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豊臣兄弟、最底辺から始める天下奪取 ――現代営業の知略で、戦国の理不尽を喰い破る――  作者: チャプタさん


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第二十七話:土台

第二十七話:土台


 翌朝、藁の問屋から使いが来た。


 二軒だった。一軒は「天候不順により、今月の納品が遅れる」と言った。もう一軒は値を書いた紙を持ってきた。一割五分の上乗せだった。使いの男は申し訳なさそうな顔をしていたが、目が違った。言われてきた顔だった。


 小竹が受け取った。二枚の紙を並べた。それから甚助を呼んだ。


「川並衆に連絡を」小竹は言った。「昨夜のうちに伝兵衛に話は通してあります。北の藁を今日中に積んでもらえれば、明日の仕込みに間に合います」


 甚助が出て行った。小竹は二枚の紙を帳簿に挟んだ。


 それだけだった。広間は動じなかった。



 夜明け前、木曽川の川面は暗かった。


 伝兵衛は舳先に立っていた。水の音が変わった場所で棹を止めた。浅瀬の手前だった。大きな船は通れない。伝兵衛の小舟が通れる限界だった。


「旦那衆の網は津島までや」伝兵衛は言った。後ろに若い船頭が二人いた。「ここから先は誰の縄張りでもない。川が流れているだけや」


 若い船頭の一人が言った。「昨日まで何もなかった北の小商から買い付けるとは、どういう了見ですか」


「了見は簡単や」伝兵衛は棹を動かした。「津島の旦那衆は川を道だと思っとらん。運ぶための道だと思っとる。だから網を張る。しかし川は道やない。川は川や。どこからでも乗れる。どこへでも行ける。それを忘れた者が負ける」


 もう一人の船頭が笑った。疲れた笑いだった。夜通し漕いできた。しかし笑いの中に別のものがあった。


 三艘の小舟が浅瀬を越えた。北の闇の中に、灯が見えた。小商の蔵だった。約束の灯だった。


 藁の束が積み込まれた。一束、また一束。夜が白み始めた頃、積み終わった。


「日吉の倉は面白い」伝兵衛は帰りの棹を持ちながら言った。「今まで荷を運ぶだけやった。仕入れの話に入れてもらえるとは思わなかった。川の者を信用してくれた。それだけで十分や」


「次もありますか」若い船頭が聞いた。


「ある」伝兵衛は言った。「宗右衛門が次を打てば、また北から動く。打てば打つほど、こちらの川筋が増える」


 船頭は少し考えた。「それは良いことですか、悪いことですか」


「どちらでもない」伝兵衛は言った。「川が増えれば、川並衆が増える。増えれば稼ぎが増える。それだけや」


 三艘が川を下った。津島の問屋が眠っている間に、藁は倉へ向かっていた。



 昼までに、木曽川の北から藁が届いた。


 小舟が三艘、川沿いの荷揚げ場に着いた。伝兵衛の手配だった。藁の束が次々と倉へ運び込まれた。南の問屋から来るものより少し色が薄かった。産地が違うから当然だった。


 与助が束を一つ手に取った。触った。においを嗅いだ。基準書を開いた。北産の藁を使う場合の調整が、そこに書いてあった。昨日、与助が書き加えた項目だった。


 女衆がそれを見た。おきねが最初に動いた。おとよがそれに続いた。手順が変わった。しかし手は止まらなかった。


 出荷は予定通りだった。



 夕方になった。


 日吉はおとよを呼んだ。広間ではなかった。帳場の隅の、小さな部屋だった。二人だけだった。


 おとよが来た。座った。手に何も持っていなかった。


 日吉は少し間を置いた。昨夜から考えていた言葉が、いくつかあった。どれも、声に出してみると軽かった。言い訳になった。弁解になった。


「昨夜の問いに、答えが出なかった」日吉は言った。「一晩考えた。それでもまだ足りない気がしている」


 おとよは何も言わなかった。


「お前たちの給分が少なかったのは、わしがそう決めたからじゃ」日吉は続けた。「誰かに言われたわけではない。相場を見て、倉の利益を見て、数字を合わせた。その時、わしはお前たちの手のことを考えていなかった」


「手」おとよは繰り返した。


「仕込みの手じゃ。今日の藁を見ていた。北から来た、見慣れない藁じゃった。おとよが触って、においを嗅いで、それから動いた。その動き方は基準書には書いていない。与助の書いたものを見てから動いたが、与助の字は手順だけじゃ。触った時の感覚は書けない。においは書けない。お前たちの五年、十年が、あの動きの中にあった」


 おとよはまだ何も言わなかった。


「わしはそれを数字にしか見ていなかった」日吉は言った。「女衆の給分は荷役より安くて良い、と思っていた。思っていたわけでもない。考えもしなかった。考えもしなかったことが、一番いかんかった」


 部屋が静かだった。


 おとよは少し目を伏せた。それから顔を上げた。


「謝ってほしかったわけではありません」


 日吉は黙った。


「見えていなかったのではなく、見ようとしていなかった」おとよは言った。声は穏やかだった。しかし言葉は柔らかくなかった。「見えなかったのなら仕方がない。ですが、見ようとしていなかったのなら——」


