閑話 あの娘の消えた日常 4
高校生になると、遊ぶだけじゃなくて鈴と一緒に勉強をする事も増えた。
まあ、一緒に勉強っていうか、私が鈴の家庭教師をしているって感じかな。
クラスも同じになったから、鈴が授業で分からなかったところも、授業の後すぐに教えてあげられるから効率もいいわ。
私は、学力がどうだとか将来がどうだとか言うつもりは無いけど、鈴が追試や補習になって、一緒にいる時間が減ってしまうのは避けたいっていう自分本意な理由で勉強を教えている。
まあ、一緒に勉強をすること自体も楽しいんだけどね。
「ちょっと、江戸幕府の歴代将軍の中に徳川イエティとか徳川イエスタデイとか混じってるけど、誰よこれ? イエがつけばいいってものじゃないわよ?
それとこの写真の人はタモさんじゃなくてマッカーサーよ、サングラスしか共通点無いわよ」
分からない問題でも空欄にしないで『何か』を書くという姿勢は評価できるんだけど、鈴が書いた『何か』は、大抵大ハズレだ。
鈴は頭の回転その物は遅くないけど、正解とは全然違う方向に高速回転してる感じね。
それでも本人に真面目に勉強する気があるおかげで、なんとか赤点を取らない程度の学力までは引っ張り上げることができた。
「……ちょっと鈴、なに? この『三段階変身』って、ここは三権分立よ。三しか共通点無いわよ」
時々変な間違いをするのは変わらないけどね。
テストが近くなるたびに一緒に勉強をしていたから鈴の学力についてはどうにかなった。
勉強以外でも、友達と呼べるほどではないけどまあまあ仲の良いクラスメイトも何人かできたし、私と鈴の高校生活は順調だった。
……あの日までは。
私たちが高校2年に上がってすぐの頃だ。
学校ではコソコソと私を見る視線と陰口、そしてあからさまな無視が増えた。
……理由は分かっている。
周囲の期待を背負うエリートだったはずの上の兄が、飲酒運転で人身事故を起こして1人の男性に大怪我を負わせたのだ。
しかもそれだけじゃなくて、病院の院長である父と弁護士である母がグルになって、その事故をもみ消したっていうオマケ付きだ。
……自分の家族の事ながら最悪。 本当に最悪だわ。
両親がもみ消したはずの問題が私の学校に広まっているのは、簡単な理由だ。
被害者の男性の娘がここの生徒だからだ。
被害者本人は金での解決を受け入れたみたいだけど、娘は納得しなかった。
ネットで拡散とかそういう手段は取らなかったみたいだけど、人の口からだけでも学校内くらいにはすぐに広まるわ。
私がその加害者の家族であることもすぐにバレて広まって、今は私も半分犯罪者扱いよ。
家族の不始末で私が迷惑を受ける時が来るなんて予想してなかったわ。
いつも、私が家族のお荷物扱いだったのに。 ……皮肉なものね。
下の兄は騒動とは無関係だけど、事件の後に逃げるように街を出て音信不通だし、地元で評判のエリート一家っていう名声も、もう終わりかもね。
私は仕方ないって受け入れるけど、父や母の職場の人たちには申し訳ないわ。
それと……他の誰より、鈴に迷惑がかかるのが1番耐えられない。
鈴はとても個性的な人間だ。 今まではそれが鈴のキャラクターとして、比較的好意的に見られていたから良かったけど、ああいう子は、何かの歯車が少し狂えばイジメの対象にもされかねない。
だから私は鈴から離れようと思った。
本気で思った……つもりだったんだけど、ダメね。 離れたくないよ、鈴。
鈴に迷惑をかけるのは絶対に嫌。 でも、鈴と離れるのも嫌。
……滅茶苦茶ね。 アレも嫌コレも嫌って、子供のワガママみたい。
私は、自分はもっと割り切った考えか出来る人間だと思っていたんだけど、案外そうじゃなかったのね。
私と一緒にいることで鈴まで変な目で見られるかもしれないって思いながらも、結局私は鈴と一緒にいた。
そしてある日、教室で……鈴が水芸をした。
ほら、扇子の先から水を出したりする伝統芸よ。
