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酒とお茶と子供

 この短編は本編よりかなり過去、昭和初期が舞台となっています。

 綾峰千歳がその異変に気付いたのはある晩、自室に運んでこられた食事に口をつけ始めてからだった。

「あのさ」

「はい」

 千歳は凍りついた表情で、食事を運んできた彼付きの女中にソレを向けた。

「これ、水じゃね?」

 そう言った彼の手に持たれたのは、江戸切子のさかずき

 千歳の食事は彼の希望で夕餉に酒がつく。ところが今日彼が口にしたそれは、どう味わおうと水でしかない。

 すると年嵩の女中は居住まいを正し、はっきりとした口調で言った。

「千歳様。満二十歳に満たぬ者は酒類を口にすることを禁ずる法が大正十一年に制定されたことは御存じで御座いますね?」

「……それは知ってるけどさ、十年以上も前に決まったやつだろ?」

「千歳様」

 彼の世話役でもある女中は粛々と続けた。

「貴方様は生きた時は確かに四百年を優に超えておられますが、そのお体は十七の時分のもの」

「うん。そうだな」

「何でも酒類は未成年者が口にすれば体の発育を遅らせるなど、よろしからぬ影響が出るものなのだそうです」

「……そうなんだ」

「故に旦那様より申しつけられました。お体は満二十歳に満たぬ千歳様に万が一のことなどがありませぬよう、今後御酒はお口にさせぬようにと」

 それはまさに青天の霹靂だった。

 千歳の手から杯は転げ落ち、異国製の絨毯の上を転がって行った。

「なっ、そんな今まで俺、普通に飲んできたんだぞ!? 四百年も飲んできたけど別に今まで何もなかったじゃないか! て言うか、何で十年も前に出来た法律を今さら蒸し返すんだ!?」

 酒が一日の終わりの楽しみ、というやや寂しくも取れる嗜好をもっていた千歳は半泣きになって訴えた。

 だが、屋敷でも一、二を争うほどには優秀な女中は顔色ひとつ変えない。

「今後もないとは保障出来かねます。飲酒により千歳様の御力、御体に何かあってからは遅いのです」

「そ、それこそ俺が先見をすれば……」

「たとえ先見で何か障りのある結果が出たとしても、貴方様は仰らないでしょう?」

 厳しい女中の視線に千歳は黙って目を逸らした。

 図星だ。

 伊達に彼女も彼に二十年も仕えているわけではない。

「千歳様。どうぞ御自分の御立場、周囲の方々への気配り、お忘れ下さいませぬよう」

 そう言って彼女が深く深く頭を下げる中、千歳は杯を持ったままの体勢でただただ固まっていた。

 昭和十年、とある晩のことだった。



「理不尽だ。あんまりだ」

 あの夜のやるせなさと言ったら十日経った今も忘れやしない。いくら待遇だけは国賓級だと言え、軟禁とも言える生活を送る身から貴重な楽しみであった酒まで奪うとは。

 千歳が本日何度めともしれぬ溜め息を吐いた時だった。

「うわ。まだ拗ねていたのか」

 揶揄混じりの声を挨拶にやってきた客人に、千歳は顔を上げた。

 正式な扉ではなく、一見壁にしか見えない隠し扉から入ってきた小さな客人は千歳の前までやってくると、手にしていた包みを彼に差し出した。

「酒ではないが手土産だ。これなら父様たちも文句を言うまい」

 そう言って笑う姿はまだ十歳にも満たない幼子のものとは思えない尊大さに満ちていた。

 それも当然であり、むしろそうでなくてはならないとその子供の周囲は思っている。

 そしてその彼、綾峰本家嫡男は周囲のそういった期待を裏切るどころか更に上にいって応える。とは言え、彼のそれは年長者である自分に対してどうなのかと最近考えさせられるが。

「……義将(よしまさ)。お前はまた勝手に入ってきて」

「誰にも見られていないから問題ないだろう。そして誰にも悟られることなく階上へ戻れば何一つ問題ない」

 義将は余裕に溢れた笑みを浮かべ、千歳に渡した包みを開きはじめた。

「千歳は茶は飽いたと言っていたな」

「二百年前から百年ばかり凝っていたからな。さすがに飽きが来たんだ」

 そしてその次に凝ったのが各地の地酒だった。

 更に異国から様々な酒が日本に入ってくるようになり、本来商家である綾峰家は様々な新しい珍しい酒を入手するようになった。それが一部特権階級の間で出回るようになり、一族が地酒に凝っていた千歳に献上した。

