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遠山君が言っていた「ちょっと前」とは今から四ヶ月前、一月も半ばを過ぎた頃のことだ。
その日は、土を混ぜたような不気味な雲が空を覆い尽くし、冷たい北風が全身を叩くように吹いていた。
マスターと私はのんびりと、客の一人が帰った後の片付けをしていた。今にも雨が降りそうですねぇ、などと世間話をしながら。
やにわにドアの鐘を大きく鳴らして入店してきた彼は、天候と同じくすさんだ空気を纏っていた。驚いた私は、ついまじまじと見てしまう。
彼はカウンターを通る時「マスター、キリマン!」と唾棄するように言うと、定位置のソファーにどっかりと座り、荒々しくコートを脱いだ。
無造作ヘア、とはお世辞にも言えないほど髪がぼさぼさで、当時の中学校の制服だろう学ランには皺が寄っている。取っ組み合いの喧嘩でもしたのだろうか、と私は思った。
常とは違う彼の様子に気付いているはずなのに、マスターは手際良く珈琲を立てると「じゃあ夜代さん、後はよろしくね」と言ってプライベートルームに入ってしまった。マスターは喫茶店店主の他に翻訳の仕事もしているらしく、私があらかた仕事を覚えると店番を任せて部屋にこもることが多くなったのだ。
今し方マスターが消えた扉と、眉間に皺を寄せている常連C――この頃はまだ名前さえ知らなかったから、私は彼を「常連C」と名付けていた――と、最後にシンクの棚を見る。
そしてソーサーを大きめのものに代え、カップの他に、普通なら置かないものを二つ乗せた。
「……これは?」
私が運んできたものを見て怪訝な顔をしている。
「もしお好きでしたら、と思いまして」
彼と反対側の壁際には他の客もいたので、声のトーンを落として言った。
カップの傍らに置いた物とは、今朝、マスターが気まぐれに焼いたビスコッティだ。マスターは時々こういったお菓子を作っては私たちにくれたり、自ら常連のお客さんにサービスで出している。これがまた絶品なのだ。いつか本格的に弟子入りしたいと画策している。
「コーヒーにつけて召し上がると、美味しいですよ」
「……」
「ご贔屓にしてくださってる、ほんの感謝の気持ちです。もちろんお代は結構ですから」
物を食べると、ささくれ立った気持ちが少しでも和らぐはずだ。だがそんな気障で押しつけがましい言い方はしたくなかった。好きじゃなかったら残してくれて構わないという旨の付け足しもする。
業務用の笑顔で軽くお辞儀をすると、私はカウンターに戻った。しばらく背中に視線が注がれていたが、あえて無視を決め込む。その後も、意図的に彼の方を見ないようにした。
三十分もしないうちに他の客が帰ると、店内には常連Cと私の二人になった。もちろんドア一枚隔てたところにはマスターがいたけれど。
それからさらに少し経ってから、彼が席を立ちコートを着こんだのを目の端でとらえたので、私は帰るのだろうと察してカウンターを出た。おかわりはしなかった。なんてもったいない、その権利よこせと思ったことは内緒だ。
なにはともあれ、纏う空気が店に来た時よりずいぶん軟化している気がする。今日はマンガも読まずにずっと考え事をしていたようだから、自分の中で一応の決着がついたのだろう。
彼が私の前を通り過ぎようとした時、ふいに立ち止まってこちらを見下ろした。
「お勘定」
一瞬、何を言われたかわからなかった。
「おかーんじょ」
「え?あ、はい」
レジへと移動し、慌てて伝票を用意する。私は目線を下げていたが、頭に視線をずっと感じていた。
「四百二十円です」
今までのツケの分など知らなかったので、今日のコーヒー一杯の値段だけを言った。彼も訂正することなく、リュックから折りたたみ式の黒革のサイフを取り出す。
「五百円、お預かりします。八十円のお返しで」
釣り銭を渡そうとしたら、硬貨ごと手を握られた。
目が合う。
その瞳の強さに、私は逸らすことができない。
そういえば、こんなにじっくり彼と対面したのは初めてなんじゃないだろうか。
「ありがと」
何が、とこの場で聞き返すのは野暮というものだろう。
噛み締めるように言ったこの一言。たった四文字が、私の胸にかつてない程強く響いた。
他人との気持ちの繋がり、交わしあった思いやり。バイトしてから初めて味わったこの感覚に、私は雲と建物で遮られているはずの日差しを全身で受け取っているような心地になった。
自然に笑顔が零れ、するりと言葉が出てくる。
「こちらこそ、いつもありがとうございます。またお越しください」
彼の座っていたテーブルには、空のカップとソーサーだけが残っていた。
今思えば、なぜあのような「らしく」ないことをしたのかわからない。
普段の私ならば人の変化に気付かないか、たとえ気付いたとしても「そっとしておいた方がいいだろう」と言い訳して、見て見ぬ振りをしていたはずだ。特に若い男の人は無意識に遠ざけるような言動をしていたはずだった。
……心配した?私が?
後にも先にも、マスターの許可を得ないままお菓子をサービスで出したのは、遠山君にだけだ。そんな思いつきの行動をした自分自身に驚いた。
今回は役者が入れ替わっただけで、四か月前の状況と酷似していた。
彼もまた、私のささくれ立った気持ちを敏感に感じ取ったのだろうか。
そうだとしたら、たとえ行きつけの店とはいえ、ただのアルバイト店員の様子に気が付くなんて、すごい観察眼の持ち主だ。しかも気前よく珈琲をおごるとは。
さすが、霧女で最大のファンクラブ会員がいるだけのことはある。
八時過ぎ、店を閉めた後に掃除をしていると、レジの金額を確認していたマスターに話しかけられた。
「由高くんのことなんだけどね」
今日、お互いに名乗り合っているのを聞いていたマスターは、初めて遠山君の名前を出した。
「以前はたまにしか来なくて、来ても三十分もしないうちに帰ってしまうんだよ」
しかしその短い時間できっちりおかわりもするという。
「来る曜日もバラバラで、いつもつまらなそうだった」
でも、とマスターは言葉を続けた。
「知っているかい?あの子は最近、部活の休みの金曜日と、祝日やテスト期間中の火曜日にしか来ないんだよ。なにより違うのは、その表情だ。明るくて楽しそうで、私はそんなあの子を見られるのがとても嬉しいね」
バリトンの声が、耳を心地よく撫でる。
子どもを慈しみ見守っているような言葉に、マスターの優しさと包容力を感じる。
私はほう、と息を吐いた。
「初めて、聞きました」
「うーん……なんて言うのかな……そう、老婆心というものだよ。わたしはおじいさんだけれど」
マスターは苦笑した。つられて私も微笑む。
遠山君の、変化していった行動を。
その裏にあるものを。
マスターは教師のように、私に諭しているようだった。
マスターの言った意味を、理由を、私は考えなければならないだろう。
だがその決意は「今度、珈琲を点てる特訓をしてみようか」という一言で、どこかへ飛んで行ってしまった。
またまた大いに遅くなってしまってごめんなさい!
のってる時と、そうでない時の差が激しすぎて皆様にはご迷惑をおかけします……。
どうか気長にお読みいただけたら幸いです(:_;)




