壊れた日常
血の気のない、というかまったく生気のない肌。異様なまでに長い腕。他の部分は骨と皮ばかりなのにでっぷりと膨らみ皮膚の張った腹。頭には一本も髪の毛がなく、ぎょろりとした目は異様な程大きく黒々としていてまるで闇を吸い込んだようだ。鼻は無く、そのかわりにずらりと牙の並んだ小さな顔に不釣り合いなほど大きな口が開いていた。
明らかに人間ではないその姿に、私は思わず後ずさった。その拍子に杖をひっかけ、派手に後ろにすっ転んだ。まずい。杖が無ければ、誰かの助けが無ければ、逃げる事は愚か、立ち上がる事さえうまく出来ない。否、後ろに下がる事さえうまく出来ないのだ。バケモノがゆっくりと近付いてくる。ベタ、ベタ、という重たい足音と共にバケモノの手から何かが落ちた。黒い…布、のような物。黒い布。…黒い服。さっきまでお母さんが着ていたのは。 お母さんのお気に入りの黒いワンピース。
なんでこんなバケモノがお母さんの服の切れ端なんか持っているんだ。…いや、今は知りたくない。逃げる事に専念しなければ、答えだって分からない。そうじゃないかもしれない。
しかし、逃げなければならないと頭では分かっているのに体は全く動かない。指一本動かす事が出来ないのだ。もうバケモノは目の前まで迫って来ていて、鼻をつくような悪臭まで漂って来た。バケモノが手を広げると鋭い爪が生えた三本の歪な形の指が露わになった。その指から赤黒い液体が滴り落ちて、地面に水溜りを作っていく。あ、もうダメだこれ。終わった。喰われる。妙に冷静になった頭でふっとそんな事を考えた時、急にバケモノの動きが止まった。
「えっ。」
困惑する私の前でバケモノがゆっくりと後ろを向いた。つられる様にヤツの後ろを見てみる。誰かいた。逆光で顔は見えないが、シルエット的に男の人っぽい。その人は小型の刃物の様な物を構えている。
男の人は構えていた小型の刃物をバケモノに向かって投げつけた。飛んできた刃物は見事にヤツの額のど真ん中に命中した。それでもヤツは動じない。刺さっている刃物を自分の額の肉ごと引っこ抜いて男の人に突進していった。
「どいつもこいつもしぶといな…!」
そう言って物凄い勢いでまた刃物を投げつける男の人。そのうちの一本がヤツの首に刺さった。その途端、ヤツは凄まじい絶叫を発した。耳が壊れそうなその声に思わず耳を塞いで下を向いた。ヤツの咆哮は止まらない。耳が壊れる。もう限界。私は意識を手放した。
何かの建物の中のようだ。何だかすごく見覚えがある気がする。そうだ、ここ、私の部屋だ。あの日の光の入り方から見て、多分朝だと思う。下の階からは妹、弟たちの賑やかな話し声が聞こえてくる。と、かちゃりと音を立てて扉が開き、いつものふんわりとしたツインテール姿のユキちゃんが入って来た。
「お姉ちゃんおはよう!はい、杖。みんなもう朝ごはん食べてるよ。早く行こう!」
いつものように下の階に降りる。いつものように群がってくる妹弟たち。いつものように洗濯物の山をベランダに干しているお母さん。お姉ちゃん遊ぼ、お外に行こう、と誘ってくるハルとコウ。私の隣で好き勝手にお喋りしながら私が朝食を終えるのを待っている他の妹弟たち。だけどみんなの姿がだんだん遠のいて行く。新月、お姉ちゃん、と私の名前を呼び、笑顔を浮かべたまま。私は不安になってきた。みんなの姿が遠くなっていく方向からは何だか嫌な気配がする。
「待って。待ってってば、何でそんなに遠くにいるの?こっちに来てよ。ねぇみんな、待って。そっちに行かないで。なんか嫌な気配がする。よく分かんないけど、そっちに行っちゃダメだ。ねぇ待って。お願い、行かないで。」
どれだけ叫んでも、よろけながら走っても、みんなの姿も声もどんどん遠くなっていく。不安は今や恐怖となり、声も体も震え始めた。このままでは間違いなくみんながどこかに行ってしまう。そのことが猛烈に怖かった。置いて行かないで、置いて行かないで、置いて行かないで……
「置いて行かないで!!」
自分の声で目が覚めた。頰には涙が伝っている。ここはどこだ。なんかもうさっきも言った気がする。って、また部屋の中か。この部屋は私の部屋ではないようだ。倉庫の中っぽい。周りには様々な大きさの木箱が積み上げられている。私はそのうちの一つに寄りかかるようにして眠っていたようだ。何で私はここにいるんだろう。確か家の中にいたはずなんだけど。座り込んで眠っていたせいで体が痛い。
「お目覚めかい。」
突然話しかけられて飛び上がった。ここにいるのは私だけだと思ってたから。
「誰⁈」
「お前さんをここまで運んでやった者だ。」
声はそう答えるけど、姿は見えない。
「どこにいるの。何で私をこんな所に連れて来たの。今すぐ家に帰して。今日は医者が来るから早く帰らなきゃいけないの。」
「おいおい、その医者が誰だか分かって言ってんのかい?あと、俺がいるのはそっちじゃねぇ。」
かつんかつんと、後ろから靴音が近づいてくる。
「よぉ、俺が今日お前の診察をする予定だった医者の島宮 疾風だ。」