発火トリック
「だから、その日は仕事で出張に行ってたって言ってるでしょ?」
A野はドアを閉めながら、面倒くさそうに吐き捨てた。
シュウは慌ててドアの間に足を差し込み、家の奥へと消えようとする男にすがった。
「待ってください。あなたの命に関わることなんです。どうか話だけでも……」
「命?」
何とも仰々しい言葉に、A野が思わず吹き出した。
「そんな大げさな」
「冗談なんかじゃありません。あなたはBヶ原さん殺害の容疑者なんですから」
彼の後ろをつけてきたシュウの目は、しかしどこまでも真剣そのものだった。
午前中、ぼちぼち人気もある、密集した住宅街の一角。騒ぎを起こせば、たちまち何事かと野次馬が集まって来るだろう。シュウが一向にドアの隙間から足を退けそうにないので、A野は仕方なく彼に向き合った。
「殺害? だって事故なんだろ?」
「でも警察は、事件と事故両方の疑いで捜査してるみたいですよ。Bヶ原さんを恨んでいる誰かが、放火した可能性もあるって」
声を上ずらせるシュウに、A野は頭をポリポリと掻いた。
「フゥン……。君が言いたいのは僕がその、Bヶ原を殺した犯人に狙われるかもしれないってことかい?」
「いえ、そういうわけじゃ……」
「じゃあ何か? 僕が犯人だとでも?」
「それは……」
暗がりの隙間から真顔でじっと見つめられ、シュウは思わず押し黙ってしまった。はっきりとした証拠がなければ、犯人として立証することは難しい。
「確かに、僕はBヶ原を恨んではいたさ」
玄関先で、A野が気怠そうに語り出した。
「だけど僕だけじゃない。彼を憎んでいた人はたくさんいたよ。正直Bヶ原は、ロクな人間じゃなかったからね。創業一族の一人息子だか何だか知らないけどさ、若くして社長ってことを鼻にかけちゃって。金遣いも荒いし、部下にも友達にもわがまま放題で……こう言っちゃなんだけど、死んでスッキリしたって人間も多いんじゃないかな」
「…………」
「だけどさっきから言ってるように、彼の家に火が上がった時、僕はBヶ原自身の命令で、出張で秋田にいたんだぜ。六〇〇キロ離れた場所にいる人間が、どうやって東京にいる彼の家に火をつける?」
「それは……その」
「悪いけど、他を当たってくれ。僕はBヶ原とは幼馴染だし、一緒に地元の会社に勤めてるから、真っ先に疑われるのも分かる。だけど……」
A野が表情を崩さず、ドアノブを強く引いた。シュウは、仕方なく突っ込んでいた右足を引っ込めた。
「僕にはれっきとしたアリバイがある。Bヶ原社長に殺される謂れはあっても僕にはないよ、お嬢さん」
A野はそれだけ言うと扉の向こうへと消えていった。寒空の下に一人取り残されたシュウは、黙って風に翻されるスカートの端をギュッと握りしめた。路地を吹きすさぶ風が冷たかった。
「あなたが容疑者である時点で、危ないんです……」
……ということをどうやったら上手く伝えられるか分からず、シュウはもどかしい思いで固く閉められた扉を見つめていた。
□□□
「そりゃいくらでも方法はあんだろ。携帯電話だって自然発火する時代だぞ、今は」
ヒカルがそう言って口元に付いたクリームを舌で舐め取った。
2人の住む近所にあるカフェ・『よもぎ』。
壁際の席で、シュウはストロベリーアイス”よもぎ”パフェを美味しそうに食べる姉をじっと見つめていた。
平日の昼過ぎとあって、カフェの中には客が少なく、あまり聞かれたくない話をするにはもってこいだ。この老舗のカフェ・『よもぎ』で、シュウは先ほどのA野とのやり取りをヒカルに話しているところだった。
『よもぎ』は、一見するとボロボロの、古びた扉と看板を掲げてはいるが、中は小綺麗でオシャレなカフェだった。店内には有名なクラシック音楽が流れ、四方の壁にはオーナーの趣味か、向日葵の油絵やナントカという有名人の肖像画などが所狭しと並んでいる。何でも今のオーナーによるとお祖父さんから譲り受けた店で、ずっとそのまま当時の古い看板を使っているらしい。『よもぎ』に来るたびに、シュウは「タイムマシンに乗ってきたみたいだ」と思っていた。
「洗濯機だって炊飯器だって、自動車だって何から何まで電気制御で遠隔操作できるんだ。アリバイなんてあってないようなもんさ」
ヒカルの言葉で、シュウは我に返った。ヒカルがパフェの下の層の、サクサクとしたフレークを銀のスプーンで突きながら、ぶっきらぼうにそう呟いた。
