左目
「何だって……?」
シュウは少女の言葉が上手く飲み込めず、眉間にシワを寄せた。
目の前にいるのはどう見ても、先ほどまで人質として囚われていた池谷佐織本人だった。彼女の表情は逆光で分かり辛かったが、決して怯えたり怖がったりしてはいなかった。シュウは右頬を床につけたまま、機材の上に腰かける少女を見つめ唇を噛んだ。
「君が……明智シュウ?」
白い肌の少女は、起動停止した作業機の上で退屈そうに両足をぷらぷらと揺らした。それから彼女は可愛らしい黒の右目と、少し血走った赤い左目でシュウを見下ろし、静かに口を開いた。
「聞いたことはあるだろう? 五年前日本を騒がした、無差別連続殺人事件のこと。犯人は当時未成年で、報道では『少年A』として取り扱われていたが……その『A』こそ、他ならぬ明智シュウさ」
「な……!?」
「明智シュウは幼い頃からいじめを受け、やがて歪められた彼の人格は【殺人衝動】をその身に宿した。家族や友人にも黙って夜な夜な変装し、一人隠れて快楽のために殺戮を繰り返し……」
ストン、と音を立てて佐織が作業機の上から飛び降りた。それからゆっくりとシュウの元に歩み寄ると、佐織は細い体を屈めて彼の顔を覗き込んだ。
「やがて、探偵である自らの姉に追い込まれることになった」
「やめろ……」
シュウは不意に頭痛に襲われ思わず目を瞑った。
淡々とした佐織の言葉で、彼の脳裏を今まで見たこともない記憶がフラッシュバックした。
路地裏で、自分を見て目を見開く姉の姿。
握りしめた包丁を突き出す自分の右手。
そして病室で、自分の隣で胸から血を流し、苦しんでいる姉の表情……。
「……そこで快楽殺人鬼・明智シュウは自分の姉を刺した」
「やめろ!!」
シュウが叫んだ。
知らない記憶が瞼の裏を駆け巡り、シュウは上手く呼吸ができず息を詰まらせた。
気がつくと、いつの間にか大量の汗が吹き出ていた。腹の底から込み上げてくるような不安と寒気が、シュウの全身をガクガクと震わせた。シュウは急いで両手で耳を塞いだ。佐織はその両手を掴み、縮こまる彼の耳元にそっと口を近づけ、抑揚のない声で囁きかけた。
「評論家先生の話では、明智シュウは過度なストレスによる心神喪失とも二重人格とも言われた。彼が死んだ今となっては、確かめようもないが……」
「もう、やめてくれ……!」
「実は彼の臓器は、とある医師の実験によって秘密裏に移植されていたんだ。そして信じられないことに彼の【人格】は臓器に宿り、全国の患者の元に届けられた」
「………ッ」
「しかしだ。偏に【人格】と言っても色々ある。かつて精神科医・フロイトは『意識できるものは氷山の一角』だと言った。一人の人間の中には、無意識の領域に様々な【心】が眠っているということさ。【完璧主義者】の心、【夢想家】の心、【反抗者】、【良心】、【心配性】……。その中で最も【殺人衝動】の人格を色濃く受け継いだ臓器がある。それが左目さ」
シュウはゆっくりと目を開け佐織を見た。恍惚な笑みを浮かべる佐織に対して、彼女の瞳に映り込む自分の顔は、酷く怯えた表情だった。
「左目こそが、移植手術によって図らずも他の邪魔な人格を一切排除して生まれた、最も純粋な殺人人格なんだ」
□□□
「……やがて目を覚ました娘は、もう娘じゃなくなっていた。佐織は自分のことを、明智シュウだと言い張ったんだ」
白煙に覆われた監視カメラの映像の前で、がっくりと項垂れた池谷轍が言葉を紡いだ。その場に駆けつけた警官の誰もが、信じられないと言った表情で彼を見つめていた。だがその中でも、少なくとも猪本は彼の話を理解していた。正に彼の話に出てきたような症状を持った患者が、猪本のすぐそばにいたのだから。
「警部!」
地下室に駆け込んできた若い警官が、猪本の耳元で素早く囁いた。
「屋敷に保護されていた班目京香を、先ほど確保しました」
「そうか」
猪本が池谷の方を見つめたまま頷いた。池谷は頭を抱え、掠れ声を絞り出した。
「分かるか!? この気持ちが……殺人鬼に妻を殺され! 私自身も、娘さえも傷つけられ!」
池谷が自分の両膝をバン! と叩いた。
「そして佐織は、大切な自分の『心』さえも殺人鬼に奪われたッ!! 事件のみならず、死後に至るまで……ッ私たち家族は、明智シュウに滅茶苦茶にされたんだ!!」
「…………」
白髪混じりの頭を掻き毟り、両目からボロボロと大粒の涙を零す池谷に、全員が言葉を失った。
「だから、私は誓ったんだ。娘と……その他にも臓器を移植された全ての患者を見つけ出し……全員を地獄に送ってやる、と。『右目』も、『肝臓』も、出来る者は全て利用し……快楽殺人鬼の残り滓を、この世から抹消してやらねば、と」
