表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/18

あめ (1)



 その春は(すぐる)にとって、一番、大切な季節だった。


 京都の叔父夫婦のマンションに引っ越してきて、一週間足らず。あわただしく日にちがすぎて、ゆっくり近所を出歩くゆとりもない。

 買い物ついでに通りがかった鴨川沿いの桜は、狂おしいほどつつましやかな三分咲き。週末には、嵐山へ花見にいこうと、叔母が提案してくれている。


 明日は入学式。こちらに越してきて、なぜなら試験に無事合格して、最初の登校だ。

 優はすっきり片付けた新しい自分の部屋と、壁にかけた真新しい制服をみまわした。


 よかった。合格して。入試――といっても、中高一貫校の高等部への外部入学試験なので、ほとんど編入試験だ――当日は、問題があまりに難しくて、もうダメだと思ったけど。

 一瞬、頭が真っ白になって、白目をむいて倒れそうになったけど。


 なにはともあれ、合格だ、合格らしい、大丈夫だよね。手違いじゃないよね。手違いでも入学したいけれども。


 手違いだったとしても、発覚しませんように。


 マリンブルーのブレザーにふれ、目をとじてもごもごと念じる。


 頼むから、あの学校ですごせますように。


「優ちゃん」


 半分あけていた戸口から、明るい声がして、叔母がにこやかな顔をのぞかせた。


「これにこのピアス、変じゃない? 合うかな?」


 明日の式につきそってくれる叔母は、衣装合わせの真っ最中らしい。

 ネックレスはこれで、でもこっちのがいいかな、と、両手いっぱいにアクセサリーやら洋服やらを持ってみせてくる。


 なんなら優よりも優の入学を楽しみにしているのが、この叔母なのだった。


 優に外部入試を勧めてくれたのも叔母だ。

 広島の中高一貫校の中等部に通っていて、高校入試とは無縁でいられたはずの優に、わざわざ話をきかせてくれた。

 叔母といっても、直接血のつながりはなくて、父の弟の奥さんに当たる人だ。


 表面上は、なんの問題もないはずの優に、母校のことを楽しげに語ってくれた。

 いまと同じ女子校だし、もし合格したら、うちに住んでくれればいいといって。


 堅物の父と、娘の進路を育つ前から全部決めてしまっている母を、叔父と一緒にうまく丸めこみ、外部受験を実現させてくれた。


 こうして合格して、本当に、あの場所から離れた、ここ、京都に住ませてくれている。


「うん、ばっちりです。綺麗ですよ、お――えーと……」

(やすら)さん」

「――安さん」


 気恥ずかしいのをのみこんで、優は少し背の低い叔母の名を呼ぶ。

 低いといっても、優が高いので、叔母はそれほど小柄なほうでもない。


「ああ、楽しみ。あの門の中に、保護者として入れるなんて」


 やや声をうわずらせ、頬を染めて話す叔母に、優も思わず笑みかける。


「わたしも。――ありがとうございます。明日も、よろしくお願いします」

「こちらこそ! 優ちゃんの高校デビュー、モテモテ間違いなしね!」


 モテモテって、女子校なんだけれども。


 なんだかちょっとずれている気がするなと思いつつ、叔母の無邪気な笑顔をみていると、自然にうれしくなってしまう優なのだった。



       * * *



 その日は晴れていた。晴れといっても、気象用語によればのことで、青空の真ん中には薄く、どてらの中綿をほどいたような雲がひろがっている。ときどき小雨がぱらつくことさえあった。


 出掛けに叔母は傘も気にせず、いい天気ね、といった。優は一応、折り畳み傘を鞄に押しこんだ。ローファーは中学で履いていたもののまま。規定の靴と大差ないから、大丈夫だろうと叔母が請けあった。


 大丈夫、と、心の中で自分にむけてとなえる。中等部からの持ちあがりの生徒がほとんどだ。皆が皆、靴を新調しているということはないだろう。


 通学路の途中には哲学の道が横たわっている。そろそろみごろの桜を愛でる観光客が、この朝早くにちらほらみえる。

 急な坂道をのぼると、ふるい市街や寺社、観光地特有のにぎわいを置き去りにして、閑静な住宅地の奥に、ずっしり佇む校舎があらわれる。


 門のあたりですぐ、保護者受付にむかう叔母とわかれた。

 新一年生は持参の上履きに履きかえ、下足を持ったまま講堂へ移る。講堂の入り口そばに掲示板があり、新しいクラス名簿が貼りだされている。


 そこには当然、同じ年ごろ、同じくらいの背丈の女子たちの人だかりができていた。


 自分の名前をみつけるだけなら、それほど時間はかからないはずだ。

 しかし断然、中等部からの知り合いが多いからだろう、誰々が何組、この子と一緒であの子は別、と、何人もでさざめきながら、なかなか動かない。


 女子たちの平均より頭ひとつ分ほど高い優は、少し首をのばせば貼り紙をみれた。けれど、下の方は人ごみでよくみえない。その上、字が細くてわりに小さいので、最近、段々悪くなってきている優の視力では、いまいち判然としない。