今日のヒカルはブラウンのダッフルコートにチェックのマフラー、それに先端にふわふわのポンポンがついた白のニット帽と、防寒対策完備の出で立ちだった。それでも、子供のようにほっぺたを林檎色に染め、時折体を寒そうに小刻みに揺らしているのは、元来極度の寒がりだからだろうか。シュウは目を細めた。
「じゃあ犯人は、Bヶ原社長が帰宅した時を狙って、遠隔操作で彼の家を燃やした?」
「かもな」
「でも、だったら発火装置が現場から見つかるんじゃない?」
「発火装置自体を可燃性にしとけばいい」
シュウの問いかけに、ヒカルが溶けかけのバニラアイスを口に運びながら言った。
「タバコとか、その家に元からあってもおかしくないものを使ったんだろ。仕掛けが作動して装置ごと完全に燃えきったら、証拠は残らない」
「そっか。その家にあっても、おかしくないもの……」
シュウは急いでスマホに保存してあった、事件のデータを確認した。先週不審火で焼け死んだBヶ原社長は、喫煙者ではなかったはずだ。だとしたら……。
「要するに……だ」
「……!」
口元に手を当て考え込むシュウに、ヒカルがテーブルの向こうからグッと身を乗り出してきて、嗤った。
□□□
ヒカルが前回の『事件』で逮捕されてから、出所するまでに約三年が経った。
その間にシュウは高校を卒業し、大学へは行かず、姉の務める探偵事務所に姉の”見習い”と言う形で転がり込んだ。ヒカルは、本来ならば逮捕された時点でそのまま路頭に迷ってもおかしくなかった。だが今の探偵事務所の所長は、ヒカルの心臓移植の件を知っていて、彼女をシュウ共々快く雇ってくれた。ただし、殺人事件や大掛かりな事件は担当させない、という条件付きでだ。もともと数名で回している小さな探偵事務所なので、そんな大きな事件が舞い込むこともないはずだった。そして今回任されたBヶ原社長の『事件』も、最初はただの火の不始末だった、はずなのだが……。
今回の『事件』が起きたのは、今から一週間くらい前だ。
Bヶ原建設の社長の、Bヶ原C彦の自宅から突然不審火が上がり、家主であるBヶ原氏が焼死体になって発見された。当初は火の不始末による事故とも考えられていた。だが下請け会社との金銭トラブルや、所謂”コネ人事”をよく思わない会社幹部との軋轢が次第に明らかになり、血に飢えていた姉は嬉々としてBヶ原社長の周辺をもう一度洗い直し始めた。これに慌てたのは、弟の方である。
□□□
「……要するに、証拠はすでに隠蔽されている可能性が高い。だったら、犯人に自供させるのが一番だ」
「うん……」
「これからじっくり、一人一人ヤっていくさ」
ヒカルが嬉しそうに嗤った。『一体何を』とは、シュウは聞くに聞けなかった。ヒカルは再び腰を下ろし、パフェに手を伸ばし始めた。シュウはしばらく黙って姉の食べっぷりを見つめた。
どうやら姉は、会社の幹部でありBヶ原社長の幼馴染であるA野部長を疑っているようだった。
午前中の聞き込み通り、A野はBヶ原を恨んでいる。動機は十分だが、A野にはアリバイがある。
事件当日、彼は東京の本社を離れ秋田にいた。
遠隔操作の発火装置を使ったのだとしても、証拠はすでに焼却されている可能性が高い。だが……一体何を発火装置にしたのだろうか?
可燃性で、どの家にあってもおかしくないもの。
考えてみれば、いくらでもありそうだ。机に椅子、衣服、書類……。
「……ンだよ? 何笑ってんだ?」
「いや……」
シュウの視線に気づき、不意にヒカルが怪訝そうに首をかしげた。彼は緩んでいた表情を引き締め、弾かれるように立ち上がった。
「僕、もう行くよ。もう一度A野さんに話聞いてくる」
「おう……?」
ヒカルはまだ何か聞きたそうだったが、シュウはそれっきり会話を打ち切った。席を離れるシュウに、ヒカルは片手でスプーンを動かしたまま、もう片方の手でひらひらと手を振った。
店を出ていく時、シュウが扉の前でチラリと後ろを振り返ると、ちょうどヒカルが2つ目のパフェを頼んでいるところだった。シュウはゆっくりと扉を閉めた。扉についていた古びた鈴が、からんころん、と小気味良い音を立てた。白い息を吐き出し、シュウは晴れ渡った空を見上げた。
ヒカルは子供の時から、『よもぎ』のストロベリーアイス”よもぎ”パフェが大好きだった。
手術後の姉の、『変わっていない部分』を見て、シュウは自然と笑みが溢れてくるのだった。