 以来長く千歳の関心は酒にあったのだが、何も法が定められてから十年以上も経ってから未成年者対象のそれに触れるなどと言われ、貴重な趣味を奪われるとは思いもしなかったが。

「俺は酒には酔いにくいけど、土地ごとに味わいが違って面白いんだ。異国の物ともなれば尚一層。俺の知らない土地と文化と人々に育まれた酒だなんて、味わい深いだろ?」

「何と言おうが、酒に執着して子供より幼い反抗の仕方をする大人は見栄えがしないぞ」

 義将は可愛げもなく言い捨て、部屋の隅にある釜戸で湯を沸かし始めた。

「……何してるんだ? 綾峰本家嫡男ともあろう者がそんな女中のようなことをするなどーって怒られるぞ?」

「今この場のことは千歳が黙っていれば、僕が怒られることはない」

 ……本当にしたたかに育ったものだ。

 この年でこれならば、彼はこの世知辛い世の中でも立派に生きていくことだろう。

 まぁそれはそれでいいことか、などと千歳が考えているとふいに義将が口を開いた。

「酒は」

 義将は千歳に背を向け、慣れない手つきで作業を続けながら小さな声で続けた。

「酒は嫌なことも忘れられると聞いた。阿片あへんもそうらしいが、阿片ほどの中毒性はないそうだな。……だから千歳は酒を飲むのか?」

 幼い彼が今どんな顔をしているのか。

 背を向けられたままでもそれが嫌と言う程に伝わってきて、千歳は黙って彼の小さな背を見つめた。

 誰より尊大で口達者であろうとも、義将はまだ子供そので声は言葉より素直に彼の心情を語った。

「千歳は父様や医者よりも前から知っていたのか? お祖母様が亡くなることを」

「……」

 三ヶ月前、綾峰前当主の妻である義将の祖母が他界した。

 穏やかな性質の彼女は三ノ峰家からの本家へ嫁入りしてきた。つまり千歳にとっては直接の遠い子孫にあたる。

 そして千歳の大事な『子』であると同時、義将にとっても唯一無二の祖母だった。

 義将は生まれた瞬間から乳母によって育てられ、周囲を教育係に囲まれて厳しく育てられた。両親は彼に期待を寄せると同時、立派な跡取りとして彼を早くから大人と同じ扱いをしてきたため、義将は甘えることの出来る両親というものがいなかった。乳母や教育係達、それに既に他界した祖父にしても同様だった。

 そのような中、唯一義将を子供として甘えさせてやったのが義将の祖母だった。

 周囲は将来の綾峰の当主である義将のためにならないと度々苦言を呈していたが、千歳はそれでいいと思っていた。

 子供のうちくらい、うんと甘えさせてやっていいはずだ。叱ってくれる役目の人間は大勢いるのだから、それとバランスをとれるくらいの温かさをくれてやって丁度いいだろう。

 だがその彼女はもういない。

 年を経て病がちだった彼女の遠くない終わりを最初に見たのは他でもない、千歳だった。その後、医師の診断で正式に一族に通達された。

 だが、義将には知らされなかった。

 まだ子供の跡取りには衝撃が大きいだろう。そう言って。

 こんな時ばかり子供扱いだ。

 そう思いつつも自分も同じ事を思い、義将に何も伝えなかったが……。

 泣き顔など見たいものではない。

 子供には笑っていてほしい。

 少しでも幸せでいてほしい。

 それは大人の勝手な押し付けでしかないのだろうが、そう思う。そう、願う――。

「……祖父の時は、これほど強い喪失感はなかったんだ」

 ぽつりと義将は零した。

「正直、祖父は雲の上の人。綾峰の絶対の主。そういう印象があったから……親しみ、は感じられなかった」

 沸騰した湯を陶器のポットに注ぎながら、義将は言う。

「けどお祖母様は違った。父様や母様や、他の使用人たちよりずっと近い所にいて、僕の事を見てくれると思っていたから……だから」

 語尾が微かに震え、義将は一度黙った。

 ポットや銀のスプーンが音を立て、沈黙を埋める。

「……っお祖母様が亡くなられて僕自身にも大きく穴が開いたみたいで、もう三月も経つのに、僕はまだこの穴から逃れられない。会いに行くこともできないのにお祖母様の部屋の前へ行ってしまう。会いたいと思ってしまう。……いないのに。お祖母様はもう、この世界のどこにもいないのに、そう思ってしまうんだ」