うん、何の脈絡もない超展開だけど、本当にやったのよ、鈴は。
ホームルームが始まる前には何事もなかったかのように席に着いていた鈴だけど、教室が水浸しになっていたから担任にバレちゃって、職員室に呼び出された。
当たり前よ、何をやってるのよ。
「来たわよ、開けて」
帰宅後、私は鈴の家を訪ねていた。 あの謎の行動の理由を訊くために。
鈴は休み時間に職員室に呼び出されていたから、学校ではあまり話す時間が無かったのよ。
ガチャっと扉を開けて出迎えてくれた鈴はジャージに着替えていた。
……ちょっと、それ中学時代の学校指定のジャージじゃないの、部屋着にしたってもう少しオシャレしなさいよね。 まあいいけどさ。
「朝の水芸の事、説明してくれる? あ、それとプリンを買ってきたから、後で一緒に食べましょう」
鈴はあんまりちゃんとした物を食べないから、本当は栄養バランスの良いお弁当でも作って持って来てあげた方が良いんだろうけど、今日は学校があったからお弁当を手作りする時間は無かった。
まあ、手料理は次の機会に作ってあげる事にしましょうか。
私は鈴の部屋に入ると、いつもの椅子に座る。
鈴は大抵ベッドに座るから、実質この椅子は私専用みたいになっているわね。
「で、結局あの水芸はなんだったの?」
私は一番気になっていた事を単刀直入に訊いてみた。
すると、鈴はスマホを弄り始めた。 少しするとピロンと音が鳴って、私のスマホにメッセージが届いた。 目の前でメッセージアプリを使うっていう不自然さにも見慣れたわね。
〈稲穂ちゃんは気付いていないかも知れませんが、最近何だかクラスの空気が重たい気がするんですよねー。 皆さん勉強疲れかもしれません〉
気付いてないはずないじゃない! 私が当事者よ!
……というか勉強疲れ? こんなとんちんかんな事を言ってるって事は、まさか鈴は私が当事者だって事に気付いてないの!?
〈なので、クラスの空気を明るくしようと思って余興をやってみたんですよ。
ほら、水芸って年越しとかお正月にやってるイメージがあったので、なんかおめでたい感じで良いかなーって考えたんですが、どうでしたか? つかみはOKでしたかね?〉
鈴はいつも通りの無表情だけど、なんとなくドヤ顔をしているような気がする。
私は鈴の頭を撫でる。 相変わらず髪の量が多いわ、長毛種の猫や犬みたいな触り心地。
……撫でていると何だか不思議と落ち着くわね。
「クラスの空気が悪いのは……私のせいよ。 ごめん。
鈴にも迷惑かけちゃってると思うけど……でも、私は鈴のそばに居たいわ。 ワガママでごめん。 ……ごめんなさい、鈴」
あれ? こんな事を言う気は無かったのに…… まずいわね、私、思っていたより弱っているみたいだわ。 少し涙も滲んできた。 我慢…… 我慢よ。
唇を噛み締めて涙を堪えていると、スマホにメッセージが届いた。 当然、鈴からだ。
〈えっと……稲穂ちゃんに謝られるような心当たりは無いんですけど。
それに、一緒にいたいならいてくれてOKですよ? というか離れられたら私の方が悲しいので、是非とも一緒にいてください。 私も稲穂ちゃんと一緒にいたいです〉
そのメッセージを見た瞬間、我慢していた涙がこぼれてしまった。
ダメよ……泣くなんて私のキャラじゃないわ。 鈴に気づかれないようにしないと。
そう思ったけど、どうやら鈴にはすでに気づかれていたみたい。
鈴は立ち上がると、私の頭を胸元に抱え込むようにして抱き締めてくれた。
……いい匂い。 なんで鈴は、ジャンクフードばかり食べて部屋でゴロゴロしてるのに、こんな早朝の森林みたいな爽やかな香りがするんだろう。
私は……結局そのまま鈴の胸の中で泣いてしまった。
すると、鈴は少し焦ったような様子を見せた。 私は普段、鈴の前ではしっかり者でいようとしているから、泣いた姿を見せたのは初めてだ。 ビックリしちゃったかな?
