「第四回報告」
僕が今回の報告を終えると笑田社長は嬉々として、
「ほう、京極高次のはなしですか。
良いです、彼は関ヶ原の合戦の影の立役者と極一部のマニアから言われてる人物なんですよ。」
「極一部のマニアってかなり少数派ですよね?」
「まぁ、それはおいときましょう。
日本人の誰もが習う有名な戦い、関ヶ原の合戦。
この戦いが起こる前から暗躍していたのが京極高次なんです。
関ヶ原の合戦で活躍したわけでもないし、有力な武将を討ち取ったわけでもない。でも、彼は重要な存在だったんですよ!」
「京極高次という人は実際はどんな人なんですか?」
僕は正継さんの話からしかこの人物を知らなかったので聞いてみた。笑田社長は満面の笑みで
「彼は幼少期に織田信長の元に人質に出され、そのまま信長の家臣になります。本能寺の変が起こった後には明智光秀に通じようとしましたが上手くいかず、浅井長政の元妻であり信長の妹の市を頼って柴田勝家の元に逃げ込みます。
まぁ、柴田勝家も賤ヶ岳の戦いで負けて秀吉側に捕まるのですがこの時には高次の妹が秀吉の側室になっていたので助けられて、高島郡に領地を貰いました。
その後も九州平定や小田原征伐で活躍して、秀吉の家臣として朝廷から従五位、従四位、従三位とどんどん出世していきます。
妹と妻の尻の光で出世した蛍大名なんてよく言われますが、秀吉としては近江を治めてきた歴史から考えて京極氏を利用したとの考え方のほうがしっくり来ますね。
ただ、ここで終わらないのが京極高次です。
秀吉が亡くなると石田三成と徳川家康の関係が悪化します。
この時、京極高次は大津城の城主になっており、京都・大阪から東国に向かうのに重要な場所を任されていたわけです。
家康が上杉景勝を討伐するために会津に向かう途中で大津城に立ち寄って、討伐中の事を頼まれるくらいの関係にありました。
実際に弟の京極孝知と家臣を徳川家康に同行させてます。
でも、その後に三成も大津城に自分味方するようにと使者を出してきました。まぁ、後の東軍・西軍両方から勧誘されたわけです。大津城の守りが強くなかったので、高次は息子を人質として大阪に送りましたが、実際は東軍側の人間でした。
まぁ、この頃に三成とも大津城で会ったりしてたんですが東軍に西軍の情報を流してた感じです。」
「かなりの策士ですね。
結局は息子のために西軍についたんですか?」
「いいえ、彼は東軍です。
西軍と共に越前まで出兵して船で大津城に戻り、徳川家康の重臣の井伊直政に『自分は東軍に味方する』と書状を送ります。
この動きはもちろん西軍に知れ渡り、毛利元康という西軍総大将の毛利輝元の叔父に当たる人物が大津に攻めてきて、その後に九州の大名である立花宗茂も加わり西軍は一万五千とも四万とも言われる兵になり、大津城を取り囲んだわけです。
数には勝てず次々と城の周りからは総攻撃を受けて高次自身怪我をしながら籠城しました。
結局は大阪の北政所・・秀吉の正室のねねからの使者等に説得されて降伏しました。高次は出家して高野山に入ることで許され、髪を剃って等しているうちに関ヶ原の合戦が終わったわけです。
なんせ降伏したその日に関ヶ原の合戦が始まっていたわけですから。毛利元康も立花宗茂も戦場に着くことなく戦が終わったわけです。東軍の勝利により京極高次は責められることなく、逆に西軍の多くの兵を大津城に釘付けした戦功により若狭藩初代藩主になった人物です。まぁ、こんな壮絶な人生をおくりながらも47歳で亡くなっているので、戦国時代の人の人生の厚みというか深さというかぎゅっと濃縮されてますよね。
密度が高いとでも言えばいいかもしれないですね。
我々もそんな人生を生きたいものですね。」
「歴史オタクなんですか?
めちゃくちゃ詳しいじゃないですか?」
「彦根に関係ある人や物を調べていくと以外と知らない大きな出来事や偉大な人物に出会ったりするものですからね。」
「故郷の事をただ住んでる町で終わらせなければ色んな学びや経験・知識が得られるってことですか?」
「さすがは大谷君。
話をまとめるのが上手いですね。」
「ありがとうございます。」
僕は言いながら、少し自分でも色々と調べてみようかなと思った。