 ぽたぽたと音を立てて、涙が零れ落ちていく。

「こんなに苦しくて苦しくて仕方ないなら、お祖母様のことを忘れてしまいたいとすら思う。僕はまだ酒は飲めないし、阿片を使う気もない。だけど……苦しすぎる。悲しくて、寂しくて、どうにかなってしまいそうだ……っ!」

 小さく背を丸くした義将の肩に、千歳は手を乗せた。

 その薄い肩は小刻みに震えており、俯いた表情は窺えない。

「義将。お前、ちゃんと泣いたか?」

 千歳の問いに義将はかぶりを振った。

「綾峰本家の跡取りが泣くなどするな。そう言われている」

 それはきっと普通の子供のように些細なことで泣くな、という意味だったのだろう。実の祖母の死にまで涙するなという意味ではなかったはずだ。だけど義将はその言葉を素直に受け取り、小さな体でそれを必死に実行しようとしている。

「義将。大事な人間がいなくなって悲しいのも寂しいのも当たり前のことだ。だから、泣いていいんだ」

 千歳はしゃがみ込み、義将に目線を合わせた。

 義将は口を真一文字に結び、顔を真っ赤にして泣くことを辛うじて堪えているといった風だった。

「辛いのなら泣いて泣いて、気が済むまで泣くといい。俺はそうしてきた。人のいない所でも、誰かいる所でもいい。気兼ねなく泣けるところで泣け。枯れるほど泣いたら、そうしたらまた立ち上がればいいんだ」

 義将の大きな目が、薄らと水に滲む。

 小さく身を震わせ、強く瞼を閉じ、顔をしかめた。

「……千歳はそうやって、たくさん人を見送ってきたのか? お祖母様やお祖父様や、そのもっと前の人達も、ずっと」

「ああ」

「……どう、やって?」

 今にも崩れてしまいそうな声が震えながら訊いてきた。

「泣いてもお祖母様は帰って来ない。もう会えない。なのにどうやって、立ち上がればいいんだ……」

「会えなくても、その人が自分と『いた』っていう事実はなくならない。お前達が過ごした時間は、お前が忘れなければ永遠に失われない。今はまだ辛くても、いずれその記憶がお前の支えになる時がくるよ」

 義将の閉じた両目から堪え切れなくなった涙が溢れだす。

 千歳は彼を抱きよせ、背を撫でた。

「辛さを御そうとするな。無理に忘れようとするな。辛いのはその人が大切だったから。忘れたい程苦しいのは、その人との記憶が尊いものだから。それだけ愛しい人と出会えたことは、誇るべきことだ」

