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六話

 俺は食事用のナイフを洗いながら考えた。昨日のあの男性は、実は死んでなかったんじゃないんだろうか。そうでなきゃおかしい。あの辺りは加工場の集まってる場所で、朝になれば作業する人達が大勢通るはずなんだ。道の真ん中に人が倒れてるのを見逃すはずがない。朝になれば必ず誰かが見つけて、警察を呼ぶはず……なのに、一夜明けた今日、男性が殺されたなんて話は誰もしてなかった。それはつまり、あの男性が死んでなかったからとしか思えない。俺達が去った後、立ち上がって自力で病院まで行って入院でもしてるのかも……。いやでも、俺は男性の様子をはっきり見たんだ。脈とか心臓の音とかは確認しなかったけど、あの乾いた目は、絶対に死んでたはずだ。どう見たって死体だった。

「アイヴァー、これお願いね」

 姉ちゃんは下げてきた食器を洗い場に置いて、また客のほうへ戻ってった。

 朝から俺の部屋に来た姉ちゃんは、警察に言ったほうがいいんじゃない? って何度も聞いてきた。昨日は怖さで動転してて、そんなことすっかり抜けてたけど。あんまり眠れなかったのか、姉ちゃんは少し疲れた顔をしてる。声にもいつもの元気がない。まあ、あんなもの見れば当然だけど。それなのに姉ちゃんはまだハンネスのことを心配してる。襲われなかっただろうか、今日もいつも通り食堂に来てくれるだろうかって、男性が殺されたことよりも惚れた男のほうが気になるらしい。

 俺もハンネスのことは気にならないわけじゃない。でも違う意味でだ。殺された男性はハンネスを尾行してた。そこで入り込んだ路地で男性は死んだ。あの時、辺りに人影はなかった。いたのは俺達二人と男性、そしてハンネスだけだった。あの路地にもともと誰かが潜んでたなら別だけど、そうじゃなかったら、犯人候補はハンネスしかいなくなる。殺人事件とハンネス……この二つが絡むのは何度目だ? 今回は事件化してないから回数に入らないけど、でも俺の中じゃハンネスは限りなく不審人物になってる。彼の周囲で、あまりに人が死に過ぎなんだ。死神にでも憑かれてるんじゃないかと思うくらいに……。

「いらっしゃいませ」

 姉ちゃんの声がして顔を上げると、昼前でまだ客がまばらな店内に一人の女性が入ってきた。なかなかの美人だ。俺は初めて見る。二十代半ばくらいの、すらっとした体形で、白いシャツにベスト、細身のズボンを穿いてる。女性にしては珍しい服装だ。その人は店内をざっと見回すと、長い金髪をなびかせながら颯爽とカウンターに近付いてきた。

「何にしますか?」

 注文を聞く姉ちゃんだけど、女性は椅子に座らないで、上半身をカウンターに寄りかからせた姿勢のまま言う。

「ごめんなさい、食べに来たんじゃないの」

 え、と見つめる姉ちゃんに女性は微笑んだ。

「お二人に話があって来たの。あなたと、そっちのあなたに」

 女性の視線が姉ちゃんに続いて俺にも向く。……初対面で、話?

「お仕事中に悪いんだけど、ちょっとお時間いいかしら」

 戸惑う姉ちゃんが俺に振り返る。いきなりのことで俺もよくわかんないけど、とりあえず洗いかけの食器を置いて、俺はカウンターに近付いた。

「……あの、あなたは?」

「私はロヴィサよ。お二人のことはもう知ってるから、紹介はいいわ」

「どうして、私達のことを知っているんですか?」

 不思議そうに姉ちゃんが聞く。

「それは、この後の話の中で。……いいかしら?」

 俺と姉ちゃんは顔を見合った。初対面の女性が何で俺達を知ってるのか。怪しいことこの上ないけど、話を聞かないと何も始まらない。俺達は店長に断って短い時間を貰い、女性の話を聞くことにした。すると、ここだと人目があるからと女性は食堂を出ると、その横にある狭い空き地に移動した。人通りのある道に面してはいるけど、木が立ってるからそんなに気にはならない。よく晴れた空の下で、女性はにこやかに話し始める。

