第一章〈晴輝〉
「ちょっと雪、お母さんもう行くからね?午後からでもちゃんと学校には行きなよ!晴輝も雪の事頼んだよ!」
午前七時半、母親は全てを圧倒する声を家中に響かせ、忙しなく家を飛び出して行った。仕事は毎日同じ時間から始まるはずなのに何故いつもこんなにもギリギリに出ようとするのか晴輝には分からない。
「今日授業午後からだからまだ寝れたんだけどな…」
晴輝は道内の国立大学理学部数学科に通う大学二回生だ。晴輝自身はもっと上の大学に行けるポテンシャルはあったものの金銭的に上京する余裕が無かったために道内の国立大学であり、旧帝国大学と呼ばれる大学に留まるに至った。
この大学に通う学生はそこまでレベルの高い学生とは言えないので数学科の人気は低く、落ちこぼれの行く所というのがこの学科の雰囲気であるが、晴輝は落ちこぼれどころか入試でも好成績で入学し、入学後も上位の成績を維持していた。高校時代は神童とも呼ばれた晴輝であったが、それでも絶対に足元にすら及ばないと思う同級生が同じ数学科に在籍している。
それはそうとして、先程「雪」と呼ばれていた人物は三つ離れた晴輝の妹である。親は晴輝と雪がまだ小さい頃に父の不倫が原因で離婚してしまい母と三人で暮らしてきた。父を失ってしまった恐怖が根付いているため、母にも、妹にもできる限りの愛情をもって接するようにしていた。それもあり、貧乏ではあるが家族の仲は頗る良好で幸せに暮らしていた。
のであったが、最近の妹は少し様子がおかしかった。ある日から学校を休むことが多くなり、家でも自分の部屋に籠る時間が長くなっていた。学校の友達とは上手くいっているように思っていたから原因が正直分からず、その友達も心配して家に電話をかけてくることがあった。理由はよく分からないが行きたくなければ学校には行かなくても良いと思うし、母も学校に行けとは言うが、妹が休みたがっているならばそれを尊重していた。あまり気にしないようにしたかったがやはり三人のうち一人が欠けてしまうとリビングは少し寂しい雰囲気が漂ってしまう。
数日前に妹を散歩に誘ってみたがその時に「嫌だ」と酷く拒絶されてしまった。その時の雪の目は晴輝を嫌がっていると言うよりも、どこか寂しいような、悲しいようなものだった。何を考えているのかは分からなかったが、妹をあまり刺激したくなくその後は晴輝からは話しかけないようにしていた。
今日も学校を休むのだろうか。休む時は母が高校に連絡をしており母が仕事に出かけてしまった時は、晴輝がするように母から言われている。面倒だが、連絡しなかった時の方が面倒なので一応休むのかどうか聞くことにした。
三十秒ほど目を閉じ最後の休息を堪能する。これより長い時間であると再び眠りの世界に吸い込まれそうになることを長年の経験から知っている。体を温めていた布団を体から引き剥がすことでまだ冴えていない脳を活性化させ、何とか上半身を起こした。晴輝の家は一軒家であり、一階にリビング、台所、洗面所、母の部屋、妹の部屋などがあり、二階には晴輝の部屋と物置部屋、トイレが存在している。
汗ばんだ服が気持ち悪かったのですぐに着替えることにした。今日は六月二十三日、もうそろそろ夏に突入するという時期でありいくら北海道と言えども一晩中布団の中にいると汗をかいてしまうような気温となってしまう。
着替えてすぐ部屋を出て階段を降り、妹の部屋の前まで来た。ここ最近の二人の雰囲気が険悪だったこともあり早すぎる到着にまだ心の準備がととのっていなかった。家族ではあるが、一人の立派な人間であり、それなりに緊張してしまう時もあるものだなと思った。
意を決して部屋のドアをノックする。コンコンと軽い音を三回ほど鳴らした。
「雪、起きてる?今日学校休むなら連絡しとくけど…」
十秒ほど待ったはずだが返事はなかった。孤独な沈黙のせいで家の中を夢の中のようなハッキリとしない雰囲気が覆っていく。今日はまだ寝ているのかもしれない。雪は昼まで寝てしまい、午後から学校に行くのも面倒だから休んでしまうということが何度かあった。晴輝が午後から授業に行く時に、母によって作られた雪の朝食がリビングの机に残っているのを何度か目撃していた。家に帰ると雪は学校を休んだと言っていたからそういうことであったのだろう。
晴輝はあまり気にしない方が良いと自分に言い聞かせた。部屋に入り叩き起してまで確認したいとは思わなかった。これ以上雪との関係を崩したくなかった。母には、声をかけたが雪が起きてなかったし、大学の課題に追われていたと適当に言えば許してくれるだろうと考えた。いつも通り朝食をとり、学校の準備や復習などをする。今日はやけに勉強が捗り時間を持て余してしまった。優しい雨の音が騒がしい。家の中から見る雨は小さい頃から好きだったが今日は何故かあまり快くなかった。晴輝は耐えられずいつもよりも二十分ほど早く家を出た。
