラは不安げに揺れた瞳のまま、楽しそうに笑う。俺も合わせて笑顔を浮かべる。空しい談笑は、長く続いた。
塔にたどり着いたのは、思いがけず早かった。
大きさに騙されて、遠近感が完全に狂っていたのだ。ふと気づいたときには、すでに間近に迫っていた。魔女の言う通り、出掛けて半日が経とうとしている。
「忠志様」
ミルシエーラが両手で俺の右手を取った。
急に思い出す。
最初に来たときは、ミルシエーラは俺にさえ怯えて、遠慮がちに指先しか取らなかった。
「大丈夫だ」
ミルシエーラが俺を見上げた。
「この今、ここにいる俺たちで成し遂げられる。これはもう、間違いのないことだ」
俺の言葉に呆気に取られたように、ミルシエーラは口を小さく開けている。ふっ、と肩の力を抜いた。
「分かりました。そうですね、ここまで来れたんです。大丈夫ですよね」
「ああ」
天の塔を見上げる。
どこまで高いのか分からない塔は、威容に似合う重厚な作りの扉を開いている。厚さだけで三十センチはある石で、大きな半円を幾何学的に重ねたような模様が彫り込まれている。
もはや言葉も要らなかった。
歩調を揃え、塔に踏み込む。
なかはヒヤリと冷たい空気がたまっていた。うすら寒い不気味さではなく、時間が止まっているかのような、静謐さを感じさせる涼やかさだ。
見える限り、高い吹き抜けの塔に灯りはなく、入り口の明かりが届かない先は完全に闇に呑まれていた。
空気の動く遠い音が響いている。下手をしたら、塔まるごとが吹き抜けなのかもしれない。
「魔王はどこでしょう……」
ミルシエーラは不気味そうに怖々とささやく。
その瞬間、塔の扉が閉まった。太鼓を打ち鳴らすような、あるいは爆発でも起きたかのような、重く大きな空気の鳴動。音だけで張り飛ばされたような感覚に、耳がひりつく。
そして塔のなかは完全な暗闇になった。
『勇者よ』
どこかから声が響いた。
暗闇では、遠近感も上下感覚もない。目の前が壁のようにも、無限の平原のようにも思える。目を閉じても開いても感覚が変わらない。見上げても見下ろしても、何も変わらない。自分という存在さえ失われてしまったかのようだ。
『勇者よ』
またどこかから声が響いた。耳元で重くささやいているようにも、果てしない遠くから朗々と語りかけているようにも聞こえる。いや、果たして本当に聞こえているのだろうか。幻聴や耳鳴りなのではないか。
なにもかもが不確かだった。
『勇者よ』
声は語る。
『勇者よ、貴様に我は倒せぬ』
声は揺るぎなく、脳裏に響き、世界そのものが声に染められていくような、あるいは声そのものが世界であるかのような、そんな奇妙な感覚に囚われる。
『貴様に我は倒せぬ。我こそは魔王、世界を統べうる唯一ぞ』
そうかもしれない。そうなのかもしれない。
殴られた。
「忠志様? 忠志様っ」
探るような手つきで俺の体をべたべた触る。この声はミルシエーラに違いなかった。
「ああ。俺はここにいるぞ」
体を探る手を握る。懸命に、まるで大海の真ん中で唯一の頼りを掴むかのように、ミルシエーラは手を強く強く握り返してきた。
「ああ、忠志様……よかった。いなくなってしまっていたら、どうしようって」
心から安心したように、ミルシエーラは震える声をあげる。腕に体重がかかる。腰砕けになっているようだった。
「大丈夫だよ、一歩も動いちゃいない」
思わず、笑う。そうだ、さきほどから動いていない。馬鹿に広い塔の入り口に突っ立っているはずなのだ。
不思議と、暗闇の中でも立っていられそうな気がした。足は石造りの床を踏みしめて、天井は遥かに遠く、塔の入り口はすぐそばにあるはずなのだ。空間感覚を取り戻す。
『勇者よ』
声がする。確かにどこから聞こえるのか分からない。
『勇者よ、貴様に我は倒せぬ。我こそは世界を統べる唯一ぞ。抗うべからず、貴様に敵う道理などない』
「た、忠志様……!」
ミルシエーラが怯えたように、腕に身を寄せる。視界ゼロの状態では、服を圧す感覚だけが全てだった。
しかし、別のものは見えてきた。
「なあミルシエーラ。レテル……いや魔女は、言ってたよな。魔王は斬って倒せる相手じゃない、存在そのものが脅威だ、って」