「改めて……初めまして、私はロヴィサ。お二人もよく知ってるハンネスの姉です」

「ええっ……!」

 姉ちゃんの口から驚く声が漏れた。ハンネスにも姉ちゃんがいたのか。そう言われると、青い目とか美人な顔立ちはどことなく似てる気も……。

「お、お姉さんが一体、どういうご用で……?」

 緊張した声で姉ちゃんが聞く。

「アイヴァー君とウルリカさん、よね? お二人のことはハンネスから聞いてるわ。この食堂で働いてて、よくおしゃべりに付き合ってくれてるって」

「はあ、まあ」

 頼まれたからではあるけど。

「お二人はハンネスの友達なのかしら?」

 俺は思わず考えた。

「友達……って感じじゃない、と思います。俺は」

 前に友達になりたいって言った時、ハンネスは自分の噂を理由にそれを断った。その代わりが話し相手だ。俺はともかく、ハンネスの中じゃそれは友達には入ってないはずだ。きっと。

「私も、ハンネスさんの友達とは言えないですけど、いつかそうなれるといいかなとは、思っています……」

 はにかみながら言う姉ちゃんを、ロヴィサさんは薄い笑みを浮かべて見てる。

「そう思ってくれる人がいるなんて、ハンネスも幸せ者ね……でもごめんなさい。その気持ちは胸にしまっておいてくれるかしら」

「え……?」

 怪訝な顔の姉ちゃんに、ロヴィサさんは申し訳なさそうに表情を歪めた。

「ハンネスは今大事な時期でね、本当ならおしゃべりする時間もないくらい遊ぶ暇がないのよ。理解してくれるかしら」

「でも、ハンネスは無職だって前に――」

「それ、本人から聞いたの?」

 鋭い視線を勢いよく向けられて、俺は思わずたじろいだ。

「そ、そうですけど……」

「普段何をしてるか、言ってた?」

「具体的には何も……職探ししてると思ってましたけど、何かやってるんですか?」

「それは私から言うことじゃないから。とにかく、ハンネスを一人にさせてあげてほしいのよ」

「それは、俺達のことが迷惑だってことですか?」

「そんなことは言ってないわ。ただお二人がいると、ハンネスがうつつを抜かしちゃうから、おしゃべりは控えてほしいのよ」

「ハンネスさんがお食事に来た、ほんの短い時間に、少し世間話をするだけでも駄目なんでしょうか」

「もちろん。それをハンネスが求めたとしても、遠慮してくれるかしら」

 これに姉ちゃんは残念そうにうつむいた。何だろ、腑に落ちないっていうか、釈然としないっていうか……そもそも大事な時期って何なんだ? ハンネスがどうして暇じゃないのか、それを言ってくれないと納得もすっきりもできないんだけど……。

