アリスブルー・ブロッサム
今回は「第二回初恋・春」のキーワードのみ入れさせていただきました。
病気や医療に関することは雰囲気でお読みいただければ幸いです。
武 頼庵様、一日も早いご全快を心からお祈り申し上げます。
死に面が見てぇからだよ
彼は即座にこう返した。
私の心臓はいつ止まってもおかしくなかった。心臓に異常が見つかったのは私も覚えていないくらい小さい頃で、この12年間、手術と薬で騙し騙しやってきた。学校もろくに行けなくて、母に当たったこともあった。
そんな中、彼が現れた。兄弟が多い先生の一番下の弟で、年齢は確か23歳。バイトをクビになって、先生が一年間養う代わりに、私の話し相手として連れて来られた。
「初めまして、木原ありです」
私が挨拶をすると、彼はブレスレットを弄りながら「ああ」だか「おお」だかわからない返事をした。
「ごめんね、ありちゃん。コイツは仁。友達いないから仲良くしてやってよ」
先生が困ったように笑う。彼は私を見もしなかった。
仁くんは、私が「仁くん!」と声をかけても舌打ちもしたし、私の名前も呼ばなかった。追いかける私を振り向きもしなかったし、私の話には必ず否定をした。外出許可が出て一緒に食事をした時は堂々と喫煙席に入って私の目の前で煙草を吸った。
そんな彼と一緒にいて、私は「今まで見たことがない人だ」と思った。
ある日、仁くんと先生が言い争っていた。というよりも先生が怒っているところを仁くんが受け流していたという感じなのだが。「喫煙席」は聞き取れたから、あの事で怒っているんだと分かった。
「面倒だったら断ればいいだろ!? そうしたら俺だって別の条件を出してた! 何でお前は――」
「あいつの死に面を見てぇからだよ」
彼の言葉だけが、残った。
先生が、怒った。
「わかった。もうお前には頼まない」
私は走りたい気持ちを必死に抑えて歩いた。このままじゃ彼と会えなくなる。私はそれが、途轍もなく嫌だった。
「先生っ!」
「え? …ありちゃん?」
「先生っ! 私うれしいっ!」
「え?」
「私、煙草の匂いって初めてだった! 歌でも小説でも煙草って出るけど、今まで想像つかなくて……。煙草って苦い匂いがするんだね。だから喫煙席入ったとき、すごくワクワクしたの!」
大丈夫かな? 許してもらえないかな? 私は仁くんを引き留めるのに必死だった。
「先生……だから、あの……」
先生は穏やかな顔で私に目線を合わせた。
「わかった。でも煙草は健康な人は勿論だけど、今のありちゃんには大敵だからね。」
よかった。許してくれた。
私はまた仁くんに会えることに心の中で飛び上がった。
その翌朝、検査ではラッキーなことに、煙草の影響は見当たらないらしかった。いつも私の見てくれるベテラン看護師さんが私の病室に入り、にこやかに声をかけてきた。
「ありちゃん、お見舞いよ。いつもの彼」
くすっとからかうように言われて少し恥ずかしい。入れても問題ないことを伝えて、彼を入れてもらった。
「仁くん。おはよう」
仁くんはまた「ああ」だか「おお」だかわからない返事をした。
「つーかお前嫌じゃねーの?」
仁くんから出た、まっすぐだけどハスキーな声。
「どうして? 仁くん来てくれるの嬉しいよ?」
「なんかよ、趣味悪ィな。まだ14なのに」
死に面見てぇなんて言ったやつ追いかけるかね。
仁くんはそう呟くとメッセンジャーバッグから小さいバインダーを取り出して、紙を一枚挟んだ。
「仁くん、それなに?」
「便箋」
「…あ! もしかしてラブレター?」
「古いだろ。ただ好きな色だから買ったんだよ」
面倒だと言わんばかりに彼が突っぱねた。
バインダーに挟まれた便箋は水色よりもすごく色が淡い。空に当てたら消えてしまいそうだ。
「アリスブルー」
「え?」
「色の名前」
「ああ」
仁くんは脚を組んで便箋に何かを書き始めた。少し伏せた目に、濃い睫毛が規則正しく並んでいる。
「灰色が数滴入ったような水色で、目視出来るか出来ないかってくらい」
「え?」
「目視出来ている時は、まだ生きていられる気がしてる」
「何それ?」
「アリスブルーが好きな理由」
「へぇー……」
彼の話を聞いたのは、初めてだった。視線は便箋に向けたままで、私を見もしなかったけれど、世間話のようで、秘密の話みたいな話が、単純に嬉しかった。何を書いているのか想像を始めようとしたけど、もうすぐ検査の時間だった。
でも、彼は今、消えてしまいそうな水色に大切なものを書きとめて、永遠に見えるものにしているに違いなかった。
検査から戻って来た。先生曰く、移植しか完治が望めないらしい。泣いている母をなんとか宥めて病室に戻ると、仁くんがベッドテーブルに突っ伏していた。ふわふわの黒髪が、少し温かい。
「仁くん」
「ん? ああ、早えーな」
仁くんが起きあがった。頭を右手押さえて眉間に皺を寄せている。そのままじっと動かないので、私はとりあえずベッドに戻った。
「? 頭痛い?」
「うーん」
「先生呼ぶ?」
「…帰る」
仁くんはふらつきながら病室を出て行った。私を見ないで帰られるのが寂しくて、彼が閉めたドアをじっと見つめていた。だから、ゴミ箱に入っていた紙くずに気づかなかった。
今日は、仁くんが来ない。昨日は頭痛で帰ったからまだ体調が悪いんだろうか? 頭痛が治まっていればいいけど。看護師さんに中庭まで付き添ってもらった。白い絨毯が敷かれているみたいに、桜の花びらが落ちていた。
「今日はあったかいわね、ありちゃん」
「はい、でも風は冷たくて、こういう天気すごい好きなんです」
空気の温かさと、風の冷たさに、春の匂いを感じた。桜は、もう少しで葉桜になるだろう。
「この桜の花びらが、」
アリスブルーだったらいいのに。そうしたら、彼は笑ってくれるかもしれないのに。
今日も仁くんは来なかったけれど、私は体調が良くていつもよりおしゃべりだった。今なら出来る気がして先生にレターセットを買ってもらった。パステルピンクで、右下の隅にポコンとハートの型押しがされたシンプルで可愛い便箋だった。
『突然こんな手紙を出してごめんなさい。
仁くんのことが好きです。初めて、人に恋をすることを知りました。
私を病人扱いしないところも、仁くんは頼まれてやっているかも知れないけど、私の話を聞いてくれるところも、煙草が似合うところも、消えそうな水色が好きなところも本当に好きです。
今日、桜の花びらが散って、中庭に白い絨毯が敷かれているみたいでした。この桜の花びらがもしも、アリスブルーだったら、仁くんは喜ぶでしょうか?
