(序)
古都の紅葉に純白の薄化粧をして、ときは晩秋。
市中はしっとり盆の底に冷え、じんと、どこもかしこも静まりかえっている。
優は安楽寺のお堂の、縁の手前で庭をながめていた。
紅葉の終わりのシーズンで、それだからここに入れているのだけれど、午後からの急な冷えこみにみぞれが雪へ変わり、客の姿はかなり少ない。
小さいお寺だが、それにしても。
優より後に入ってお堂で説明をうけていた男性が、一人足早に帰ってしまうと、廊下の方にまだ二三人いたはずだが、うそのように閑散としてしまった。
お堂はちょっと山手にある。市中の方をみはるかすと、木々の向こうは暗い雪雲ばかりにみえた。
なんでもないような気がしていたけど、爪先がかじかんできている。晴れていれば、冬とはいえ、ようやく気温がさがりはじめる時間帯だろうに。
「ひゃっ」
高い、小さな叫び声がして、すぐにべしゃっと低い音がつづいた。
そちらをみると、雪にかくれた庭石の上に、和服姿の少女が尻餅をついていた。
優は縁の上から、庭木のそばの少女をみおろす。
手を貸すにも、声をかけるにも遠い。飛びおりて駆けつけようにも、いまは靴下だけなのだった。
案ずるまでもなく、少女は存外、平気に起きあがって、ぱんぱんと濡れ雪を腰と裾からはたき落とした。
こっちをみる。
目が合った。
「あら。――お姉さん?」
びくりとして、優は彼女をみつめる。
「さっき、あっちに――あぁ」
首でわずかに廊下の方を示して、一瞬、舌打ちをしそうなほど少女は顔をゆがめた。
「あたしが遅いのね。一人?」
ひとことで、京都どころか、このあたりの人ではないとわかる話し方だった。
すっきりした関東のイントネーション。優の生まれの、ややもするとがさつな口ぶりでもない。
長い黒髪をハーフアップにして、半分、肩に垂らしている。この冷えるのに綺麗な草履を履いて、着物の上に上着をかさね、姿勢よく立っている。
純和風のいでたちといってもいいのに、髪形だけのせいなのかどうか、やけにハイカラっぽくみえた。
いまのところ、連れがいる様子はない。
優はまよって、ただうなずいた。
年ごろは、多分、同じくらいだろう。大人っぽくみえなくもないけれど、さきにころんだ姿をみてしまったので。
優の無言の返事をうけると、途端に、少女はぱっと華麗に微笑んだ。
「もう観終わったの? 待ってて、あたしもすぐ観てくるから。まだ閉門には早いわ」
ききなれない言葉を投げかけられた。
理解が追いつかず、優が戸惑っているすきに、少女はさっさと庭を引きかえし、草履を脱いでお堂へあがっていく。
しょうがないので、凍える足を踏み踏みしながら、優は少女が出てくるのを待つ。
お堂の正面まで戻ると、庭の門の手前に参拝客のご婦人方が帰りかけているのがみえた。何度か足をとめ、紅葉をみあげるも、あまりの寒さに写真撮影すらそこそこになっているらしい。
お寺の案内の声が止んだ。少女が出てくるかと、お堂の中をふりむくと、和装の少女はお守りや境内の写真のカレンダーなどをひととおり冷やかし、出てくると奥の廊下へむかった。
ひとまわりしてくるつもりらしい。優はつい、うらめしくその姿を目で追う。
なんで待っちゃったんだろう。
待ってて、とはいわれたけれど。
そもそも、まったくしらない子だ。
和服の彼女はどうかしらないが、優はセーターにジーンズ、冬用でもない靴下、コートという格好なので、この十数分の縁での待機はこたえた。
屋根はあるが、床もあるが、ほぼ外である。せめて靴を履いていれば。
音をたてないようにしつつ、ひたすら足踏みしていると、軽い足音がして少女が戻ってきた。
「お待たせ。行きましょ」
無邪気な声。優は黙って首を縦にふり、階段をおりて念願の靴を履く。
草履の彼女は鼻緒をつっかけると、ちゃんと履くためか二三歩、擦った。
優のすぐ後ろにきて、笑う。
「良かった。一緒の人がいて」
……。
優はしばらく考えたが、相変わらず、何をいわれたのかよくわからなかった。
なんだろう、この子。
見た目は、しっかりしている子のようなのだけども。
宇宙人?
