始まりは桜の匂いと供に
「・・・ける・・・なさい・・・かける!おきなさーい!」
布団が乱暴に揺さぶられるを感触を不快に感じながら、僕は「うぅ・・」とうめき声をあげた。身をもぞもぞとして布団をゆっくりと胸下に押しのける。母が全くもう・・等と言ってパタパタとスリッパを鳴らしつつ部屋を出て行く様子が聞こえる。重い瞼が視界をふたたび閉ざそうとしたとき、母の「かけるっ!」という怒声が飛んできた。その声にびくんと身を震わせ、瞼をこすりながら、壁にかけられた時計に目をやる。針が6時半を刺している。中学校を卒業して以来感じていなかったこの起床を思い出しながら、今日からこの時間に起きなきゃいけないのかと思うと憂鬱な感情が芽生えてくる。意識しなければもたげてくる瞼を見開いて、いやしかしと僕は自分に言い聞かせる。今日は、高校の入学式だ、出会いの春なんだと体に活をいれる。その決意とは裏腹に、体は思うようには動かず、部屋の外へとのそのそと足を進めた。階下から香ってくる目玉焼きとソーセージの匂いが僕の鼻を刺激する。
「あんたも高校生なんだから、これからは1人で起きられるようにしなさい。」
母がため息1つついて、目玉焼きにかぶりつく僕にそう言う。
「しょんなことひったって・・あしゃはとくいじゃないんだからしょうがなひだろ・・はむっ・・はぐ・・それより父さんは?」
「ごまかしたって駄目よ。父さんは会社。最近父さんが忙しいから。」
母はそう言って笑みを浮かべると、珈琲をすすって、新聞に目をやる。母の料理の腕は確かで、事実目玉焼きという主婦の腕が介入するとは思えない料理でも、上手に焼き上げる。このパリパリとした感触ととろりとした黄身が絶妙なバランスが僕の舌を満足させる。
「おはよ~・・ふぁ~あ・・誰だかさんの目覚めが悪いせいで、私まで起きちゃったよ・・」
妹のみきはそう言いながら、大きく背伸びして階段を降りて来る。悪かったなと独りごちると、僕はウィンナーを加えた。パリッと音と供に、口の中にウィンナーの肉汁が広がる。ウィンナーと黄身の余韻が絡み合うこの絶妙さよ。僕は溜まらず笑みを浮かべた。入学式を迎えるには最高の朝だと僕は感謝した。
「兄ちゃんも高校生か~、昔はあんなに小さかったのにね~。」
そう言うとみきは、僕の皿からウィンナーを1つとりあげて、口へと放り込んだ。母が「みき!」と大きな声をあげた。母の表情は伺えないが、母の匂いから察するに相当怒っている様子だ。みきはハッとした顔をして、気まずそうな顔を浮かべている。おいおいと思う。なんだって、こんな穏やかな朝にたかだかウィンナーのつまみ食い1つで親子喧嘩しなければならないんだ?やれやれといった気持ちを心に忍ばせて、仕方無しにフォローを入れてやった。
「まぁまぁ母さん・・みきも育ち盛りだから、ウィンナーの1つや2つつまみ食いするでしょ。最近おなかも順調に育ってきてるみたいだし」
「お兄ちゃん!」
妹は今度は顔を真っ赤にさせて叫ぶ。お前が僕のウィンナーを食べたから悪いんだ。豆腐とわかめの味噌汁をすする。味噌の深い味が口の中に広がる。僕もこんな料理を作ってくれる嫁が欲しいものだなと大人ぶってみる。母がふふっと笑い、新聞をぺらりと捲る音を聞いて、僕は安堵する。
冷たい表現になるが、みきには母の血は混ざっていない。みきは、僕が小学生のときに、父が連れてきた子供なのだ。父は浮気をしており、その上子供まで作っていたのだ。あちら側の女性が亡くなってしまったとの事情で、みきは父に頼り、父は情けなくも母に頼ることになる。
馬鹿な父親だと思う。こんなにも美味しい朝食をつくってくれる嫁がいて、可愛い子供(もちろん僕のことだ)がいて、一体何が不満だったのだろう。その時、僕は一生父を許せないだろうと思った。しかし、結果的には、中学生になって僕は父を許すことになる。成長と供に、大人には大人の事情があるのだろうと子供ながらに思うことができるようになったこと、何よりみきが来てから父が母を殴らなくなったのを見て父も反省しているのだろうと思ったことが、父を許したきっかけになったのかもしれない。
いずれにせよ、浮気された母が1つ屋根の下で以上のような経緯で生まれたみきを育てているこの状態は、他人から見れば、至って奇妙な暮らし様に見えるだろう。僕だって、それが普通の家庭の形態だとまでは思っていない。しかし、父が男の失態を犯したことと、子供のみきにその責任を押し付けることは、全くもって別の問題だ。子供は自分の努力で親を選ぶことはできないのだから。そういう考えの下、母はみきを育てる決心をした。だから、僕はその決心の重さを尊重することにした。みきは僕の妹なのだと僕の中の神に誓ったのだ。
朝食を食べ終わり、僕は妹と文字通りに肩を並べて歯を磨く。
「お前・・また背でかくなったんじゃないか?」
僕は口一杯の泡を洗面台に吐き捨てて聞くと、みきも僕に習って泡を吐き捨てて答えた。
「それ前にも答えたけど、全然大きくなってないよ。165センチお兄ちゃんの背が小さいだけだから。あと背でかいって女性に言うのは、デリカシー感覚が社会のごみになってる証拠だから、気をつけたほうがいいよ、165センチお兄ちゃん」
