研究日誌①
・ハワイ大学看護学部は心臓移植を受けた患者10人に対し調査を行い、食べ物や音楽の好み、趣味、キャリアに対する考え方の変化を記録した。術後、患者1人あたり実に2〜5つに及ぶ提供者との類似点を発見した。つまり、性格が変わっていたのである。それも、提供者に似る形で。
・オーストラリア・ウィーンで、心臓を移植された患者47人を2年以上に渡り観察し研究した結果、患者の約20%(およそ10人。5人に1人の割合である)が自分の人格が変化したことを自覚していた。
・さらに、最も有名な『記憶転移』の事例は、クレア・シルヴィアのケースであろう。1988年、ユダヤ人中年女性であるクレアは、脳死した若い男性の心臓と肺の同時移植手術を受けた。手術は無事成功し、提供者はバイク事故で死亡した18歳の少年だということだけが彼女に伝えられた。
しかしその数日後から、彼女の性格は徐々に変わっていったのである。
彼女は元々バレエダンサーで、ハンバーガーやチキンなど、ファストフードは大嫌いだった。だが移植後、彼女はケンタッキーが大好物になった。さらに嫌いだったはずのピーマンが大好物になり、歩き方はまるで男のようになってしまった。彼女は夢の中に出てきた少年のファーストネームを何故か知っており、それが提供者だと確信していた。数年後、彼女は自身の体験を元にした本を出版している。
・臓器移植にともない、提供者の記憶が患者に転移するという現象は、未だ科学的立証はなされていない。
・しかし臓器移植手術をすると言うことは、つまり自分とは異なるDNAを体内に移植することでもある。大病や大きな手術の後で、性格が変わってしまうこと自体は珍しくないだろう。さらに最新の研究では、脳以外の場所に、記憶が蓄積されていることも明らかになってきている。
・アメリカのマサチューセッツ大学のプラナリア研究では、頭部を切断され、新たに頭部を再生したプラナリアが、切断される以前の記憶を保持したままでいることが分かった。名古屋大学の共同研究チームは、線虫を用いた研究で、神経細胞の中に単一細胞として記憶を形成できる能力を持つものが存在することを初めて発見した。記憶は脳の中だけにあるのではなく、細胞一つ一つに刻まれている可能性がある。
・『記憶転移』、あるいは『記憶の引き継ぎ』の研究が今後進めば、極端な話、『記憶』そのものを求めて臓器移植が行われたとしても、何ら不思議ではない。例えばアインシュタインやレオナルド・ダ・ヴィンチの記憶を持った臓器を移植すれば、貴方はもう受験勉強や資格試験に頭を悩まされることはなくなるだろう。ウォルト・ディズニーや手塚治虫の記憶をまるごと移植すれば、近々あの名作の続きや新作が発表されるかもしれない。モーツファルトやベートーヴェンの記憶なら、貴方はきっと音楽の歴史を塗り替えることになる。
・もちろんリスクもある。ISHLT(国際心肺移植学会)の報告によると、心臓移植の術後の生存率は1年目が約81%、10年目が約53%。15年目で約36%である。日本国内だけで見れば、10年目で約90%と世界平均をかなり上回ってはいるものの、それでも当然リスクは避けられない。元の人格に合った肉体を用意しなくては、拒絶反応だってある。それに、倫理的問題……。
・何れにせよ100年後、あるいは50年後、30年後……貴方に初めて会う人物は、向かって帽子を取って、至極真面目な顔をしてこう挨拶する時が来るかもしれない。『初めまして。私は1955年に亡くなった、アルベルト=アインシュタインです』。
ーー『S野県立医大三年・北条政子による研究日誌』より。