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珈琲の薫りは、分類すれば「甘い」に入ると私は思っている。
淑女のように奥ゆかしく、しかし凛として漂うそれ。焼いた香ばしさもあるが同時に実であった頃の面影もあり、それらが見事に調和し、瑞々しい艶やかさとなって私たちを楽しませてくれる。
その薫りを最も堪能できるのは、家でペーパードリップの練習をしている時ではなく、新しい豆の袋を開封した時でもなく、店に入る時だ。
ビルの店へと続く最初の階段に足をかける。この時点では未だ外の空気が辺りを支配しているが、段を上がっていくと次第に珈琲独特の薫りがそれに取って代わる。絵でいうところのグラデーションのごとく二階へ近づくごとにそれは濃密になり、店のドアを開けたところで一気に頂点を迎えるのだ。
私の愛してやまない薫りに身体ごと包まれる瞬間。気分も最高潮に盛り上がり、私はこの空気を五臓六腑に染み込ませるため深呼吸せずにはいられなくなる。
そしてうっとりと余韻に浸りながら、ロッカールームで学校の制服から「Annette」へのそれへと着替えるのだ。
その瞬間を思い出しながら放課後の廊下を歩いていると、
「渡邊さん?もうお帰りなのかしら?」
小鳥のような甲高い声に、現実へと引き戻された。振り返って出所を確認する。
すぐ後ろに、ひとりの生徒が立っていた。
さらさらの内巻きヘアに小柄な身体。目だけが大きく、黒目がちのそれは今はつり上がっている。
制服や鞄には校則に触れない程度に花の小物がついていて、彼女の持つ可憐さをより一層引き出している。おそらく持っている洋服はピンクの花柄ばかりだろう。
名前は確か、伊勢ノ森加与子で合っているはずだ。テストの時に書くのがじれったくなる名前だな、という印象を受けたのを覚えている。
彼女が私に敵対心を持っているのは、去年の秋から知っていた。村田によると、丁度その頃に行われたミスコンの一年生の部で、私が優勝を辞退したのが原因らしい。
賞品の学食のデザート無料券十枚には心惹かれたが、人前に出て注目を浴びることは勘弁してほしかった。そもそも、あれは私が風邪で早退した時に村田が面白半分で勝手にエントリーしたのであって、断じて自ら志願したわけではない。
そしてちょっとしたいざこざがあって結果的に彼女が繰り上げ優勝になったのだが、それが気に食わなかったのか、以来、私が一人で校内にいるといずこから現れ、気が済むまでピーチクパーチク鳴いては去っていくのだった。
今日も「相変わらず言葉遣いが下品ね」だとか「もう少しその伸び放題の髪を整えたらどうかしら?」とか言われるんだろうと思って少し構えていたが、なぜかいつものような嫌味ではなく、ただただ睨みつけてくる。
その目は憎悪に支配されていて、私は少なからず戸惑いを覚えた。
「えっと、何?」
「…………」
「…………」
「…………」
しばらく膠着状態が続き、いい加減帰ろうかと思った矢先、彼女がぽつりと零した。
「付き合ってるの?」
「誰と?」
「遠山由高君」
「はあああああ?」
思いっきりしかめ面をしてしまった。一体全体、どこからそんなデマが湧いて来るのか。
両校の生徒が「Annette」に来たことはないから、店で遠山君に会うことは誰も知らないはずだ。それも客と従業員というだけで、アハハウフフな関係では決してない。
「先週の合コン、遠山君とあなたは来なかったでしょう。実は二人で隠れて会ってるんじゃないかって誰かが言ったの。渡邊さん、私を差し置いて遠山君と勝手に付き合ったら許さないから!」
「……なんじゃそりゃ」
伊勢ノ森さんは、どんな嘘も見逃さないとでもいうようにじっとこちらを睨んでくる。
なぜ偶然にも欠席が重なったくらいでそんな邪推をされるのか全くもってわからないが、とりあえずこの状況は嫉妬による当てつけということは理解した。
くだらん。なんと傍迷惑な。
面倒な恋愛沙汰は他所でやってくれ。そして私に平穏をくれ。
これでは女子高を選んだ意味がなくなるではないか。
「付き合ってないし、付き合いたいとも思わない。あなたが遠山君に懸想をするのは大いに結構コケコッコーだけど、そこに私を巻き込まないで。どうぞ告白なりデートに誘うなり、ご勝手に。健闘を祈る」
「…………!」
隠れて会っていたという部分は、当たらずとも遠からずなので言及しないでおく。
言い捨て、背を向けて帰ろうとしたところで、怒声をぶつけられた。
「なによ!ミスコンで勝ったからって、いい気になって!」
「……はあ?」
もう一度伊勢ノ森さんを見れば、小刻みに震えながらトマトみたいな真っ赤な膨れっ面。
どうやら地雷を踏んでしまったらしい。
「馬鹿にしないでよ!!」
「うわっ」
力の限り私を突き飛ばすと、ピーピーと泣き声を上げながら走り去って行った。
よろめいて尻餅をついたところが痛い。床にぶつけたところを擦りながらも、私の脳内では九十年代の某アイドルが「あなたのせいよー」と歌っていた。
なんだか昨日から状況把握の能力が著しく低下している。
「あーあー。泣―かーせた」
「……村田」
いつの間にか背後に村田が立っていた。
「あんた、いつまで座り込んでるつもり?通行の邪魔なんだけど」
「え、あ……すみません」
立ち上がって無造作にスカートをはたく。それを見ていた村田が、ため息をつきながら未だついていた埃を取ってくれた。
「ありがと」
「どういたしまして」
「あのさ、村田。伊勢ノ森さんと遠山由高って、何か接点ある?」
彼女は盛大に呆れてみせた。
「知らないの?伊勢ノ森さんは中等部の頃からバスケ部マネージャーじゃない。中二の時にどこかの大会で遠山キュンを見初めてからしつこく付きまとって、すでに二回フラレてるのよ。言っとくけど、これウチでもウシ高でも周知の事実だから。それでさっき、あんたが『告白なりどうぞご勝手に』とか『健闘を祈る』っていうのを『また恥をかけ』とでも解釈したんでしょう」
「ああ、なるほど……」
「今回の合コンだって、相手がバスケ部っていうのをどこからか聞きつけて、誘ってないのに無理やりメンバーに入ってきたのよ。それで遠山キュンがいないっていうのを知った途端、不機嫌になって皆に気を遣わせてるんだから図々しいにもほどがあるわ」
「はあ」
「ところで伊勢ノ森さんには否定してた、遠山キュンとあんたが付き合ってるって話。本当に違うの?」
「違う。全くの嘘。赤の他人です。どうか信じてください」
「そうよね、まさかあんたが珈琲じゃなくて男と付き合う訳ないもんね。伊勢ノ森さんに誤解されないように以後気をつけなさい。という訳で、次回の合コンには絶対参加すること。じゃあね。私、今日は野球部キャプテンの佐藤様を出待ちするのに忙しいの。ご機嫌よう」
「ゴ、ゴキゲンヨウ」
私が手を振ると、村田は猛禽類のような鋭い視線でこちらを一瞥し、背を向けて悠然と去って行った。