「…………」
「それが私の……奴に出来る、最大限の復讐なんだッ!!」
「オイ……ッ!?」
突然、椅子に座って項垂れていた池谷がガバッと顔を上げた。ポケットに忍ばせていた小型のナイフを光らせ、池谷は目の前にいる猪本に襲いかかった。
「!」
猪本は訓練通りの動きで池谷の手を払いのけ、即座にホルダーから拳銃を抜いた。わずかに態勢を崩され、こめかみに銃口を向けられた池谷が一瞬凍りついた。ほんの数秒動きを止めた池谷は、そのままあっという間に警官に取り押さえられた。
「午後二十時十七分、確保」
「どうしてだ……ッ!?」
地面に顔を押し付けられた池谷が、ギラギラとした目で猪本を睨んで唸り声を上げた。
「警部さん……どうして分かってくれないんだ!? 貴方にだって家族がいるだろうッ!? 大切な者を殺された恨みを……復讐をッ! どうしてッ!!」
「生憎それを取り締まるのが、こっちの仕事なモンでな」
猪本は池谷に銃口を向けたまま、ゆっくりと後ろを振り返った。
「危ないところだったな、明智くん……」
だが、猪本の振り返った先に、女探偵の姿はなかった。
「明智くん?」
猪本が空っぽになった扉付近を見つめ、眉を吊り上げた。
「ここにいた明智探偵は?」
「すみません、いつの間にかいなくなっていて……」
近くにいた若手警官が首を振った。
「まさか……」
猪本が白煙に包まれた監視カメラの映像を振り返り、顔を強張らせた。
□□□
「俺は左目を移植され……目を覚ますと自分が自分じゃなくなっているのをはっきりと感じた。俺はもう、池谷佐織ではなくなった。左目に宿した殺人人格……明智シュウこそが、俺の人格になったんだ」
「そんなことが……」
頬を床に押し付けたまま、シュウが絶句した。佐織は静かに笑った。
「信じてもらわなくて結構だ。この娘の父も、しばらく拒絶状態だったよ。どうにか娘を元に戻そうと、必死にアレコレ手を尽くしていたな……だが、一度心に宿った【人格】は中々消えなかった。たとえ臓器を取り除いたとしても、だ。それは『右目』で実験済みだ」
「まさか……!? 班目に右目を与えたのは、お前ら……!?」
呆然とするシュウに、佐織はニヤリと唇を吊り上げて見せた。
「やがて全てが無駄だと悟ったところで、彼は明智シュウの臓器をこの世から葬り去ることに決めた」
「!」
「ああそうさ。父は俺を殺したがっているだろうな」
佐織は嘆くでも悲しむでもなく、明日は雨が降るだろうな、とでも言うようにそう呟いた。
「だが俺は……むざむざ殺されるつもりはない。かと言って、父の理想の娘を演じるつもりもない。俺は、俺だ。俺のやりたいようにやる」
佐織の、シュウの顔を掴む手にグッと力が込められた。シュウは目を見開いたまま身動きが取れなかった。佐織がさらに顔を近づけ、シュウに覆い被さるように覗き込んだ。
「父から聞いているぞ……確か俺の『肺』が……たまたまその日交通事故を起こした少年に移植された、と。その子は顔面もぐちゃぐちゃに潰されていたから……顔は手術して整形するしかなかったはずだ」
「何を言って……!? 僕は……ッ」
目を逸らそうとするシュウの顔面を、佐織が細い手で力強く握り締めた。
「お前が、そうだな? 俺には分かる。お前は『心臓』じゃない、『肺』だ。会いたかったよ」
「……なんだって?」
シュウが目を見開いた。佐織は興奮したように囁いた。
「会いたかった。『心臓』にも、『肺』にも。みんな、血を分けた俺の分身のようなモノだからな」
佐織が慈しむような『目』でシュウを見つめた。その『愛』に、シュウは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「俺と一緒に来い、『シュウ』」
「……え?」
思いがけない言葉に、シュウは思わず佐織を見つめ返した。佐織の口調はだんだんと熱を帯びてきた。
「お前は、俺なんだろう? お前の中にも、少なからず【殺人衝動】が宿っているはずだ。また俺と一緒に、人を殺そう?」
「………ッ」
「五年前はしくじったが……一人ではできなかったことも、俺たちならできる。お前なら、俺の気持ちが分かるだろう?」
「僕は……ッ」
「オイ、変態女」
突然背後から光が差し込み、床に転がる二人に声が飛んできた。二人が顔を向けると、工場の入り口に一人の女探偵が立っていた。逆光を背に入り口に立つ彼女のシルエットに、シュウは思わず息を飲んだ。女探偵はシュウが今まで見たこともないような顔をして、あらん限りの大声で叫んだ。
「今すぐ弟から離れろ! ぶっ●すぞ!!」