話している言葉は、日本語のはずなのに、なんで意味がわからないんだろう。
雪と一緒に空から降ってきた系かしら……。
庭の石畳の上を、隣にきたり、少し遅れたりしながら、そばについてくる。
先刻ころんだ例もあるので、優はなるべくゆっくり、雪の少ない歩きやすそうなところを譲って進んだ。
「観光で来たの?」
たずねてくるので、うなずく。
「うん」
「そう。あたしも」
いろんな疑問が湧いたが、何もきかなかった。
一人で?
その格好で、それに、その歳で?
疑問がありすぎた。
優は十五だ。中学三年生である。少女だって、精々、十五六にしかみえない。
遠い東の言葉で、まるで観光客みたいに和装をして、そのわりにはとってつけた風ではない。そこらのレンタル着物の趣ではない。品物がいい。すごく高そうだ。
滅茶苦茶だった。
大金を持って家出してきたお嬢さん、だろうか。
お金の出どころが怪しそうな様子は、彼女の清々しい風情からは感じられない。
何か一大決心をして、貯金なんかを全部おろして、新幹線に飛びのって。
そうだわ、京都行かなくちゃ!
行くからには着物でなくちゃ?
大分おかしいな、と思い、優は想像するのをやめた。
待て待て、もしかしたらお茶やお花の稽古のあとに新幹線に……それなら和服なのも……。
門を出て石の階段にさしかかった。優がぼんやり考えている横で、また、ずるっと音がひびいた。
「あ」
後ろに斜めに傾く体の、こちら側の腕を、優はとっさに強くつかんだ。
柔らかい腕を傷つけないよう、手のひらに力を入れる。少女は今度は、ころぶのを免れた。
ほっと息をつく。白いもやが雪と逆にのぼって消えた。
「ありがとう」
はにかむように微笑んで、少女はこっちをみあげる。
優は腕から手を離し、一段さきに降りて、もう一度さしのべた。
少女が手をとり、そうっと、草履の足を薄い雪の上におろす。
一段、一段。
石の上に落葉が散り敷かれ、その上、さらに雪がひろがっている。
優が自分の足もとと、少女の草履ばかりみていると、不意にかろやかに少女が笑った。
高く、細く。
それでいてふんわりと、おかしそうに。
優と同じ段に降りると、手を載せたまま優をみあげた。
「まるで騎士様ね」
舞い落ちる雪と反対に、白く立ちのぼる息が消える。
黒髪の肩に雪がじわりと溶けて、透明な雫が光っている。
――同い年のたいていの子より背が高いから、男役扱いされるのは慣れている。手を貸すのも、身を気遣うのにも、特別、違和感はない。
それでも、するっと、その言葉をかけられたのは、初めてのことだった。
騎士様。
そんなこと、滅多に口にのぼせる言葉じゃない。
それが非常に自然だった。
彼女の口からは。
「……そう?」
優はやっと、それだけ、口をひらく。
「ええ。下までお願い、悪いけど、歩きにくいったらなくて」
困ったものだわと、独りごとのようにつぶやく少女のそばから、また一段、さがって、優は細い手を持つ手を肩先へ掲げた。
「どうぞ、お姫様」
少女は目をみひらくと、にっこり笑って、手にぎゅっと力をこめた。
澄んだ雪花が黄や紅の葉に宿って、ときは初冬。
それが、優と少女が出会った、最初のことだった。