 かといって、人ごみを無理にかきわけるのも気がひけた。こちらの背が高いので、妙な威圧感を与えてしまったり、そうでなくともおどろかせてしまいそうだ。


 きゃっきゃとさざめく生徒たちがはけるのを、掲示板を遠目にみるふりをしながら待つ。すると、不意に背中の真ん中をとんと叩かれた。


「おはよう」


 通る、艶のある声。


 びっくりして優はふりむいた。


 きれいな関東のイントネーション。肩の下まで垂らした黒髪。優の顔のなかばほどの上背。

 左隣に美人が立っている。


「あっ、え――」


 お姫様。


 そう呼ぶのはまずいか。さすがに目立ちすぎる。

 でも何か、いわなきゃ。


「――お(ひい)さん」


 その呼びかたも、大分、アウトだったということを、優はかなりあとになってからしるのだった。


 少女は――雪と紅葉の日に、お寺で出会ったその子は、真顔でくいと首をかしげた。

 その角度のまま、微笑む。


「また会えた。雪平(ゆきひら)よ。あなたは?」

「ゆきひら……名前?」

「そう。あなたは?」

「優」

「すぐる。何組だった?」


 てきぱきと話を進める雪の日の少女を、しばし、優は呆然とみつめた。


 同じ制服を着ている。きょうは髪をすべておろして、下足袋を手にさげている。


 同じ学校だったのか。


 彼女が怪訝そうにこちらをみるので、ようやくこたえる。


「あ、まだみれてなくて」

「そうなの。式始まっちゃうわよ、座る場所くらいわからないと。早く」


 制服の袖ごしに、少女は優の手首をひいた。群がる女子たちをかきわけ、掲示板の目の前に陣どる。


「あの……ゆきひら、は?」

「た組よ。わけあり枠だから。すぐるも、編入生でしょ?」

「あ、あった」

「どこ」

「か組」


 優、という文字を指して、肩のそばをかえりみる。

 少女はちょっと眉をひそめていた。


「成績良いのね」

「――」


 コメントできない。


 優の袖をひき、クラス表から離れると、彼女はまだ少し不服そうな顔をしていった。


「残念。一緒のクラスだといいなと思ったの」


 クラスが違うということは、講堂に入れば、席は離れてしまう。その後、それぞれ教室に入れば、終わる時間すら差が出るだろう。


 うん、と、優はうなずいた。


 ストレートの綺麗な黒髪、すんなりした手足、まっすぐに立つ女の子。

 紅葉に降る雪の精。


「またすぐ、会えるよ」


 つぶやくように口から漏れた。言葉を、きちんと拾って、彼女は眉間のくもりをはらってにっこり笑った。


「そうね。これからよろしく。また会いにいくわ」


 さしだされた右手を握る。

 白い細い手が、すべすべしていて、きょうは温かかった。


 自分の座席へむかう少女へ手をふりながら、優はさっき、通りすがりにみた、た組のリストの名を思いだす。


「雪平」


 ……ほんとに空から降ってきた系じゃないか。



       * * *



「優ちゃん。先輩が呼んでるで」


 クラスの子に声をかけられ、優は思わず自分を指さしてみせた。


 相手が無言でうなずく。同じクラスになったばかりだが、もう名前をおぼえてくれている。生徒の大半を占める、中等部からの持ちあがりの子の一人である。


 入学式の翌日の昼休みだ。

 高等部からの編入組の優に、もちろん、心当たりの先輩などいない。


 頭の中を疑問符でいっぱいにしながら、優は席を立ち、教室後方の戸口から廊下へ出た。


 あたりをみわたす。

 廊下を行きすぎる何人かが、壁にもたれて立つ生徒に挨拶している。それにこたえて愛想良さげに手をふるその人は、意外にも顔があまり笑っていない。


 はて。


 優はきょろきょろと左右をみまわした。中高一貫校の弊害といっていいのか、持ちあがりの新高一生にあまり初々しさがみあたらないので、同学年と上級生の区別がつかない。

 優を呼びだした先輩とは、どこの誰だろう。


「そういうときは上履きの色を見るのだよ。ただし屋内に限る」

「ひっ」


 不意に囁かれ、耳をおさえて飛びすさる。

