「石田家の禁制」
僕はまだ石田正継という人物をよく理解できていない。
もちろん、本人に会い話ができるというのは普通では考えられない出来事だ。武士でありながら現代にも通じる愚痴や不満を持っていたり、時代の違いを受け入れて僕というイレギュラーな存在も戦国時代に溶け込ませてくれている。
彼にとって僕は戦国時代の力関係もなく、話を他に漏らす事もなく、話をしたからと言って誰かに責められるわけでもないという特別で安全な存在なのだろう。
戦国武将で有名な人を答えてくださいと言われたら、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑や武田信玄、上杉謙信、北条氏康、毛利元就そして石田三成などをあげる人が多いだろう。
少なくとも石田正継と答える人はほとんどいないはずだ。
彼は表舞台に立つことがなかったからだ。
彼を詳細に解説する資料や文献はあまり残っていない。
ただ、石田三成の父であり佐和山城城代として北近江の土地を治めていたという記録は残っている。
石田三成が佐和山城主になり、城代として正継さんが治め出した頃の1596年に三成の名で村掟を出している。これは年貢の収納や政策方針を定めたもので13の蔵入地と9つの家来の給地に向けて出されたもので、坂田郡多和田村に宛てた村掟が龍潭寺に保管されているらしい。正継さんが1598年の11月23日に高宮にあった遊行道場に禁制を出している。遊行道場とは、時宗の開祖の一遍の没後に弟子達が作った道場で念仏を広げるために寺に住むのではなく色々な場所を巡るさいの修行場や宿泊場所のようなものだと思われる。正確にはわからないが説明を読む感じではそうだろう。
要は人が入れ替わり立ち替わりするので、これをしては行けないと定めたのだろう。
別に厳しく取り締まっていたというわけでもなく、時宗に対して弾圧を加えていたわけでもないが、使う人がルールを守って使うことで治安の維持や地域に受け入れられる施設にしようとしたのではないだろうか?そこはまた機会があれば聞いて見ようと思うがきっとそうだろう。
禁制の内容は一つ目が陶器に使う陶石という土を採らない事、二つ目が周囲の竹や木を伐採しない事、三つ目が寺中へみだりに立ち入り夜露をしのがない事などが決められていたようだ。
正継さんは寺社への保護政策を手厚くしていた事がわかった。この禁制を定める際に前もって道場側に伝えた事から道場の僧と仲良かった様子がうかがえたようだ。
愚痴を聞く仕事をしているとリピーターも何人かいるが同じ時代に生きて、同じような常識の中で生活しているためか共感できる事や理解できることが多い。
しかし、戦国時代の人とは常識とかも違うので理解できるかはわからないが正継さんの抱える不満を少しでも解消できるように頑張ろうと思った。