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「おはようございます」
薄暗い階段を上りきってドアを開ければ、カランと小さな鐘の音がする。向かって左側、カウンターの中で皿を拭いていたマスターが顔を上げ、眼尻に皺を刻みながら穏やかに「おはよう」と返してきた。時刻はすでに午後四時半を過ぎているが、従業員同士では習慣でこの挨拶をしている。
ここは学校から、ローカル線の駅までの間にある珈琲専門店だ。正確には、学校から北へ二十分ほど歩いたところにある商店街の、東に派生した細い道を入ってすぐのテナントビルの二階。ビルの一階は常にシャッターが閉められているため何が入っているのかわからないが、三階は会計事務所だ。
店の名前は「Annette」。「アネット」と読む。
内装は、椅子が四つ置かれたカウンターの他には、窓際に二人用テーブルが二つと、ドア側の壁に四人用テーブルが二つある。椅子は総計、十六脚だ。通路には歩行に邪魔にならない程度に、ガジュマルを始めとする観葉植物が三つ点在している。坪数で考えればかなり狭いが、天井が高く客も少ないので、窮屈さを感じさせることはなかった。
「あら、夜代ちゃん。今からお仕事?」
「いいわねえ。制服、可愛くって。うちの娘のなんか上下とも紺で面白くないのよ」
今いる唯一の客――いつも四人掛けのテーブルでおしゃべりに花を咲かせる四十代の主婦コンビが、私に気づいて声をかけてきた。
「溝口さん山本さん、こんにちは。このブレザー、汚れが目立って大変ですよ」
「「あら、そうなのー」」
見事なシンクロで相槌を打ちと、「そうよねー、白だとねー」「やっぱり洗濯が……」と二人だけの会話に戻った。
マスターの微笑みに会釈で返し、カウンター横の朽ちかけたウエスタンドアを押して中に入る。さらに左手のプライベートルームと書かれたドアの中へと引っ込み、ロッカーを開けてバイト用の制服を取り出した。
「Annette」の制服は白いYシャツに黒のスラックスだ。Yシャツの上はマスターのみブルーグレーのニットを着ていて、バイトは一様に黒のエプロン。このシンプルすぎる装いが、私は気に入っていた。
マスターの名前は斎藤弘道。笑顔の優しいロマンスグレーで、物腰が柔らかく、しゃべっているとほわほわと安心させてくれる素敵な人だ。マスターの人柄に惚れて通う客も、一人や二人ではなかった。
店内にはマスターの趣味から、意識に残らない程度の音量でジャズがかかっている。聞いたところによると、かけるアルバムは曜日ごとに違うのだそうだ。
珈琲専門店と銘打つのに相応しく、豆はすべてマスター自身が厳選に厳選を重ねた超一級品だ。豆に関しては注意点が多く、殊に薫りを左右する鮮度に関しては焙煎日や入荷日、開封日等の日付を明確に管理し、常に最高の状態のものだけを店に置いている。これが珈琲通の客や私を魅了してやまない、薫りと味に繋がっているのだった。
訪れる客層は、ほとんどが四十歳以上で、常連になるとさらに平均年齢は上がる。私と同年代の若者はほとんど来ない。
その原因として考えられるのは、商店街に近いという立地条件や、店の看板以外の宣伝を全くしないこともあるが、一番は「古い」ことだろう。
白いはずのビルの外観は、長年風雨にさらされた所為で灰色に変わり、ヒビも目立つ。店内の壁も黄色く、所々にシミがあり、キズのついたテーブルは、天上のライトを鈍く反射する。窓際にだけ据えられた唐花模様のソファーは、年季が入って色落ちしていた。
この一見入りづらそうな色合いが客――特に若者の来客を遠ざけているようだ。ただ、古いといってもみすぼらしさや汚らしさはないと私は思っている。境目を、マスターはしっかりと見定めているのだろう。この古さがかえって居心地が良いのだと話す常連もいた。
現在の従業員はマスターの他に、バイトが私を含めて五人。バイト同士は同じ時間に仕事をすることはなく、基本的にマスターと誰か一人というスタイルだった。
着替えを終えた私がカウンターに入って手を洗い、アルコール消毒をしたところで、主婦二人が驚いた声を上げた。
「あら、もうこんな時間!お夕飯の買い物しなくちゃ!」
「本当!夜代ちゃんの顔も見たし、帰りましょうか」
バイトを始めてまだ半年足らずの私をこうして受け入れてくれることに、嬉しいながらもこそばゆさを感じる。
私はレジに移動して、それぞれの会計をした。
「それじゃあマスター、夜代ちゃん、またね」
「さっきも話してたんだけど、私、通販で美味しいライムジュース買ったのよー。珍しいでしょう?今度持ってくるわね!」
「それは楽しみですね。お二人とも、またいらしてください」
「ありがとうございました」
マスターと揃って見送る。ドア窓から姿が見えなくなったところで、マスターから「よろしくね」という声と共に盆と布巾を渡される。受け取り、先ほど主婦二人が座っていたテーブルの上を片付けた。
カウンターに戻ってカップを洗っていると、いくばくもしないうちに来客を告げる鐘が軽やかに鳴った。
……あ、来た。