妹はうがいをして洗面台から鼻歌をしながら離れていく。僕はその後ろを見て、なんて奴だと、怒りに任せて歯ブラシをごしごしとさせる。母がしばらくして洗面台の方に来て、「かける~そろそろ時間よ~」と言いながら、トイレットペッパーを洗面台の下の棚から取り出す。そして、僕の顔をまじまじと見て言うのであった。
「あんた、入学式だからって歯磨きに夢中になるのはいいけど、その辺にしておきなさい。」
再びスリッパのパタパタと離れていく音を聞きながら、なんのことだろうと鏡を見ると、そこには美形の少年、しかし、口を歯茎から出た血で真っ赤にさせた残念な顔が映っていた。僕は思わず、くそっと悪態をついて、血を吐き捨てて念入りにうがいをする。
僕が入学した西巻高校は西巻山の頂上のわずか東に下ったところに位置する。校門の前には桜並木通りと名付けられた道路が縦にしばらく伸びていて、山のふもとに広がる繁華街まで続いていく。その繁華街からさらに東へと進んだ方角に僕の家がある。高校から僕の家までの距離は、およそ15キロメートル。決して近い距離とはいえない。そこで、登校には、電車を利用することになる。僕の家から北に進んだところに駅の停留所があり、その駅から西巻山のふもとの繁華街まで電車がつながっているのだ。
僕は閑静な住宅を北へと足を進めて、十字路を1つ右に折れてしばらく進み、赤レンガの家の前で足を止める。門に備え付けられたインターホンを鳴らすと、「かける!今出るからちょい待っててくれ!」との声がインターホンの向こうから聞こえた。2分もしないうちに、がたいのいい男が出てきた。切取守。僕の中学校以来の友人である。
「おう、待たせて悪かったな。」
「いーよー、大して待ってないし。」
僕は手をひらひらさせてそう答えた。守は身長180センチもある巨人なので、横に並ぶと一層僕の身長の低さが目立つ。しかし、重要なのは顔なのだと妹が持っている女性雑誌に書いてあった気がするので、全く問題はないはずだ。
「いやー、さすがに緊張するなあ、どんな女の子がいるんだろうなー」
「守、入学式から発情期に突入するのは構わないけど、僕が狙っている女の子に安易に手を出すのはやめてくれよ。」
「まあ、お前がちゃんと誰が好きか教えてくれれば問題のないことだ。仮に俺もお前も同じ人に惚れてしまった場合・・・そのときは正々堂々勝負しよう。」
守はにやりと笑みを浮かべ、僕はギロリと守をにらむ。
「俺とお前は好みが違うから問題ないだろうがな。」
守は言い訳をするように僕から顔を逸らして言った。守は僕が好きだった女の子から告白を2度受けたことがあり、そのうち1度は、告白を受けて付き合ったこともある。付き合ってしばらくたってから、守は僕の意中の人だったと気付き(実際僕は彼にそのことを伝えていなかった)、別れるつもりだと僕に伝えたが、僕はその必要はないと答えた。友人の気持ちを優先してまで恋愛を不意にしてしまうことほど馬鹿馬鹿しいことはない。何より僕としても他の男に奪われるよりも守と付き合ってくれた方が十分に諦めがついた。
もちろん、2度の失恋に僕はいたく傷ついた。しかし、それだけ、彼は魅力的な人間だったし、守を好きになってしまう彼女達の気持ちも十分に理解できた。守はもう覚えていないかもしれないが、とある事件に巻き込まれたときに彼が助けてくれたことを、僕は未だに忘れてはいない。
僕らは、他愛のない話を続けて、停留所につくと、西巻高校の制服を着た生徒がわずかながらにいた。その中に見知った友人はいない。古びた電車がかたんことんと揺らして東からやって来る。停留所にとまる。扉がひらく。一歩踏み出すとぎしりと木材の床板が音を立てる。電車は再びかたんことんと揺らして僕らを西の目的地へと運ぶ。
電車は、大仲公園を通り過ぎ、左の窓からデパートを横流し、さらにいくつかの交差点を曲がって、やがて、目的地の停留所が近づいていく。それとともに、右手から桜並木が花びらを満開にさせているのが見えた。桜並木通りには、その名の通り、道路の両側に桜がきれいに並べて植えている。写真でその風景をみたことはあるのだが、切り取られたものと実際に全く目にするのでは違うものだなと思った。花びらが春風にくすぐられてゆらゆらと揺れており、一列に並べられた桜の各々がリズムをあわせて小刻みに踊っているようだった。思わず感嘆の吐息をもらす。
停留所にとまり、料金を支払って電車を降りる。すんと鼻を鳴らして花びらの匂いを嗅ぐ。花びらの匂いと供に、入学生の期待、不安、歓喜、戸惑いといったごちゃまぜになった感情が否応無しに僕の中に入ってくる。
他人の感情を匂いと供に感知してしまうこの嗅覚が便利だとは思ったことはない。他人の感情の一切が具体的に理解できるわけではない。しかし、抽象的な他人の思惑ですら、時として不用意に無遠慮に僕の気持ちを傷つける。そのため、僕の呼吸は基として口を通して行われるのだが、他人からすればどうもだらしないように見えてしまうらしい。
守は心配そうにこちらを見た。守は僕の事情を知っている。僕は出来る限り心配させないように守に笑顔してみる。この匂いは嫌いじゃないのだと。