「え? は、はい」
「つまり、これが魔王なんじゃないか?」
これ、といっても、何を指しているのか見えないだろう。しかしそれこそが真実なのだ。
「まさか、魔王の正体は……闇!?」
ミルシエーラが愕然と叫ぶ。
「いや、少し違うな。闇は現象だ。ディエドを従えたりしないし、世界を滅ぼしもしない」
見えない、見通せない、というのは一側面に過ぎない。魔王はどこにいるのか分からないし、何者なのかも分からない。
つまり、
「"未知"。たぶん、それが魔王の正体だ」
ディエドがなぜ、死したまま生きるような、矛盾した怪物と化したのか。
天の塔はなぜ、突然現れたのか、どのように出来ているのか。
謎は憶測を呼び、不明は恐怖を招く。
ゆえに魔王は魔王足りうるのだ。
「とはいえ……そんなものを、どう祓えばいいやら、分かりゃしない」
ミルシエーラが怒ったように俺の腕を掴む。分からないんだから仕方がない。
とりあえず剣を抜く。
この剣が魔王を倒す鍵なのは、間違いないはずだ。
シャリン、と鞘走りの音も涼やかに、剣はその身を晒す。
息を呑んだ。
剣身が淡く青く輝いていた。刻まれた呪文が、脈動するように明滅している。
「きれい」
ミルシエーラが思わず呟いたように、確かに、その姿は美しかった。
『愚かなり。勇者よ、貴様に我は倒せぬ』
声が響く。
全く動揺した気配もない。剣を掲げて辺りを指しても、光は淡く、塔を照らすにはとても足りなかった。むしろ、より闇が濃くなったようにさえ思える。
『抗うべからず、貴様に敵う道理などない』
声は語る。調子が一切変わらない。
実は手を出せないのでは、と思ったが、どうもそうではないらしい。そもそも手を出す必要もない。倒せなければ、タイムアップ、勇者の負けだ。
剣の淡い光に照らされて、ミルシエーラの輪郭が見える。頼もしげに俺を見つめていた。
そんな表情をしていたのか。
苦笑が浮かぶ。ここで失敗するわけにはいかない。ここまできて、失敗とは、少しばかり格好がつかない。
とはいえ、魔王に何も与えていないのも事実だ。キーは足りているはずだが、何が足りないのだろう。
剣は怪しく紋様を煌めかせる。この呪文は、知識という意味だと魔女は言っていた。剣に知識が付加される、という事象の意味はといえば。
剣、鍛冶は、技術の象徴だ。知識と技術は、発展や知恵か。なるほど、携えて未知を祓うには相応しい。
だが、現実、足りていない。
いや、そもそも剣の輝きで、闇が深くなったようにさえ思える。足りないのだ。知恵で全ての闇を取り払うことはできない。科学万能主義は幻想だ。
くそ。頭が行き詰まった。どうすればいい。
『愚かな勇者よ』
声が響く。
同時に、激しい衝撃が全身を襲った。
「うわっ!」
「忠志様っ!」
ミルシエーラが体勢を崩して、慌てて引っ張りあげる。転ばずに済んだが、衝撃は変わらず、立っていられずにしゃがみこむ。
衝撃ではなかった。大地が波打つように、激しく揺れているのだ。
「これは……」
『我こそは世界を統べる唯一。抗うべからず、我に敵う道理などない』
声は全く変わらない。塔の激震はいや増していく。
「忠志様!」
ミルシエーラが悲鳴をあげる。
剣が空間の鳴動に共鳴して震える。やばい。いよいよヤバかった。
「くそっ、どうすりゃいいんだよ! キーは揃ってるはずなんだ! 倒せないわけはないだろ!?」
叫んで、剣を振る。虚しく空を切るどころか、体勢を崩して手をついた。揺れは激しい。
本当に、どうなってるんだ。
いや、待てよ。
倒せることはハッキリしているのに、どうやって、なんて考えているのは、ピントがずれていたんじゃないか?
思い出せ。手札を見直せ。視野を濁らす先入観なんて邪魔なだけだ。見えてる世界をひっくり返せ。
初めに何と言われた?
この世界は、俺に対する救いと罰だ。
ミルシエーラは何と言った?
魔王を倒しうるただ一人の存在で、唯一剣を抜くことができる者だ。
神子とはなんだ?
勇者と対であり機能を補う、必要不可欠な存在だ。
長老は何と言った?