 さっきまで優がいたところのぴたりと後ろに、いましがたあっちで壁にもたれていたはずの生徒が立っていた。


 肩の上までの、量の少ない黒髪。切りそろえられた前髪の下の銀縁眼鏡。

 遠目にみたときは気づかなかったが、優とほぼ同じくらいの目線、背の高さだ。


 いわれた通り、足もとをみると、上履きのアクセントカラーは鉄色。

 優の学年は茜色である。鉄色は、二年生だ……ちなみに鉄色とは渋い緑色で、学則による正式名称である。


「ちなみに中等部生は制服がちょい違い、学年章をつけている。これ豆な」

「…………」


 何と返していいかわからなかった。


 まだ動悸がおさまっていなかった。


 いままで、周りの女子生徒といえば、同い年も年上も、大体、優より背が低かったのだ。


「驚いたかな。済まない」


 その二年生は、優の正面に立つと、少し姿勢を崩した。猫背ぎみになり、目線がさがる。冷たく光る銀縁のレンズごしに、にこりともしない目が優をみた。


(はるる)だ。生徒会をやっている。よろしく」


 右手をさしだされた。


 どうしよう。


 まよう場合でもない。相手は先輩である。優も一応、最低限、年功序列を重んじる文化に浸かっている。


 おそるおそる、はい、といって右手をさしだしかえす。


 なにもわからないまま握手をすませると、上級生はふたたび壁際に寄った。

 優もならって壁際へ寄り、通路をあける。


「優君、で、合ってるかな」


 《(くん)》。その呼びかたが、この先輩はいやに似合った。


「はい」

「生徒会に入ってほしいんだ。単刀直入に言うと」

「はっ」


 意味もない息が出てしまった。


 その倒置法って、ありですか。

 仲のいい先輩になら、そのくらいいえたかもしれない。


 ところが困ったことに、この上級生とは初対面、初会話なのだ。というか、そもそも、初対面・初会話でこの話題、この前フリのなさ。


 単刀直入にもほどがある。


 優が呆然としているのを、何と思ったのか何とも思っていないのか、上級生は壁に預けていた肩を離して、やや姿勢をただした。


「生徒会室は向かいの棟の二階だ。きょうの放課後、見学にくるように。興味があってもなくても。これ、先輩命令な」

「あ――」

「じゃ、あとで」


 あのう、と、いいかけたころには、上級生は鉄色の爪先を向こうへむけて、廊下をさっさと遠ざかろうとしている。


「ちょ、せんぱ、まっ、すまっ」


 とっさに切れ切れすぎる声をあげると、最後の言葉(?)で晴は足をとめ、優をかえりみた。


「――《すま》ない?」

「すみません。あの、どうして、なんでわたしに?」


 なぜ名指しされたのだろう。そのくらいは聞いておきたかった。


 鉄色の爪先をふたたびこちらへむけて、二年生は淡々とこたえた。


「生徒会に欠員が出た。メンバーは大半が中等部からの持ちあがりだ。優君、きみは当然、うちの中等部に在籍していなかった」


 じゃ、とでもいうように、片手をかるく挙げて、二年生は今度こそ去ってしまった。


 独り、教室前の廊下にとりのこされた優は、唖然として、ただ、くだされた宣告を何度も、頭の中で繰りかえす。


 《生徒会に入ってほしい》


 《生徒会室は向かいの棟の二階》《放課後見学にくるように。興味があってもなくても》

 《先輩命令》――。


 ――なんだそれ。


 先輩命令という発想は、若干、いただけないが。上からすぎると思わないでもないが。


 いや、そこまではわかる。指示は完璧だ。

 それにしても。


 あとの話がわかりにくすぎる!


 あれだけ完璧な指示をしておいて、優の質問に対しては、説明になっているんだかいないんだか。


 …………外部入学生だから、ってこと?


 総合して推しはかると、いいたかったのは、そういうことだろうか。


 全然わからないが。


 それだけが、優を指名する理由になるのだろうか?







進むにつれ方言が増えてきますが、なまぬるい目で読み流してください……。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