 おとよは少し間を置いた。


「もし昨日、帳簿を見なかったら」


 日吉は何も言えなかった。


「私たちは一生、気づかなかったでしょう」おとよは言った。「日吉様も、一生そのままだったでしょう」


 部屋が静かになった。


 おとよは続けた。声は変わらなかった。変わらないから、重かった。


「それが怖いのです」


 日吉は黙っていた。


「前の倉でも、同じでした」おとよは続けた。声は低くなっていた。「気づかないまま終わりました。私たちは数字で、旦那衆は旦那衆で、そのまま倉が潰れました。誰も何も言わなかった。言えなかった。帳簿を見たことがなかったから、何が足りなかったのかも分からなかった」


 部屋が静かだった。


 おとよは顔を上げた。「だから怖いのです。帳簿がなければ、今度もそのままでした」


 何かを言おうとした。言葉が来なかった。来ないのが正しかった。おとよの問いは答えを求めていなかった。ただ、そこに置いていた。置かれたものは、日吉の中に落ちていった。底がなかった。


「これからを見てくれ」日吉はようやく言った。「言葉ではなく、これからを」


 おとよはしばらく黙った。


「それだけは、聞けます」


 立ち上がった。一礼した。出て行った。


 扉が閉まった。


 日吉は一人残った。許されたわけではなかった。許しを請うたわけでもなかった。ただ、問いが一段深くなった。昨夜は「なぜ今まで少なかったのか」だった。今夜は「帳簿がなければ、一生そのままだった」だった。それは給分の話ではなかった。


 前世を思った。会社にいた頃、利益率を改善した時に誇らしかった記憶がある。コストを下げた。数字が良くなった。評価された。しかしその時、誰の給分を削ったかを考えた記憶がなかった。考えなかったのではない。気づかなかったのでもない。見ようとしなかったのだ。おとよの言葉は、この世の話ではなかった。前の世からずっと、変わっていなかった。


 倉の主とは何か、という問いだった。いや、それより前の問いだった。人を見るとはどういうことか、という問いだった。帳簿は答えを出してくれなかった。帳簿は問いを出してくれた。それで十分だったのかもしれなかった。しかしおとよはそれで十分だとは言わなかった。



 与助は帳場で基準書を見ていた。


 今日の仕込み結果が手元にあった。品質は通常通りだった。北産の藁を使ったにもかかわらず、品質が落ちなかった。落ちなかったのは、おとよたちが手順を読んで動いたからだった。基準書がなければ動けなかった。しかし基準書だけでも動けなかった。


 どちらが欠けても、今日の出荷はなかった。


 与助は余白に一行書こうとして、指が止まった。


 与八を思い出した。あの日、記録は正しかった。手順も正しかった。しかし与八は正しく動かなかった。与助は長い間、その理由が分からなかった。記録が正しければ、人は動くはずだと思っていた。動かないのは、人の側の問題だと思っていた。


 違った。


 人を見ていなかったのは、与助の側だった。


 指が動いた。


 基準書は道標である。道を歩くのは人である。


 書いてから、少し考えた。消さなかった。



 小竹が日吉のところへ来たのは、夜になってからだった。


 帳簿を持っていた。今日の数字だった。出荷数。仕入れコスト。北産の藁の単価と、津島の問屋との差額。


「藁の件は、今日で終わりではありません」小竹は言った。「宗右衛門は今日の結果を見ます。見れば次を考える。次が何かはまだ分かりません」


「分からなくていい」日吉は言った。「来てから考える」


「そうしていると、少しずつ削られます」


「削られる前に根を増やす」日吉は言った。「宗右衛門が一手打つたびに、倉の根が一本増える。今日の北の藁も、そうじゃ。来月には四系統になる。再来月には五系統になる。宗右衛門が圧迫をやめない限り、倉は増え続ける」


 小竹は少し黙った。「宗右衛門はそれに気づいているかもしれません」


「気づいておっても、止められん」日吉は言った。「止めれば圧迫が消える。圧迫が消えれば倉は揺れない。揺れなければ宗右衛門に使えない。止めるに止められん」


 小竹は帳簿を閉じた。「おとよの件は」


「話した」


「どうでしたか」


 日吉は少し間を置いた。「終わっていない」


 小竹はうなずいた。それ以上は聞かなかった。


「もう一つ」小竹は言った。「川並衆の伝兵衛が、今日の仕事の後に話を聞かせてほしいと言っています。明日の朝、来てよいかと」


「来てもらえ」


「川並衆を正式に仕入れの網に組み込む件も、そこで話せます」


「そうしろ」


 小竹が立ち上がりかけた。


「小竹」


「はい」


「おとよが言った。見ようとしていなかった、と」日吉は言った。「お前は、どう思う」


 小竹は少し考えた。十歳の顔が、ゆっくりと動いた。


「私も同じかもしれません」小竹は言った。「おとよの問いが出た時、私は最初に帳簿を見ました。数字を見ました。数字が正しければ解決すると思いました」


「違ったか」


「半分は正しかった。半分は違いました」小竹は言った。「おとよは数字を見て納得しませんでした。日吉様が今夜話したことの方が、伝わったと思います」


 小竹は少し間を置いた。


「与八の時もそうでした」小竹は続けた。声が少し低くなった。「私は記録を読みました。記録が正しければ答えが出ると思いました。出ませんでした。おとよの時もそうでした。帳簿を見ました。数字が正しければ解決すると思いました。解決しませんでした」


