プロローグ・シャファル
これからしばらくの間、この風景ともおさらばだ。
崖下に広がる森林を眺めながら、シャファルはいつになく感慨に耽っていた。
永遠の旅立ちになる可能性がないわけではない。だが少なくともシャファルは生きてもう一度この風景を見下ろすつもりだった。いつ死んでも不思議ではない職業だが、死ぬつもりで旅立つ者など、戦乱の世が過ぎたこのご時世に、そうそういるはずもない。
崖には、一本の杭が打ちつけられてある。簡素極まりないが、シャファルの唯一にして最愛の親友の墓として、シャファルが立てたものだった。彼が今のシャファルを見たら、一体何と言うだろう。
「初めての旅立ちというわけでもないのに…情けないな…」
何度も旅立ちを繰り返し、その度に無事この場所に戻って来たが、今回は今までほど甘い旅にはならないだろう。次にシャファルが向かうのは広大なラスクーツ地方の外、《死の地》と呼ばれる、世界の辺境だ。今までとは違い、常に死と隣り合わせの旅になる。しかしそれでも、シャファルにはそこに行かねばならない理由があった。
物思いから醒めたシャファルは、地面に放り投げたままだったショルダーバッグを拾い上げた。別れは名残惜しいが、そろそろ旅立たねば、隣町に着く頃には日が暮れてしまう。
「しばらく来れないが…我慢してくれ。お前の為なんだ」
墓標にひとり呟くが、もちろん返事があるはずもない。だが誰かがうん、と頷いた気がした。シャファルは墓標ににこりと微笑み、最後に景色を目に焼きつけておこうと振り返り…表情を豹変させた。
何かが聞こえたのだ。誰かの悲鳴と、何かの咆哮。そう、シャファルにはそう思えた。
この森のどこかで、誰かが呪霊に襲われている。この辺りは呪霊が頻発することで有名であり、地元民はもちろん、旅人ですら足を踏み入れない地域だ。一体誰が。
いや、今はそんなことを考えている場合ではない。若干旅立ちが遅れてしまうが、今は人命救助が最優先。
シャファルは目を閉じ、耳を澄ました。視覚情報の障害物が多い森林の中の呪霊を探し出すには、探知能力に長けた使い魔の力を借りるか、聴覚に頼るしかない。訳あって使い魔を持たないシャファルに出来るのは、後者の選択肢だけだ。闇雲に走り回って偶然に期待してもいいのだが、あまり猶予がないのは明白であり、他の呪霊と遭遇すれば元も子もなくなる。
己の耳に全神経を集中させたシャファルが聞いたのは、激しく飛び散る水の音だった。巨大な森なだけあって河川が多いが、人間が走って逃げられるだけの浅さの区域は、ごくごくわずか。あまり近くない。走って行くには、距離があり過ぎる。
「仕方ないか…」
小さく毒づいてから、シャファルは指をパチン! と鳴らした。目の前に突然青白い炎が灯り、中から栞サイズの札が現れた。
それを人差し指と中指で挟み込み、シャファルは横一文字に札を振る。札の軌跡には黒いラインが残り、大気を切り裂くが如く大きく開いた。
そこから飛び出したのは、呪霊だった。緑色の羽毛に包まれた鳥型の呪霊は、身の丈3メートルほどの巨躯を誇る。かつてシャファルが倒し、一時的な使役と忠誠を誓わせた、契約呪霊。
グギュルワァッ! と意味不明に吼えた契約呪霊の背に跨り、シャファルは一言だけ囁いた。
「頼むぞ」
それを理解したのかどうなのかは分からないが、契約呪霊は再度理解の出来ない雄叫びで応え、長大な翼を勢いよく広げた。