1: 出現する
あるとき、全く突然に、俺は死んだ。
殺されたと言ったほうが正しいか。
刃渡り十八センチ、まるで剣のような、反りのないナイフを真っ直ぐ心臓に突き立てられて。
実にあっさりと、俺は、穂村忠志という人間は、命を落とした。
「そして君は、その結末に納得していない。そうだろう?」
その通り。
俺はまだ何も残していない。
「でも、それは駄目だ。世界はそれを許すほど、易しくはない」
許しなど請わない。
俺はただ俺がすべきと思った筋を通すだけだ。
「曲がるつもりは?」
答える必要が?
「……いいだろう。負けたよ。君に救いと罰を与えよう」
救い、と、罰? それはどういうことだ?
「そのままだよ。さあ、行くといい。道が閉じる前に」
などという夢を見た。
というのはつまり、俺はたった今目を覚ましたのであり、目を覚ますということは先ほどまで眠っていたということであり、眠っていた間の記憶というのはおおむね夢と呼んで差し支えない。
そして夢から覚めたのだから、俺の前に広がるのは現実でなければならないはずだ。
しかし、夢から覚めた先がまだ夢であったかのような、水面から顔を出した先が水底で歪み揺らめく水面を見上げているような、そんな奇妙な錯覚を感じずにはいられなかった。
石造りの神殿を思わせる装飾の彫り込まれた柱や壁、三階ぐらいまで吹き抜けていそうな高い天井があり、それを囲うようなステンドグラスが色に濁らせた光を降らせる。
天井には天上を描いたような宗教画が描かれている。
テンジョウだけに。
くだらないことはさておき、見た感じ二十メートル四方はあるだろうか。
そっくり同じ形をした四方の壁の一面にだけ、観音開きの簡素な木扉がある。
柱の燭台と採光窓から差し込む白い光が、薄暗く部屋を照らしている。
その割りには礼拝堂ではないらしく、聖像もなく座席もない。素っ気ない石畳が敷かれている。
しかし、そんじょそこらの石畳とは違うことは、一目で分かる。
巨大な、一枚が一抱えもありそうな正方形の石畳が、秩序だって並べられているのだ。
どれほどの岩から切り出したのか、この広さを埋めるだけ揃えるためにどれだけ必要だったのか、想像もつかない。
どこか乾いた、澄みきった空気の匂い。
物音ひとつしない。
風がなく空気の制止したような室内は、時間が止まっているような、空間がアルミホイルのように薄く引き延ばされているような、妙な感覚がある。
祭壇も偶像もないのだから、これは、神殿ではないのかもしれない。祈る相手のいない神殿ほど、矛盾したものはない。
辺りを見回していたときに、ばたばたと石を叩くような足音とともに、扉が弾けるように開かれた。
「勇者様!」
奇態な掛け声によって駆け込んできた人影は小柄で首があり頭があり手足があり、耳目鼻口を持っていて、つまるところ一瞥した限り人間と判じる要諦を満たしているように思える。
さらに言えば、ゆるりとした白い貫頭衣を纏った小さな体は、撫で肩気味で、柔らかくくびれた印象を与え、なおかつ緩やかにウェーブを描きながら伸びる赤みがかった茶髪が、ふわりと背に被っているところから、おそらく女性であろうと推測できる。
ほっそりと曲線を描く顎やすっきり通った鼻梁、きれいに対称を作る弓なりの眉の位置から見て、だいたい成長期の終わりくらいの年齢だろうか。
しかし、ただ一点。
くりりと睫毛の伸びた円らな瞳の色が、宝石のような緑色、いや、翡翠色をしている。
「勇者様」
少女は目があった途端、くしゃりと泣きそうな顔を浮かべ、こらえるように深呼吸して神妙な表情を作った。
「どうか、私たちの世界をお救いください」
言葉は染み入るように音のない石造りに響き、溶け込んでいった。
少女の名はミルシエーラと言うらしい。それがこの世界の古い言葉で生命の神秘を意味するということを知ったのはずいぶんあとの話だ。
シエーラ、なところが、どことなくヨーロピアン的な風格を帯びている。
かといって北欧系の顔立ちをしているかと言えば微妙で、ヨーロッパ系コーカソイドほどまで顔の彫りが深くない。逆に言えばアジア系にしては彫りが深く、鼻筋がスッとしている。
東欧系、というよりむしろ、ハーフまたはダブル、とでも呼ぶべき印象だった。
純日系にして基本的に日本人の大和顔しか見たことがなかった俺にしてみれば、何か一つ隔絶したような距離感が拭えず、微妙な居心地の悪さを感じている。
具体的に言えば、ガイジンは街ですれ違うかテレビや銀幕の向こうにいる程度の存在であって、身を持って接する対象ではなかったはずだ。
ミルシエーラが覗き込むように俺の顔をうかがう、その視線から逃れるように顔を背けた。
特に俺が居心地の悪さを覚えるのは、ひとたび見ればしばらく目が離せなくなりそうなくらい鮮やかな、翡翠の瞳だった。