「それで分かったか」


「数字は道具です」小竹は言った。「道具が先に来れば、人が後ろに下がります。私はずっと、道具を先に出していました」


 日吉は黙っていた。十歳の顔が、何かを堪えているように見えた。悔しさではなかった。自分を確かめているような顔だった。


「与助が今日、基準書に書き足しました」小竹は続けた。「基準書は道標である。道を歩くのは人である、と」


「与助が」


「はい。与助が書いたことと、おとよが言ったことと、日吉様が今夜話したことは、全部同じことだと思います」


 小竹は一礼して出て行った。



 津島の熱賀屋では、番頭が宗右衛門の前に座っていた。


「塩に続き、藁も効いておりませぬ」番頭は言った。「北から代替を引いたようです。出荷数は一割も落ちておりませんでした。それどころか——」


 番頭は少し間を置いた。


「現場が昨日より静かです。揺れが収まったというより、落ち着いた、という感じで」


 宗右衛門は縁側に座っていた。茶を飲んでいた。


 番頭の言葉が終わった。宗右衛門は何も言わなかった。茶を飲んだ。飲み干した。


「困りませぬか」番頭が聞いた。


「強くなっておる」宗右衛門は言った。


「は」


「一手打つたびに、日吉の倉が一段強くなる」宗右衛門は言った。声に焦りはなかった。確認するような言い方だった。「塩で揺れて、外の仕入れ網を作った。藁で揺れて、川並衆を正式に使い始める。わしの攻めが、すべて奴らの土台にされている」


「では——次はどうされますか」


 宗右衛門は少し間を置いた。


「よい」


「よい、とは」番頭は顔を上げた。


「城は完成した時が一番脆い」宗右衛門は言った。「今の日吉は、まだ建てている最中じゃ。建てている最中の城を崩すのは難しい。職人が多いほど、一つ崩れても直す。しかし完成した城は、どこを崩せば全体が落ちるかが見えやすい」


 番頭は黙っていた。


「待て」宗右衛門は言った。「急がんでいい。日吉が完成させてから、考える」


 番頭は書き留めた。筆が止まった。


 宗右衛門は立ち上がった。縁側から外を見た。木曽川の方角に、夜の水の光があった。


「日吉はよくやった」宗右衛門は言った。静かな声だった。


 番頭は顔を上げた。何も言えなかった。


「だから次へ進める」


「次、とは」


「商いは終わった」宗右衛門は言った。「次は人じゃ」


 番頭は意味が分からなかった。聞こうとした。しかし宗右衛門はもう次の言葉を出していた。


「一つだけ動かす」


「はい」


「清洲じゃ」


 それだけ言った。説明しなかった。縁側を踏む音が、夜の中に消えた。


 番頭は一人、帳面を見ていた。


 清洲。文字が一つ、紙の上にあった。次は人じゃ、という言葉が頭の中に残っていた。意味が分からなかった。分からないまま、筆を置いた。



 夜が深くなった。


 倉は静かだった。おとよは女衆の部屋に戻っていた。与助は帳場で基準書を閉じた。小竹は地図の前で眠りかけていた。小六は川並衆への返書を書き終えた。


 日吉は一人、帳場に残っていた。


 今日の帳簿を開いた。出荷数。仕入れコスト。川並衆への支払い。北産の藁の単価。全部、昨日より良い数字だった。


 しかし数字ではないものが、今日は多かった。


 おとよの「これからを見るだけです」という言葉。与助が基準書に書き足した一行。小竹が言った「数字は道具です」という言葉。伝兵衛が夜の川を渡った三艘の小舟。


 それは帳簿に書けなかった。書けないものが、倉を動かしていた。


 日吉は帳簿を閉じた。


 土台とは、見えないものでできている。見えないから削りやすい。削られても気づきにくい。気づいた時には、上に乗った仕組みが倒れている。


 おとよはまだ許していなかった。それで良かった、と日吉は思った。許されたら終わる。許されない間は、続く。続く限り、土台は育つ。


 秤を見た。


 今夜は、昨夜より少し揺れが小さかった。


 しかし、止まってはいなかった。


 どこか遠くで、別の手が動き始めていることを、日吉はまだ知らなかった。帳面の上にはない手が。数字では測れない手が。商いという盤の外側から、盤そのものを掴もうとしている手が。


 倉の土台は、今夜ようやく固まり始めた。


 しかしその夜、木曽川を下る小舟が一艘あった。荷を積んでいなかった。乗っているのは一人だった。懐に書状を持っていた。行き先は清洲だった。


 日吉は知らなかった。与助も、小竹も、おとよも、知らなかった。

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