あめ (1)
その春は優にとって、一番、大切な季節だった。
京都の叔父夫婦のマンションに引っ越してきて、一週間足らず。あわただしく日にちがすぎて、ゆっくり近所を出歩くゆとりもない。
買い物ついでに通りがかった鴨川沿いの桜は、狂おしいほどつつましやかな三分咲き。週末には、嵐山へ花見にいこうと、叔母が提案してくれている。
明日は入学式。こちらに越してきて、なぜなら試験に無事合格して、最初の登校だ。
優はすっきり片付けた新しい自分の部屋と、壁にかけた真新しい制服をみまわした。
よかった。合格して。入試――といっても、中高一貫校の高等部への外部入学試験なので、ほとんど編入試験だ――当日は、問題があまりに難しくて、もうダメだと思ったけど。
一瞬、頭が真っ白になって、白目をむいて倒れそうになったけど。
なにはともあれ、合格だ、合格らしい、大丈夫だよね。手違いじゃないよね。手違いでも入学したいけれども。
手違いだったとしても、発覚しませんように。
マリンブルーのブレザーにふれ、目をとじてもごもごと念じる。
頼むから、あの学校ですごせますように。
「優ちゃん」
半分あけていた戸口から、明るい声がして、叔母がにこやかな顔をのぞかせた。
「これにこのピアス、変じゃない? 合うかな?」
明日の式につきそってくれる叔母は、衣装合わせの真っ最中らしい。
ネックレスはこれで、でもこっちのがいいかな、と、両手いっぱいにアクセサリーやら洋服やらを持ってみせてくる。
なんなら優よりも優の入学を楽しみにしているのが、この叔母なのだった。
優に外部入試を勧めてくれたのも叔母だ。
広島の中高一貫校の中等部に通っていて、高校入試とは無縁でいられたはずの優に、わざわざ話をきかせてくれた。
叔母といっても、直接血のつながりはなくて、父の弟の奥さんに当たる人だ。
表面上は、なんの問題もないはずの優に、母校のことを楽しげに語ってくれた。
いまと同じ女子校だし、もし合格したら、うちに住んでくれればいいといって。
堅物の父と、娘の進路を育つ前から全部決めてしまっている母を、叔父と一緒にうまく丸めこみ、外部受験を実現させてくれた。
こうして合格して、本当に、あの場所から離れた、ここ、京都に住ませてくれている。
「うん、ばっちりです。綺麗ですよ、お――えーと……」
「安さん」
「――安さん」
気恥ずかしいのをのみこんで、優は少し背の低い叔母の名を呼ぶ。
低いといっても、優が高いので、叔母はそれほど小柄なほうでもない。
「ああ、楽しみ。あの門の中に、保護者として入れるなんて」
やや声をうわずらせ、頬を染めて話す叔母に、優も思わず笑みかける。
「わたしも。――ありがとうございます。明日も、よろしくお願いします」
「こちらこそ! 優ちゃんの高校デビュー、モテモテ間違いなしね!」
モテモテって、女子校なんだけれども。
なんだかちょっとずれている気がするなと思いつつ、叔母の無邪気な笑顔をみていると、自然にうれしくなってしまう優なのだった。
* * *
その日は晴れていた。晴れといっても、気象用語によればのことで、青空の真ん中には薄く、どてらの中綿をほどいたような雲がひろがっている。ときどき小雨がぱらつくことさえあった。
出掛けに叔母は傘も気にせず、いい天気ね、といった。優は一応、折り畳み傘を鞄に押しこんだ。ローファーは中学で履いていたもののまま。規定の靴と大差ないから、大丈夫だろうと叔母が請けあった。
大丈夫、と、心の中で自分にむけてとなえる。中等部からの持ちあがりの生徒がほとんどだ。皆が皆、靴を新調しているということはないだろう。
通学路の途中には哲学の道が横たわっている。そろそろみごろの桜を愛でる観光客が、この朝早くにちらほらみえる。
急な坂道をのぼると、ふるい市街や寺社、観光地特有のにぎわいを置き去りにして、閑静な住宅地の奥に、ずっしり佇む校舎があらわれる。
門のあたりですぐ、保護者受付にむかう叔母とわかれた。
新一年生は持参の上履きに履きかえ、下足を持ったまま講堂へ移る。講堂の入り口そばに掲示板があり、新しいクラス名簿が貼りだされている。