 千歳の腕の中で、義将は赤子の頃より激しくしゃくり上げた。

「……お祖母……様っ。お祖母様っ……」

 声を上げて泣き始めた義将の背を、千歳はずっと撫でていた。

 泣く義将にかつて妻を亡くした日の自分を重ね、そこから続く見送ってきた人々に思いを馳せながら。



 目を真っ赤に腫らした義将は千歳の部屋にあったカップに、先程のポットから濃い褐色の液体を注いだ。

「……これは、珈琲?」

 千歳はカップに鼻を近づけながら首をひねった。

 珈琲はかつて流行り出した時分に飲んだことがあるが、カップの中のそれは珈琲の香ばしい香りとも違う。何と言うか、珈琲とはまた違った苦い匂いがする。

 すると義将は両手を組んで、威風堂々とした態度で言い放った。

「これは紅茶だ」

「紅茶ぁ?」

 千歳は思わずその液体を凝視した。

 紅茶も以前、何かの折に口にしたことはある。だがその頃の千歳の関心は酒にあり、さして印象には残っていなかった。

 だが少なくとも紅茶と言うだけあって、赤みがかった褐色の澄んだ液体だったことだけは覚えている。

「いや……珈琲だろ。この色」

「紅茶だって言ってるだろう。ほら、これを見ろ!」

 そう言って義将が差しだしたのは『tea』と書かれた外国製らしい缶。

 外国語の知識はほとんどないが、確かにteaはお茶を現したはずだ。

「先日、伯母様が英国に旅行された際にお土産にたくさん買っていらしたんだ。その一部を厨房から持ち出してきた」

「こらこら。厨房に勝手に入ったなんて知られたら怒られるぞ?」

 仕えられる立場の人間は、仕える人間の領域に立ち入ることは好まない。まして跡取りとして過剰なほどの期待をかけられている義将なら尚更だ。

 だが義将は不遜なまでの調子で言った。

「言っているだろう。気づかれなければ全てはなかったことになる。それだけだ」

「……お前は立派な跡取りになりそうだなー」

 苦笑して千歳は彼が慣れない手つきで淹れてくれた紅茶を覗き込んだ。

 黒に近い暗褐色。

 この匂いからして絶対苦い。だがせっかく義将が淹れてくれた茶。

 そこまで考えて、ふいに千歳の中に疑問が浮かんだ。

「そう言えば義将。何でお前、急に淹れたこともない茶なんて淹れようとしたんだ? 跡取り様は他人に淹れさせるものだろ?」

 すると義将は不機嫌に目を眇めた。

「一族がお前に酒禁止令を出して以来、食事をまともに取らずに拗ねていると騒いでいた。だから酒の代わりにならないかと持って来てやったんだ」

 つまりこれは彼の気遣いだったというわけか。

 生まれてこの方、この先だって労働になど従事する事もないであろう彼が。

 まだ自分も祖母の死から立ち直りきれていないと言うのに。

「今日のは少しばかり抽出時間が長くなってしまったから味は濃すぎるかもしれないが、先日飲んだ紅茶はとても美味かった。きっと千歳も気に入ると思ったんだ」

 義将も無関心を装いながら、千歳と向かい合ってカップを手に取った。だがその水色の濃さを見て、一瞬怯む。

「……いや、やはり淹れ直す。少し待っていろ」

「あーいい、いい。せっかくだ。このまま頂く」

 立ち上がりかけた義将を制して、千歳はカップを口元に運んだ。

 そしてそのまま既に冷めかけている紅茶に口をつけた。

 これは……苦い。予想以上に。

 不覚にも涙目になってしまった。

 義将が慌てたように千歳のカップに手を伸ばす。

「お、おい。無理して飲むな。淹れ直すから!」

「いや……飲む」

 カップを取り上げようとした義将の手を振り払い、まだ三分の二ほど残った紅茶を一気に飲み干した。そしてソーサーの上に音を立ててカップを置いた。

「……美味かった!」

 顔を上げた千歳の両目には涙が滲んでいる。

 つい口を開けてその様子を見ていた義将は、おもむろに持ってきた手荷物の中から小さなつぼを取り出した。

「砂糖、あったのに」

「!!」

「あとは湯を入れるなりすれば、もう少し飲みやすかったと思う」

 次々と述べられる義将の言葉に、千歳はその場に項垂れていった。

「あー……まぁいいよ。美味かったよ。うん」

 どう見ても美味しかったという者の顔色ではないだろうと思う義将の頭に、千歳の手が置かれた。

「ありがとな」

 義将が顔を上げると千歳は笑っていた。

 照れ隠しのように俯きながら義将は早口に言った。

「……紅茶はちゃんと淹れると美味い。千歳の次の趣味になりそうだと思ったんだ」

「うん。そうだな。色々研究してみるかー。茶も奥深いよな」

 楽しげに言って、千歳は義将の持ってきた紅茶の缶を手に持った。


                                            了

 本編主人公・結恵の祖父、義将さんの子供の頃のお話でした。本編中で名前はけっこう出てきたけれど既に故人だったため登場の機会がなかったのでこちらで書かせていただきました。個人的にお酒を飲めず落ち込む千歳を書いていて楽しかったです。

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