時刻は午後十八時、数学の講義が終わる時間である。頭の禿げ上がった教授が部屋の外に出ていく。今日はなんだか大学全体の空気が重いような感じがした。数日前から風が強く、雨も若干降っているのもあり景色が黒ずんで見えた。次々と学生が帰る支度をする。授業の質問を教授に聞きに行くような人は居ないので少し待つと講義室はすぐ晴輝だけの空間となる。授業終わりは人が居なくなるのを待ち、家から持ってきた水筒の水を飲むのが晴輝のルーティンである。しんと静まり返った講義室が何故か好きだった。
今日も数分間の至福の時を終えると大学を出た。雨は止んでいたようだったが外のなまぬるい空気が体にまとわりつく。昼間よりマシになったものの雨上がりということもあり満員電車のような不快な空気だった。
数分歩き最寄りの地下鉄の入口前に着くと友人かつ同大学法学部の学生、光明院 凰牙を発見した。珍しい名前なのでもう一度言うとコウメイイン オウガである。この光明院という名字は晴輝の梶山では太刀打ち出来ないほどに強く、偉い人かと勘違いしてしまうが、こいつは至って平凡。強いていえばちょっと地味なただの大学生である。特筆すべきことは晴輝が足元にも及ばないと考える天才、天花寺 夕妃の彼氏であるということだ。珍しい名前なのでもう一度言うとテンゲイジ ユウヒである。本人たちはそういった関係を否定しており、ライバル関係だとかペットと飼い主だとか言っているが、見ず知らずの他人がみてもこの関係には彼氏彼女という名前をつけるだろう。さらに付け加えると天花寺、凰牙、晴輝は同じ高校の同級生であった。その高校は北海道の公立高校でナンバースリーの自称進学校であり、当たり前だがそんな高校では天花寺は一回を除き常にトップだった。
理学部では話が合う人が天花寺かあと一人くらいくらいしかおらず基本的に一人で行動することが多いため、今日は凰牙が家族以外で最初に会話する人物になりそうである。
「天花寺さんと一緒じゃないの」
「おう晴輝か、その絡みダルいって言ったはずだけど」
「すまんすまん、今帰るとこ?」
「そうだね。今日はバイトも夕妃の付き添いもないし、帰ってゆっくり読書かな」
「お、良いね、じゃあ途中まで一緒に帰れるね。久しぶりかも二人で帰るの」
天花寺の付き添いというのは、月二回くらい発生するイベントのことで天花寺が気になった事に凰牙が振り回されるといったものだ。一週間前くらいには狸小路という商店街でギターの弾き語りをしたらどれくらい稼げるのかを検証するために凰牙は楽譜を天花寺見せるという重役を任命されていた。夕妃は神童、晴輝が足元にも及ばないと考える天才であるため当然ギターも歌も素人でもわかるくらい上手く、午後四時から二時間程で五万円程稼いでしまった。晴輝は時給2500円と結構良いバイトをしているのだが、やってられるかと思ってしまった。
「それより理学部でも話題になってた?あの事件のこと」
凰牙が恐る恐るといった感じで尋ねてきた。
「事件?確かにいつもより静かだったような感じはしたけど…何かあったの?」
「知らないの。"同時多発殺人"とか呼ばれてるやつ」
凰牙はすぐにスマートフォンを取り出し、情報伝達SNSを晴輝に見せる。
『マジで怖いんだけど。やっぱり闇バイトなのかな。近所にも救急車来てて危なかったかも』
『警察は何をしているんだ。明らかに誰かが意図的に一晩のうちにこの事件を起こしたのにそこにはまだ何の言及もされていない。第二の犯行が行われる前に何か手を打つべきだ。』
『みんな✝✝✝同時多発殺人✝✝✝とか変な名前付けて騒ぎすぎてて草。普通に考えて偶然だろ。』
『私の学校の友達も殺害されていました。こんなに沢山の人の命を奪うなんて許せないです。これは現実で、ゲームでもなんでもありません。一刻も早く犯人が捕まることを願うと共に殺害されてしまった方々のご冥福をお祈りします』
晴輝は目を見開いた。いくら文字をスクロールしても人々の投稿はこの事件ただ一色に染まっている。有名人などの炎上である書き込みが多くなることはあったが、ここまでの規模のものとなると見るのは初めてである。そしてその中でも1番イイネが付けられている投稿が目に入った。
『これってもう、同時多発殺人じゃん』