そこには当然、同じ年ごろ、同じくらいの背丈の女子たちの人だかりができていた。
自分の名前をみつけるだけなら、それほど時間はかからないはずだ。
しかし断然、中等部からの知り合いが多いからだろう、誰々が何組、この子と一緒であの子は別、と、何人もでさざめきながら、なかなか動かない。
女子たちの平均より頭ひとつ分ほど高い優は、少し首をのばせば貼り紙をみれた。けれど、下の方は人ごみでよくみえない。その上、字が細くてわりに小さいので、最近、段々悪くなってきている優の視力では、いまいち判然としない。
かといって、人ごみを無理にかきわけるのも気がひけた。こちらの背が高いので、妙な威圧感を与えてしまったり、そうでなくともおどろかせてしまいそうだ。
きゃっきゃとさざめく生徒たちがはけるのを、掲示板を遠目にみるふりをしながら待つ。すると、不意に背中の真ん中をとんと叩かれた。
「おはよう」
通る、艶のある声。
びっくりして優はふりむいた。
きれいな関東のイントネーション。肩の下まで垂らした黒髪。優の顔のなかばほどの上背。
左隣に美人が立っている。
「あっ、え――」
お姫様。
そう呼ぶのはまずいか。さすがに目立ちすぎる。
でも何か、いわなきゃ。
「――お姫さん」
その呼びかたも、大分、アウトだったということを、優はかなりあとになってからしるのだった。
少女は――雪と紅葉の日に、お寺で出会ったその子は、真顔でくいと首をかしげた。
その角度のまま、微笑む。
「また会えた。雪平よ。あなたは?」
「ゆきひら……名前?」
「そう。あなたは?」
「優」
「すぐる。何組だった?」
てきぱきと話を進める雪の日の少女を、しばし、優は呆然とみつめた。
同じ制服を着ている。きょうは髪をすべておろして、下足袋を手にさげている。
同じ学校だったのか。
彼女が怪訝そうにこちらをみるので、ようやくこたえる。
「あ、まだみれてなくて」
「そうなの。式始まっちゃうわよ、座る場所くらいわからないと。早く」
制服の袖ごしに、少女は優の手首をひいた。群がる女子たちをかきわけ、掲示板の目の前に陣どる。
「あの……ゆきひら、は?」
「た組よ。わけあり枠だから。すぐるも、編入生でしょ?」
「あ、あった」
「どこ」
「か組」
優、という文字を指して、肩のそばをかえりみる。
少女はちょっと眉をひそめていた。
「成績良いのね」
「――」
コメントできない。
優の袖をひき、クラス表から離れると、彼女はまだ少し不服そうな顔をしていった。
「残念。一緒のクラスだといいなと思ったの」
クラスが違うということは、講堂に入れば、席は離れてしまう。その後、それぞれ教室に入れば、終わる時間すら差が出るだろう。
うん、と、優はうなずいた。
ストレートの綺麗な黒髪、すんなりした手足、まっすぐに立つ女の子。
紅葉に降る雪の精。
「またすぐ、会えるよ」
つぶやくように口から漏れた。言葉を、きちんと拾って、彼女は眉間のくもりをはらってにっこり笑った。
「そうね。これからよろしく。また会いにいくわ」
さしだされた右手を握る。
白い細い手が、すべすべしていて、きょうは温かかった。
自分の座席へむかう少女へ手をふりながら、優はさっき、通りすがりにみた、た組のリストの名を思いだす。
「雪平」
……ほんとに空から降ってきた系じゃないか。
* * *
「優ちゃん。先輩が呼んでるで」
クラスの子に声をかけられ、優は思わず自分を指さしてみせた。
相手が無言でうなずく。同じクラスになったばかりだが、もう名前をおぼえてくれている。生徒の大半を占める、中等部からの持ちあがりの子の一人である。
入学式の翌日の昼休みだ。
高等部からの編入組の優に、もちろん、心当たりの先輩などいない。
頭の中を疑問符でいっぱいにしながら、優は席を立ち、教室後方の戸口から廊下へ出た。
あたりをみわたす。
廊下を行きすぎる何人かが、壁にもたれて立つ生徒に挨拶している。それにこたえて愛想良さげに手をふるその人は、意外にも顔があまり笑っていない。
はて。