またスマホにメッセージが届いた。
〈どうしました? もしかして顔を胸に抱き締めた事で、私の胸が無い事がバレてしまいましたか? あまりの貧乳に憐れんで泣いてくれているんでしょうか? 稲穂ちゃんは優しいですねー〉
……ガックリと力が抜けた。
鈴が貧乳な事はとっくに知ってるわ! そんな理由で泣かないわよっ!
〈ですが、心配しなくてもOKですよ、慣れれば貧乳も良いものですよー!
んー、ですが触っても楽しくないのは難点でしょうか?〉
「誰もそんな心配してないわよっ!」
そんなバカなやり取りをして、気づくと私は笑っていた。
……いつもそうだ。 何か辛い事があっても、鈴と話をしていると、いつの間にか気が楽になる。
ふわふわしてる鈴を私が助けていると思われがちだけど、実際には私が救われていることのほうが多いと思うわ。
多分、今までも……そしてこれからも、鈴は鈴らしくふわふわと生きているうちに、知らず知らずに色んな人たちを助けて行くんだと思う。
そしてきっとどれだけ感謝されても、自分が他人を救っている事になんか気づかないんだろう。
鈴はそういう女の子だ。 そういう所が……
「鈴……大好きよ」
私がそう言うと鈴はスマホを手にとって、そして少し考えてから、スマホをポケットにしまう。
そして真っ直ぐ私の目を見つめてから口を開いた。
「私も稲穂ちゃんの事が大好きですよ。 両想いですねー。 照れます」
そう言った鈴の声は嬉しそうに弾んでいるように聞こえた。
……顔は無表情だけど。
お互いの気持ちを口に出したのは初めてね。 少し照れるわね。
鈴と私が言う『大好き』は、少し意味が違うと思うけど…… でもいいわ、一緒に居られるだけでも私は嬉しいから。
あっ、でも鈴も『両想い』って言ってたし、少しはそっちの意味を期待しちゃっても良いのかしら?
……なんてね、フフッ。 ……あれ? 鈴?
「ああっ!? 鈴っ!? 何でプリンに醤油をかけてるのよ!? それ、結構良いヤツなのよ!? 普通に食べなさいよ! ……あっ!! 私の分まで!?」
その日から、私は前向きに……というか、開き直った。
学校でも、もう家族のことで申し訳無さそうにするのはやめた。
他の誰に嫌われたって私には鈴が居ればいい。 鈴に迷惑をかけてしまうのは嫌だけど、多分鈴は、私が気を遣って距離を置くことの方が嫌がるはずだ。 だから私はこれからも鈴と一緒に居るわ。
それでもどうしても上手く行かなければ学校を辞めてやるだけよ。
変に考えるのをやめて自然体に過ごすようになると、意外と物事は上手く行くものね。 しばらくすると、私へのあからさまな無視や陰口は無くなっていったわ。
まあ、みんなと仲良く……って言うほどの関係改善はできなかったけど、そこまでの期待はしていないからこれで充分よ。
そこからは……楽しかったわね。 ええ、楽しかったわ。
もちろん良いことばかりじゃあなかったけど、鈴がそばに居たら笑い飛ばせた。
それでもどうしても辛い時には、何も言わずに、ただ鈴は手を握ってくれた。
だから、ある時私は鈴にこんなことを言ったんだ。
「ねえ、鈴。 あなたは、これからもいつもの鈴でいてよ。
そしたら私も、辛い事があってもいつもの私でいられる気がするわ」
そう言うと、すぐにスマホにメッセージが届く。
〈んー、いつもの私というのがどんな私か自分ではわからないんですけど……まあ、心がけてみましょうかねー〉
その直後、続けて次のメッセージが届いた。
〈あー、ですけど、何かがあって突然稲穂ちゃんと離ればなれになったりしたら、心細くてちょっといつも通りでいるのは難しいかもしれないですねー〉
「……大丈夫よ。もし離ればなれになっても、私がどうにかして会いに行くから、それまで頑張りなさい」
私はそう言って、鈴の頭をわしゃわしゃと撫でた。
きっと私は、これからも鈴のそばにいるんだろうな、って、根拠も無くそう信じてたわ。
そう、信じていたのに……。
チリィンッ!