アメリカで発生した某事件と同じくらい衝撃的な事が起こってしまったということをたった一言で表したその投稿は九時間程前のものであるがイイネが既に50万件を超えている。同時多発殺人、ふざけた名前であるが実際にこれが日本で発生したというのか。何かのドッキリかなんかでは無いのか、いやそれは無い。不謹慎すぎるしここまでの規模で人を動かすなど出来ない。これは現実なのか。
「…な…なんなんだ…これ」
「……警察の情報によれば今分かっているのだけでも昨日の夜に八百人以上もの人が自宅で亡くなっていたらしい。被害者の多くは刃物で刺されて死亡しているところを発見されたんだ。ここまで大規模な事件はなかなかないから警察も慎重になってるのかもしれない。同一の組織による犯行であると言ったような事は一切言っていないんだ。」
「それなのにこんなことになって…」
少なくとも八百人もの人が一夜にして殺害されたのは偶然とは考えにくいというのが一般的な考えであろう。一年間の殺人の発生件数はおよそ六百から七百ほどである。それを超える数の人がたった一日で殺害されてしまったのだ。だが決めつけるのは良くない。
「……同時多発殺人。本当かどうか分からないけどもしそうだとしたら怖いな」
「……怖い所の話じゃないな」
晴輝は自分のスマートフォンを取り出しSNSを確認する。これが凰牙によるドッキリである最後の希望にかけたがそれも虚しく、先程見たものと大して変わらない光景がいつもよりも一際明るく表示された。
確かに今日は雰囲気が少し暗い人が多いとは感じていたがまさかここまでのことが起こっているとは思わなかった。重くなってしまった雰囲気に耐えられなくなり何か話そうと思ったのだが話題が何一つ浮かばなかった。凰牙と話すのに困ったことなど一度もなかったのに。
「衝撃的だよね。日本中大混乱だよ、無理は無い。早いとこ帰ろうか。襲われたら嫌だしさ」
言葉を発せられなかった晴輝に代わり凰牙が場を繋いでくれた。晴輝は無言で頷き、凰牙と共に階段を降りた。
この時間帯の地下鉄は人が多く座れることは少なかった印象なのだが今日は一両に二、三人程度で晴輝と凰牙が乗った車両には誰も乗っていなかった。物騒な事件の後だから夜は家に篭もる人が多くなっているのだろうか。人が少ないことで、もしもここが襲われてしまった時に狙われるリスクが高くなってしまうなどと考えてしまった。不謹慎だ。死という恐怖が理性を萎縮させていた。死にたくないと思い、行動してしまうのが生き物というものなのだ。
晴輝と凰牙は車両の真ん中あたりの座席に腰掛け、数秒後に晴輝の口が開く。
「周りで亡くなってしまった人の事とか聞いた?」
違うことを話そうと思っていたのにどうしても事件のことから意識が外れず口が勝手に動いてしまった。マズいと思ったが時すでに遅く、凰牙が何とか繋いでくれた雰囲気がもう一度暗く沈んでしまうのを感じた。凰牙は少し表情を固くしたが直ぐにいつもの感じに戻り話してくれた。
「俺の周りでは聞いてない。大学内でも高校の同期とか後輩とSNSでやり取りをしたけど何かあった感じはしなかった。確か今のところ北海道では七人殺害されて、そのうち六人が札幌だったらしい。」
北海道の県庁所在地が札幌であり、北海道の街の人口ランキングでは2位の街に大差を付けて一位であるのが札幌だ。晴輝はそこまで密集していると感じたことは無いが、他の地域がもっと閑散としているということなのだろう。高二の見学旅行で東京へ行った時には人の多さに驚いたものだった。
「かなり集中してるんだな。やっぱり人が密集しているところで沢山犯行を行うという感じなのかな。」
「…いやどうなんだろう」
聞こえるか聞こえないかくらいの声で凰牙が呟くのを晴輝の耳が検知した。その様子に何かを気づいているように感じて気になった。
「何か引っかかるの?」
「ああ…いや、ちょっと気になることがあるんだ」
「何?」
「大したことじゃないと思うんだけど、亡くなった人の説明で"被害者の多くは"っていう風に言っていたから…それなら例外もあるって事になるじゃん。その人たちはどうやって亡くなっていたのかが気になるんだ。警察は俺がさっき話した以上の情報は言ってないからさ。」
「それはそうかもしれないけど、そんなに重要かな。もし同一の組織によって引き起こされたものとするならそこまで大差は無いんじゃない?」
「現実的に考えて、ここまで大規模な犯行を起こすのに大勢の人を集めるのはリスクが高すぎる気がするんだ。そのうちの誰か一人でも情報を漏らせばすぐ警察に計画がバレてしまうから。何かで脅したとしても警察に逃げ込む人は一定数いるはずだし、そんな事誰でもわかる気がする。」
「お前賢いな」