私、仁くんの笑顔が見たいです。仁くんは何が好きなのか、夢とか目標とか、色々知りたいです。もっと仁くんとの穏やかな時間を過ごしたいです。
お返事待ってます』
書き上げると、気恥ずかしさがありながらも、なんだかスッキリした気持ちになった。書き上げた便箋を白い封筒に入れて、先生に渡した。
「これ……仁くんに渡してください」
「うん、ちゃんと渡すよ」
先生が笑顔で手紙を受け取った。
今日の空は、仁くんの便箋を消してしまいそうな色だった。
そして、仁くんから返事は来なかった。
仁くんと自然に会わなくなって6年が経った。心臓は今も動いていて、私は通信制高校を卒業して専門学校に通っている。
「50番」
煙草は初めて買った。水色のライターもレジに一緒に置いて会計をする。
初めて買った煙草は、吸い慣れたみたいに手に馴染んだ。メンソールと、少しだけ苦い煙草の匂い。
「仁くん」
結局、死に顔見せられなかった。
私は心臓の移植に成功して、先生が何度も「奇跡」という言葉を使うくらいに調子が良かった。退院しても特に発作もない。
「今どうしてるんだろう?」
灰皿に煙草を押し込んだ。彼は今は29歳だ。私と会ったときにバイトをクビになったと言っていた。転職して優しい彼女でも出来ているかもしれない。いや、もしかしたら結婚しているだろう。
「幸せであれ」
私は誰もいない喫煙所で呟いた。彼の幸せを願うように。
アルバイトも無かったので早く家に帰ってきた。友達はアルバイトや彼氏と会う予定があるらしい。
「ただいま」
「おかえり。今日はお友達と遊ばないの?」
「うん。今日なに?」
「唐揚げ。そうだ、あり。先生から手紙届いてるわよ」
母からそう言われて、ダイニングテーブルを見たら確かに封筒があった。破らないように慎重に開く。住所と宛名が書かれた白い封筒から出て来たのは、アリスブルーの便箋だった。
階段を駆け上がって自分の部屋に入る。先生の手紙は、私の近況をうかがう挨拶から始まっていた。
『ありちゃん、久しぶり。この手紙が読めているってことは今も元気なんだろうね。お母さんから専門学校に行って勉強していると聞きました』
文字だけなのに、優しい先生にまた会えた気がした。先生の近況も読みながら、やっぱり忙しいんだと思った。
『ところで、君は仁に手紙を出したことを覚えているでしょうか?』
「え…?」
あの時、手紙の返事は来なかった。だからフラれたのかと思って、それっきりでいた。6年も経つのに、仁くんを見つけた気がして誰かの心臓がドクドクと音を立てた。
先生は真実を手紙の中で話してくれた。仁くんがどういった経緯で先生のもとに来たのか、どうして仁くんが私の元に来なくなったのか、そして、どうして手紙の返事がなかったのか……。
先生の手紙を読んでいくうちに、文字が滲んできた。右手は水分を吸い取ってはくれなくて、マスカラとアイシャドウをひたすら伸ばすだけだった。それでも全て読もうと、左手の便箋は離さなかった。
手紙を読んだあとは、声をこらえることは出来なかった。声が出たら体も動いて、机や棚の上にあるものを薙ぎ払った。
「なんで……! 仁くんっ!」
物が散乱した部屋で、私は「なんでなんで」と泣き続けた。
仁くんとの時間は1ヵ月半だった。それでも、私にとっては大切な記憶だった。だって初めて人を好きになったんだ。14歳の自分は彼に憧れ、そして恋い焦がれた。
息が切れるほど泣いた。泣いて、涙が止まったら部屋の惨状に気づいた。片付けようと開いた本に手を伸ばすと、本には便箋が乗っていた。もしかしてずっと挟まっていたのだろうか。便箋は、彼が好きだと言ったアリスブルー。ごく淡い、灰色がかった水色。
「仁くん……」
便箋を開くと、早書きしたような乱暴な文字。
『
』
止まっていた涙がまた零れた。部屋を片付けることも、母の声も忘れて、心臓の音だけが聞こえた。心臓の音と、頬を伝う水分だけ感じる。もう私の道は決められてしまった。彼の願いが書かれたこの手紙で私は突きつけられたように感じた。
私は、アリスブルーを目視出来なくなった彼の後を追うことは出来ないのだと。
『あり へ
幸せであれ
青柳 仁』
ありがとうございました。
私も就職活動に本腰を入れる為、平成最後の作品がこちらになります。
令和最初の作品はいつになるやら……。