「そういうことだから、ハンネスのために、ご協力を――」

「何勝手に言ってるんだよ」

 聞き覚えのある声に視線を向けると、いつからいたのか、木に寄りかかって腕組みをして、こっちを睨むように見つめるハンネスの姿があった。

「あら、聞いてたの?」

 おどけた言い方のロヴィサさんに、ハンネスは近付く。

「僕は大事な時期でもないし、忙しい身でもない。迷惑な真似はしないでくれ」

「迷惑? 失礼しちゃうわね。いろいろ悩んでるみたいだから、こうして助けてあげようとしてるんじゃない」

「そんなこと頼んだ覚えはないよ。それに、僕を助けようだなんて、本心じゃないんだろ?」

 ハンネスがじろっと睨むと、ロヴィサさんはにやりと笑みを見せた。

「そうね。ハンネスが思ってる通りよ。でもね、こうでもしなきゃ、後で面倒になるのは私達とこの二人なのよ。それがわからないわけじゃないでしょ?」

 言われたハンネスは難しい表情で黙ってしまった。

「何でも一人でできるようなふりはやめて、まだ中途半端な男だと認めなさい」

「……もう、関わらないでくれ」

「無理ね。私は家族で姉弟なのよ?」

 ハンネスが恨めしい目を向けると、ロヴィサさんはふんっと鼻を鳴らした。

「関わらないでもらいたかったら、考え直して家に戻ってくることね。それなら私だって大人しく見守ってるわ。私達はいつでもハンネスの帰りを待ってるから。忘れないで」

 厳しい口調と表情のロヴィサさんだったけど、こっちに振り返った瞬間には、もうにこやかな笑みに変わってた。

「お時間を取らせてごめんなさい。私はこれで失礼するわ。それじゃ」

 踵を返して、長い金髪を揺らしながらロヴィサさんは去ってった。

「ごめん。身内の話に巻き込んだみたいで……」

 苦笑いを浮かべてハンネスが言った。

「お姉さんがいたなんて、知りませんでした」

 驚く姉ちゃんにハンネスは笑う。

「まあ……言われたことは無視してください」

「家族と喧嘩でもしてんの?」

「いや、どうして?」

「だって、家出してるんでしょ? 戻って来いとか、帰りを待ってるとか……」

「ああ、それは……いろいろ事情があってね。家出じゃないんだけど、ロヴィサだけ帰って来いってうるさくて」

 困り顔のハンネスは俺と姉ちゃんを見る。

「迷惑をかけて申し訳ない。お詫びと言っては何だけど、今日はいつもより多めに食べていきます。いいですか?」

「も、もちろんです! そういうお客さんは大歓迎です!」

 姉ちゃんの声が一段高くなった。

「それじゃ早く食堂へ入りましょ。いつまでも立ち話じゃ悪いですから」

 満面の笑みで姉ちゃんは食堂の入り口へ向かってった。その後に俺とハンネスも続く。

「お姉さんの言うこと聞かないで、本当にいいのか?」

「いいんだ。アイヴァーにはこれからも僕の話し相手になってほしい」

「それはいいけど……早くお姉さんと話し合ったほうがいいんじゃないの?」

 ハンネスは微笑むだけだった。本当にいろいろ事情があるらしい。まあ、他人の俺が口出すことじゃないけど。

 前を行くハンネスの背中を見ながら、俺はふと昨日のことを思い出した。俺達以外にあの場所にいたのは、外套の男性とハンネスだけだ。そして男性は死んだ……はずだ。あなたは人を殺しましたか? と聞いたって、正直に答えるわけないってわかってる。だから俺は一瞬の反応を見てみようと思った。俺の中の疑心が間違いじゃないっていう証拠のために……。

 食堂の入り口直前まで来た時、俺は意を決してハンネスを呼び止めた。

「そう言えばハンネス、昨日の夕方、大丈夫だったか?」

 俺の声にハンネスは振り向いた。

「……何のこと?」

 首をかしげた顔がこっちを見る。紺碧の目は泳ぐこともなく、真っすぐ俺を見つめてくる。表情や動きにも動揺する感じはない。ごくごく普通の反応だ……。

「知らないなら、別にいいんだ。気にしないで」

 少し気にする素振りはあったけど、そのままハンネスは食堂に入ってった。……あれ? 彼は本当に無関係なのか? あんなすぐ側で人が殺されてるのに、気付かないことってあるんだろうか。それともやっぱり、そういうふりをしてるだけなのか……何か、余計わからなくなったぞ。本当のハンネスはどっちなんだ? 疑い出したら切りがないけど、反応をそのまま受け入れるのもなあ……。結局、俺の中の疑心は何も変わらずに、もっと深まるだけだった。こんなことなら、鎌かけるのなんてやめればよかった。余計な疑いを抱くよりも、俺には早く済ませなきゃいけないことがあるんだよな――視線の先で、姉ちゃんはカウンター席に座るハンネスに注文を聞いてる。その顔は眩しいくらいの笑顔を浮かべてた。

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