剣を用いて魔王を倒すのだ。
魔女は何と言った?
魔王は実態がなく、存在そのものが世界を脅かす。そして、すべてはこの今でしかありえない。
ディエドとはなんだ?
生死の摂理に反した、俺の写し身だった。
剣はなんだ?
魔王を倒す鍵であり、勇者の象徴だ。そして、知識を刻んでより輝きを増した。
勇者とはなんだ?
この世ならざる俺が任ぜられた、魔王に対する切り札だ。
勇者と魔王は近しくあり対立する、対応関係にある。勇者と神子は重なりつつも、絶対的な差異に支えられる。勇者と剣は限りなく近い。魔王の討伐は通過儀礼で、次の段階に昇華するための事象にすぎない。
俺はどうなったか。
俺はどうするべきなのか。
それが答えだ。
「ミルシエーラ! 来い、試したいことがある!」
声を張り上げる。膝を立てて、這うように寄ってきたミルシエーラの手を取る。
「剣を持て!」
「あ、なっ、ダメです! 勇者の剣は勇者様しか触れてはいけません!」
「じゃあ俺の手ごとでいい! とにかく剣を持て!」
激震に揺られて話すどころではない。ミルシエーラはゴネながらも、俺の手の上から剣を持った。
「灯火のペンダントを灯すみたいに、剣を光らせてみてくれ!」
「そんなこと」
「ムリでも試してみろ!」
ミルシエーラは一瞬ためらったあと、体を力ませたのが感じられる。
そのとき、剣が強く輝いた。強く強く、瞼を閉じても目を焼くほどに。持つ手も、光を受ける体も焼き付くされそうなほどの、暴力的な光だ。
顔をあげて、目を開く。
光の闇に視界が奪われるまでの一瞬。塔の内部が見えた。確かに、遥かに遠くまで、どこまでも伸びていた。
天まで届くかのように。
『勇者よ……我は、我が、我を……我……』
声が初めて揺らいだ。かき消される。
振動もいつしか消え、目も耳もない空間が残される。ミルシエーラの感触だけが、唯一にしてすべてだった。
「忠志様?」
声が遠い。
「簡単な話だったんだ」
伝える言葉は、まるで砂細工で作られているかのように頼りなくて、曖昧だった。
「ミルシエーラが勇者に対応し、魔王が『勇者に倒せる道理はない』なら、神子の力が合わされればいい」
それでも構わなかった。ミルシエーラに伝えられるなら。
「魔王の正体は、未知じゃない。未来だ。掴み取られるためにある、どこまでも強大な敵」
ミルシエーラがどこにいるのか分からない。今どこにいるのかも分からない。しかし、最初からそうであるべきだったのだ。
この世界が異常だなんて、当たり前に分かっている。
「同時に、俺の未練でもあった。未来を欲し、無理やり求めた歪みを、世界の形に現していたんだ」
本当は分かっていたんだ。我を通し、純然に存在する流れを止めることの、おぞましさを。
「世界は三重構造になっていたんだろう。俺の知らない営みが行われる異世界、魔王を倒すという物語を持つ構造世界、そして、俺自身の心象世界」
「忠志様!」
ミルシエーラが遮るように叫んだ。
「魔王を倒したら、一緒に暮らすって、言ったじゃないですか……!」
「馬鹿。最初から、それでも残るなら、って約束だっただろ」
笑う。ミルシエーラも本当は分かっていて、唇を噛んでうつむいた。
「魔王を、自分の未練を打ち払ったら、後に行くところはひとつだ。……だからこその、魔王が守る『天の塔』ってわけだ」
馬鹿にしている。最初から答えが提示されていたようなものだ。この筋書きを書いたやつは、よほど性根が腐っているに違いない。
俺の望んだ通り生き長らえて、それは俺の望む世界でのことではなくて、気に入りかけたその世界から別れるために、全身全霊を注がねばならない。
これぞまさしく、救いと罰だ。
「忠志様!」
ミルシエーラが叫んだ。
「また、会えますよね」
「もちろん」
自信を持って言える。
なにせ、ミルシエーラは俺自身で……逆説的に、俺はミルシエーラ自身、なのだから。
ジシンだけにな。
その瞬間、何か大きな塊に吹き消されるように、ミルシエーラの感覚が離れた。つかんでいた紙が吹き飛ばされるように、遠く、遠く、流れていく。
意識の端に、ふんす、というか、はす、というか、そんな聞きなれた獣の息づかいを感じた。
それっきり。
悪い気分じゃない。