心臓
「それで? 何か悩み事でもあるんじゃないの?」
「北条先輩」
ヒカルが目の前に並べられたディナーから顔を上げると、そこに北条早雲のほほ笑んだ表情が待っていた。二人とも先ほどから、驚くほど箸が進んでいなかった。
「珍しいじゃない。貴女の方から食事に誘うなんて」
「…………」
ヒカルは諦めてナイフとフォークから手を離し、少し顔を曇らせてナプキンで口を拭いた。レストランに広がる客たちの声や、優雅なクラシックの調べ。ヒカルの表情とは対照的に、しばらく二人の間に沈黙と、活気溢れる店内の音が流れた。
「あの……先輩は今回の事件、どう思ってますか?」
「連続殺人事件?」
やがてヒカルがゆっくりと切り出した。早雲が白ワインに口をつけ、ヒカルはこくりと頷いた。
「こないだの事件から……」
「池谷一家が襲われた事件ね」
早雲が頷いた。
資産家・池谷轍の妻が心臓をくり抜かれて殺された事件。
その残忍な犯行の類似性から、この事件は模倣犯か、もしくは今世間を騒がせている連続殺人鬼の仕業ではないかと言われていた。さらに犯人は池谷轍や小学生に上がったばかりの一人娘を襲い、未だに逃亡中である。警察はこの街全域に検問を敷いて、誰一人逃さないように全力で警戒に当たっていた。ヒカルもまた捜査に協力と言う形で駆り出され、探偵事務所に寝泊まりし家に帰れない日々が続いていた。
「犯人は、まだ未成年の可能性もあるとか」
「そうねえ」
早雲はアルコールにほんの少し頬を赤らめ、考え込むような仕草を見せた。
「あまり先に犯人像を決めつけてしまうのは、良くないでしょうね。だけど、最初の事件が発生してから未だに尻尾すら掴めていないところを見ると……犯人は私たちが警戒すらしていない、思いもよらない人物かもしれない。案外みんなの前では、普通に振舞ってるかもしれないわ」
「異常性格、ですか……」
ヒカルの声は、いつの間にか少し震えていた。
ヒカルの頭の中には、高校生になる弟のことが過ぎっていた。
ヒカルは早雲に、弟のことを相談するか迷っていた。
弟がいじめに遭い、学校を休みがちになっていること。
そのせいで元々大人しかった性格も萎縮し、歪められているのではないかということ。
女装をしたり、普段絶対着ないような服を家族に黙って買い揃え、夜な夜などこかに出かけるようになったこと。その期間は、今回の連続殺人事件が発生した時期とぴったり重なっていた。
そして弟が、時々まるで底なしの沼を覗いているような、得体の知れない暗い目をして帰ってくること……。
ヒカルが早雲に気づかれないように唾を飲み込んだ。
「その……殺人人格のようなものって、本当に存在するのでしょうか?」
「さあ、分からないわ。本やドラマの中では見たことがあるけど」
ヒカルはテーブル上の牛フィレ肉から顔を上げ、おずおずと早雲を見つめた。早雲は白ワインを片手に肩をすくめた。
「だけど、誰にだって表の顔と裏の顔はあると思うわ。学校や職場なんかでみんなと一緒にいる時の性格と、家族や一人きりでいる時の性格。程度の差はあれ、公私が丸っ切り同じな人の方が少ないんじゃないかしら?」
「誰にだって、ですか……それって」
「ん?」
「……いいえ」
ヒカルは喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
果たして自分は、どれだけ弟のことを分かっているのだろう?
社会人になり、一緒に居られる時間も少なくなってきた。いじめにしても、子供の頃みたいにずっとそばで守ってあげられればいいのだが、そういう訳にもいかない。むしろ姉としては、命に関わるような暴力なら、ずっと家にいてくれても構わないと思う。女装のことだって咎めるつもりはない。家族に隠しているのだって、性癖を恥ずかしがる気持ちも分かる。
だけど……本当に性癖だけが女装する理由なのだろうか?
もしかしたら別の理由で……と考えてしまうのは、探偵という職業柄、誰かを疑うことが常日頃になっているせいだろうか?
自分の家族を疑いたくはない。単なる偶然であれば、どんなに気が休まることだろう。
だが、とうとう自分たちの住むこの街でも事件が起こってしまったことが、ヒカルをさらに暗澹たる思いにさせていた。
「……警察では今なんと?」
ワインレッドの、派手なドレスを身に纏った女性は、あからさまに話題を変えたヒカルの言葉を軽く笑い飛ばした。
「私みたいな新米の婦人警官には、何の情報も降りて来やしないわよ。ただ、『夜出歩く中高生にもしっかり声かけしろ』って、それだけ」
「……私にも、高校生になる弟がいます」
ヒカルは紺のスーツの端をぎゅっと握りしめ俯いた。
早雲はヒカルの次の言葉を待って、彼女をじっと見つめた。再び、二人の間には他のテーブルの間を行き交うウェイターの声や、カチャカチャと食器の擦れ合う音が響き渡る。やがてヒカルはテーブルに並べられた手つかずの料理をじっと見つめながら、震える声を絞り出した。
「その……」
「…………」
「もし本当に、異常性格のようなものが隠されてるとしたら……周りにはそれが見分けがついたり、自覚できるような類の」
「待って」
突如ヒカルの言葉を遮り、早雲は急いでショルダーバッグからスマホを取り出した。
「猪本刑事からだわ」
「!」
早雲の表情がみるみるうちに引き締まり、通話をするために急いで席を立った。後に取り残されたヒカルは、呆然とした面持ちで早雲の後ろ姿を見守っていた。
「犯人らしき少年が、通行人を襲い現在も逃亡中」
やがて戻ってきた早雲の第一声に、ヒカルは息を詰まらせた。
「この付近よ。行きましょう!」
「はい!」
早雲の鋭い声に、ヒカルの体に一瞬で緊張が走った。周りでディナーを楽しんでいた客たちが、二人の様子に何事かとざわざわと騒ぎ出した。
もしかしたら自分の弟は、快楽殺人鬼かもしれない。
そんな疑念を振り払うように、ヒカルは弾かれるように椅子から立ち上がり、北条早雲とともに現場へと急ぐのだった。