自転車のベルが鳴り響く。 私はそれに驚いて我に帰った。
どうやら私のすぐ横を自転車が通ったみたい。 ……あれ? ここ、どこだっけ。
……今まで無意識でぼうっと歩いていたみたいね。
私は辺りを見渡す。 すると、すぐにこの場所がどこなのか分かった。
ここは……鈴の住んでいたマンションの前だ……。
我ながら呆れる。 ええ、呆れるわね。
鈴の事を思い出しながら歩いていたら、無意識に鈴の家まで来ちゃったわ。
私は視線を少し上に向けた。
二階の隅の部屋……ベランダから公園が良く見える、あの部屋。
鈴は、あそこに居た。 ……確かに居たのよ。
鈴の部屋の窓に貼られた『空室』の文字が視界に入った瞬間、私は泣きそうになってしまって、その場から逃げるように走り去ってしまった。
鈴は居ない。 ……もう、居ないんだ……。
そのことを受け入れれば、きっと私は緩やかに鈴の事を忘れて行くのだろう。
そうすればこの胸の痛みも寂しさも消えて、楽になるんだと思う。 だけど……
「忘れないわ。 私は……私だけは忘れない」
私は、自分に言い聞かせるように、そう口に出した。
その時、ふわりと風が吹いた気がした。
そしてその風に乗って、早朝の森林のような香りを感じた。
懐かしい。 私はこの香りを知っている。
「……鈴?」
居るわけがない。 だけど、私はそちらを振り向いた。
私が振り向いた先……車道を1本挟んだ向こう側は、ちょっとした雑木林になっていて、そこには遠目でも分かるほど大きなキノコが生えていた。
季節外れの大きなキノコ自体も気にはなったけど、何より……何故か分からないけどそのキノコの方から鈴の気配がする。 微かだけど、でも確かに感じる。
あり得ない。 気のせいだ。 私の理性はそう言っているけど……でも、やっと見つけた鈴の手がかりだ。 私はいても立ってもいられなくて、その雑木林の方へと駆け出してた。
その瞬間は、他の事なんて何も気にしていなかった。 ……だから。
横から来た自動車にも気づかずに、私は車道に飛び出してしまった。
ドンッ、という音と衝撃。 そして浮遊感。
全身には激痛と熱さと冷たさが同時に襲ってきて、力が抜けていくのが自覚できる。
だけど……ああ、飛ばされたのがこちら側で良かったわ。 雑木林はすぐそこね。
私はそのまま、這いつくばって進む。 進む。
車の運転手か通行人かが何かを叫んだけど、よく聞こえないし、気にもならない。
流れた血が目に入ったのか、視界が真っ赤に染まって、前がよく見えない。
だけど進む。 目も耳も利かなくなっても、進む方向が分からなくなることはない。
進む。 進む。 ただ、鈴の気配がする方へ。
「鈴っ……ねえ、鈴。 そこに……そこに居るんでしょ……?
待っててね……今…… 今、行くからさ……」
あと少し…… あと少しなのよ…… それなのに……意識が遠くなる。
「あれっ!? キミは今、鈴って言ったかい? 驚いた! 本当に驚いたな~。
まだキミは、モーリン…… いや、毛利 鈴の事を覚えてるのかい?」
薄れる意識の中で、少年のような陽気な声が、直接私の頭に響いた。
「凄いなあ。 意思の力? それとも執着心なのかな? まあどっちでもいいや? キミは面白そうだ、興味が出てきたよ。 ……ボクは楽しい事が大好きなのさ」
次の瞬間、私は光に包まれて…… そして……意識……が…………
次回、稲穂ちゃんが謎の声の人物とご対面。