「いや、俺じゃないよ。夕妃が言ってたんだ。SNSで連絡が来てさ、感想を聞かせてとか言われて困ったよ。」
出たな天花寺。やっぱりお前か。凰牙は文系だしそんな理論的な話出来る訳ないと思っていたから違和感はあった。今の話からすると天花寺はもう色々と考えているようだ。もしかしてもう真相に気づいていたりするのか。
「そうだったんだ。他になにか言ってた?」
「そうだね、夕妃は警察が…」
その時ちょうど、地下鉄のドアが開いた。話に熱中しすぎていたため気づかなかったが、もう凰牙が降りる駅に着いてしまったようだ。この話の続きは聞けそうにない。
「…おっとごめん。降りないと。じゃあね気をつけて」
「お前もな。死ぬなよ」
凰牙は軽く手を振り小走りでドアの外へ出ていった。すぐドアが閉まり再び地下鉄が動き出す。あと二つほどで晴輝が降りる駅だ。
警察が…何なのだろう。警察が言っていた情報に何かヒントがあるのだろうか。確か、八百人以上が自宅で亡くなっている。刃物で刺され死亡。それ以外は何も言っていなかったようだ。この情報から何を気づいたというのだろう。
しばらく考えても何も分からなかったし、考えるのに熱中しすぎて駅を一つ過ぎてしまった。動揺していたということもあったのだろう。今起きている事に現実味を感じなく、夢の中で空を飛んでいるような感じだった。そして恐怖。凰牙と話しているうちは気分が昂って保っていたが、一人になるとそんなことも出来ない。人が大勢死んだのだ。それが自分に起こってもおかしくない。犯人が近くにいるかもしれない。晴輝は基本的にイレギュラーな状況が好きだ。大雨、雷、強風、地震など、人が死ななければもっとそれを家の中で体験したいと思うような性格であった。しかし今は家の外でその全てを同時に体験しているような気分であり少しも好ましくない。早く家の布団の中に入りたかった。そんなことを考えていると駅に着いた。地下鉄を降り、地上に出ると見慣れない景色とまだ生暖かい湿った空気が晴輝の気分を余計に悪くした。
いつもより長い家路を歩いた足が重く額に少し汗が滲んでいる。家につくと鍵が閉まっていた。母がまだ帰っていないらしく電気も全て消えたままだった。合鍵を取りだし鍵を開け、玄関に入り靴を脱ぐ。元々あった一足の靴の横に自分のを揃え、玄関の電気をつけてからリビングへと向かう。リビングも明かりが付いていなかったので電気をつけた。どこかよそよそしく暗い光景に落ち着かなかったがそれよりも机の上にそのまま放置されていた雪の朝食が目に入った。
雪は今日何も食べていないのだろうか。雪が昼に起きてきた時は用意されていた朝食を昼に食べていたようだったがまだ残されているという事は他のものを食べたのだろうか。
その時晴輝の頭の中には最悪な考えが浮かび上がってきた。有り得ないだろうと却下しようとするも脳にこびりついたそれは剥がれる気配を見せず、脳の中に入りこみ、徐々に硬くなり、晴輝の頭の中を支配した。
"""同時多発殺人"""
馬鹿みたいな単語がどうしても頭から離れなかった。全国で発生している殺人で雪が殺害されている確率はどれくらいだろうか。多く見積って千件程の事件であるとする。ある人が殺害される確率を同様に確からしいとすればそれを日本の人口で割ればよく、およそ1.3×10^-5程である。パーセントに直せば 約0.0013% 起こるはずが無い。友達から連絡が来てどこか出かけているに違いない。それか具合が悪くとても飯を食べられるような状況では無いのだ。
"""""""""同時多発殺人"""""""""
うるさい。耳鳴りが止まらないし視界も歪んでいる。体が動かない。心臓が血液を体内に過剰に送り込む音が大きくなる。苦しい。息をするのを忘れていた。
冷静になれ。梶山晴輝、玄関に雪の靴が置いてあったから出かけているということは無い。そして机に雪の朝食が残っている。具合が悪くて部屋で休んでいるのだ。声をかければ分かる。雪の部屋の前へ行き、ゴンゴンゴンと扉を三回ほど叩く。
「ただいま雪。ご飯食べてないの?大丈夫?」
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何も聞こえない。重すぎる沈黙が晴輝の体を動かし部屋の扉を開くと、暗い部屋の中に確かに見えた。黒い血溜まりから伸びる人形のような足。扉を開けた手はそのまま雪の部屋の電気をつける。明かりをつけたはずなのに先程よりも深い黒の血溜まりの中に横向きに倒れている雪。乱れた短い黒髪からはどこか安らかな表情を覗かせていた。手を後ろで結束バンドで拘束され、そして、脇腹のあたりに包丁が突き立てられていた。