その奇妙な深い色合いは、作り物めいた美しさを持ちながらも、まるでそうであることが正しい姿であるかのように、ある種の調和を持って、少女の瞳の中で感情のまま気遣わしげに揺れる。
「勇者様?」
「……それもだ」
俺は痛くもない頭の痛みをこらえるように、側頭部に指を添える。
頭が痛い、非常に難解な事象が我が身に襲っている、というジェスチャーを取ることで、相手以上に、自分の意識に現実の再認識と分析を促す。
ミルシエーラは困惑したように、あるいはもっと切迫した悲哀な何かを内に秘めたような、そんな表情で手を伸ばしかけて固まっている。
「あの、何かご気分でも……。お水でもお持ちしましょうか」
「水か。水は要らない。そうだな。とりあえず、外の空気を吸わせてくれ」
脇をすれ違って、彼女の入ってきた扉から出る。
屋外かと思っていたが少し違っていた。
裂けた大地の隙間に埋め込むように、あるいはむしろ、山肌を引き裂いたような、そんな崖道が伸びている。
泥もない磨かれたごろごろとした岩肌を横目に、遥か十メートルはありそうな高い崖の隙間を歩いていく。
崖によって縦に区切られた大地が広がっているのが見える。
見た感じ、この神殿は結構高い山に築かれているようで、山麓の森とそれを横切る大きい川、そこから分かれて伸びる支流と支流から土手を作って水を引いた用水路、貯水槽、そして広々と拓かれた田畑と集落が見える。ざっと数えるでもなく見た感じ、百に満たないくらいの世帯数、ざっと人口五六百人といったところだろうか。
その果ての山脈と稜線の中に、明らかな異物があることに気づかなかったのは、まず第一にそれがあまりにも遠かったからだ。
青く霞み、雨や霧、いや空が曇ればそれだけで見えなくなってしまいそうなほどだった。
第二に、高い位置にあり麓から視線を向けていったためになかなか気づけなかったからだ。
そして第三は、逆説的な話になるが、それがあまりに不自然で現実離れしていたため、本当にそこにあって自分の目に見えているものであると意識的に正しく認識できなかったからだ。
机に置いてある見えている鍵を探して、机に散らかした本をひっくり返しているような、あの感じ。
「あれが、悪魔の……いえ、魔王の住む天の塔です。勇者様」
追いかけてきていたらしいミルシエーラが、隣に立ち、俺と視線を同じくしてつぶやいた。
頭が痛い。
考えるべきこと。
「なぜ、俺が勇者などと呼ばれるんだ?」
ミルシエーラは俺を見て、真面目な顔で口を震わせる。
「魔王が現れたとき、必ず勇者様もまたご光臨なされます。あの神殿に現れなさった貴方こそ、世界を破滅から救ってくださる勇者です」
真剣な顔で突飛なことを語る。
俺は天突く針のような塔に目を向けた。
遠く霞む、薄い線のような、天の塔。
仮に。
仮に俺が勇者だとするなら、その要件として、魔王が生まれていなければならない。
すなわち極論すれば、魔王を産み出したのは勇者だと言える。
あの夢を思い出し、無意識に胸に手を当てていた。
心臓を突かれた痛みを俺は忘れていない。
痙攣するように、爆発するように、それでもただ生きるために、血液の循環を保とうと胸骨の中で暴れまわって血を噴いた心臓。
体内に血が溜まり、内臓が圧迫されていく痛み。
瞬間的に血が足りなくなり、酸素を失って意識が暗くなり、血圧の急変によるショック症状のように、俺は即死したのだ。
それが確かだとすれば、俺がここにいるのはあの夢の経緯であり、だとすればここに立っているのは作為的な結果だ。
俺が勇者であるなら、俺が勇者であるために、魔王が生まれ、世界が滅ぶ。
「勇者様」
沈思していた俺の小指と人差し指の根元をつまむように、控えめに、しかし放すつもりがないように、ミルシエーラは俺の手を取った。
「どうか、世界をお救いください」
その瞳の真摯さに反比例して、目の前の非現実を白けた目で見るように、俺は掴まれた手の儚げな感触を見下していた。
俺がここにいるのが作為ならば、この筋書きもまた、作為に違いない。勇者のために世界が滅ぶのは、勇者に救われるためなのだから。
しかし、そうだとしたら、それは決して滅びではない。
茶番だ。
遠大なマッチポンプに過ぎない。
――ならば、俺が滅ぼすのもいいか。
考えて、微かに笑った。
事前の了解なく役者に演じさせる舞台に、破綻を予測しない演出家はいない。
それでも行うとしたら、破綻させるためか、破綻した上で何事かを行うためだ。
「分かった。俺はあの塔に向かう。その未来を変えよう。どうすればいいか、知っているなら、教えてくれ」
この世界は、この筋書きは、一体なんのためのものだろう。
ミルシエーラは生真面目そうな気負った表情で、はい、と声を震わせた。