優はきょろきょろと左右をみまわした。中高一貫校の弊害といっていいのか、持ちあがりの新高一生にあまり初々しさがみあたらないので、同学年と上級生の区別がつかない。
優を呼びだした先輩とは、どこの誰だろう。
「そういうときは上履きの色を見るのだよ。ただし屋内に限る」
「ひっ」
不意に囁かれ、耳をおさえて飛びすさる。
さっきまで優がいたところのぴたりと後ろに、いましがたあっちで壁にもたれていたはずの生徒が立っていた。
肩の上までの、量の少ない黒髪。切りそろえられた前髪の下の銀縁眼鏡。
遠目にみたときは気づかなかったが、優とほぼ同じくらいの目線、背の高さだ。
いわれた通り、足もとをみると、上履きのアクセントカラーは鉄色。
優の学年は茜色である。鉄色は、二年生だ……ちなみに鉄色とは渋い緑色で、学則による正式名称である。
「ちなみに中等部生は制服がちょい違い、学年章をつけている。これ豆な」
「…………」
何と返していいかわからなかった。
まだ動悸がおさまっていなかった。
いままで、周りの女子生徒といえば、同い年も年上も、大体、優より背が低かったのだ。
「驚いたかな。済まない」
その二年生は、優の正面に立つと、少し姿勢を崩した。猫背ぎみになり、目線がさがる。冷たく光る銀縁のレンズごしに、にこりともしない目が優をみた。
「晴だ。生徒会をやっている。よろしく」
右手をさしだされた。
どうしよう。
まよう場合でもない。相手は先輩である。優も一応、最低限、年功序列を重んじる文化に浸かっている。
おそるおそる、はい、といって右手をさしだしかえす。
なにもわからないまま握手をすませると、上級生はふたたび壁際に寄った。
優もならって壁際へ寄り、通路をあける。
「優君、で、合ってるかな」
《君》。その呼びかたが、この先輩はいやに似合った。
「はい」
「生徒会に入ってほしいんだ。単刀直入に言うと」
「はっ」
意味もない息が出てしまった。
その倒置法って、ありですか。
仲のいい先輩になら、そのくらいいえたかもしれない。
ところが困ったことに、この上級生とは初対面、初会話なのだ。というか、そもそも、初対面・初会話でこの話題、この前フリのなさ。
単刀直入にもほどがある。
優が呆然としているのを、何と思ったのか何とも思っていないのか、上級生は壁に預けていた肩を離して、やや姿勢をただした。
「生徒会室は向かいの棟の二階だ。きょうの放課後、見学にくるように。興味があってもなくても。これ、先輩命令な」
「あ――」
「じゃ、あとで」
あのう、と、いいかけたころには、上級生は鉄色の爪先を向こうへむけて、廊下をさっさと遠ざかろうとしている。
「ちょ、せんぱ、まっ、すまっ」
とっさに切れ切れすぎる声をあげると、最後の言葉(?)で晴は足をとめ、優をかえりみた。
「――《すま》ない?」
「すみません。あの、どうして、なんでわたしに?」
なぜ名指しされたのだろう。そのくらいは聞いておきたかった。
鉄色の爪先をふたたびこちらへむけて、二年生は淡々とこたえた。
「生徒会に欠員が出た。メンバーは大半が中等部からの持ちあがりだ。優君、きみは当然、うちの中等部に在籍していなかった」
じゃ、とでもいうように、片手をかるく挙げて、二年生は今度こそ去ってしまった。
独り、教室前の廊下にとりのこされた優は、唖然として、ただ、くだされた宣告を何度も、頭の中で繰りかえす。
《生徒会に入ってほしい》
《生徒会室は向かいの棟の二階》《放課後見学にくるように。興味があってもなくても》
《先輩命令》――。
――なんだそれ。
先輩命令という発想は、若干、いただけないが。上からすぎると思わないでもないが。
いや、そこまではわかる。指示は完璧だ。
それにしても。
あとの話がわかりにくすぎる!
あれだけ完璧な指示をしておいて、優の質問に対しては、説明になっているんだかいないんだか。
…………外部入学生だから、ってこと?
総合して推しはかると、いいたかったのは、そういうことだろうか。
全然わからないが。
それだけが、優を指名する理由になるのだろうか?
進むにつれ方言が増えてきますが、なまぬるい目で読み流してください……。




