↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

悪役令嬢の葬式を任された元葬儀屋ですが、棺の中のご令嬢はまだ生きています

掲載日:2026/09/03


その夜、王都には珍しく、日が暮れてから冷たい雨が降り始めた。


クロウ葬送院の軒先から落ちる雫を眺めながら、エルナは明日の葬儀に使う白布のほつれを直していた。針を置いたのは、通りの向こうから馬車の音が聞こえてきたからだ。


こんな時間に客が来ることは、ないわけではない。


死というものは、営業時間を守ってくれない。


前世でもそうだった。


日本で葬儀会社に勤めていた頃、エルナは夜中の電話に何度起こされたか覚えていない。病院で亡くなった方を迎えに行き、自宅や斎場へ運び、ご家族と打ち合わせをして、納棺をする。眠いと思うことはあったし、つらい仕事だと思うこともあった。それでも嫌いではなかった。


誰かが亡くなったとき、残された人間は驚くほど何もできなくなる。何を着せればいいのか、誰に連絡すればいいのか、どこへ座ればいいのかさえ分からなくなる。そんなときに、次にすることを一つずつ渡していくのが自分の仕事だった。


今世でも、ずいぶん似たことをしている。


違うのは、黒いスーツではなく黒いローブを着ていることと、火葬炉に魔石が使われていることくらいだ。


馬車は葬送院の前で止まった。


扉が乱暴に開き、雨具を羽織った男が二人降りてくる。その後ろから、黒塗りの細長い棺が運び出された。


エルナは針仕事を畳み、立ち上がった。


「クロウ葬送院の方か」


先頭にいた男は三十歳手前だろう。濡れた金髪を額に張りつかせ、ひどく険しい顔をしていた。上等な外套にも、泥が跳ねている。


「そうだけど」


「レインフォード公爵家の使いだ。急な依頼ですまない。今夜、妹を預かってほしい」


男がそう言った瞬間、エルナは棺を見た。


レインフォード公爵家。


その名前は、今日だけで何度聞いただろう。


王都中の噂になっていた。


ヴィオラ・レインフォード公爵令嬢。王太子エドガーの婚約者でありながら、平民出身の聖女リリアを妬み、陰湿ないじめを繰り返した悪女。今日の午後、王宮で開かれた祝賀会の席上で罪を暴かれ、王太子から婚約を破棄された。


そして先ほど、新しい噂が届いた。


失意のあまり自害した、と。


「あなたが、お兄さん?」


「アルフレッド・レインフォードだ」


男は名乗ったあと、棺へ視線を落とした。


「妹を……ヴィオラを、頼みたい」


声は落ち着いていたが、その手は強く握られていた。


エルナは彼を中へ通した。棺を運んできた公爵家の使用人たちは、戸惑ったように顔を見合わせている。それも無理はない。貴族、それも公爵令嬢ほどの身分なら、王都最大の大聖堂か、王家御用達の葬送院を使うのが普通だ。


クロウ葬送院は悪くない店だが、庶民向けである。


「どうして、うちに?」


アルフレッドは一枚の書類を差し出した。


「王宮から、火葬を急ぐよう命令が出た」


受け取ったエルナは眉を寄せた。


死亡診断書には、ヴィオラ・レインフォード、十八歳。死因は服毒による自死。診断したのは王宮医師グレゴール・バレス。


その下に別の命令が添えられている。


夜明けまでに火葬を完了すること。


「早すぎる」


思ったまま口にすると、アルフレッドが顔を上げた。


「やはり、そう思うか」


「感染症でもない。王都の法律では、毒物で亡くなった人だって夜明けまでに焼かなきゃいけない決まりはないよ」


「王宮医師は、体内に残った毒が危険だと言った」


「そんな毒なら、運んできた人にも危険でしょう」


アルフレッドは黙った。


エルナもそれ以上は言わなかった。


今ここで疑問を並べても、亡くなった人は戻らない。


「火葬は明け方にできる。ただ、その前に身体を整えさせて。公爵令嬢を、そのまま焼くわけにはいかない」


「頼む」


アルフレッドはそれだけ言った。


棺を処置室へ移し、蓋を開ける。


中に横たわっていた少女を見て、エルナは少し意外に思った。


噂で聞いていた悪女の顔というものを、勝手に想像していたのかもしれない。ヴィオラは美しい少女だったが、眠っている顔は思いのほか幼かった。濃い紫色の髪が頬にかかり、長い睫毛が白い肌へ影を落としている。


黒いドレスの胸元には、小さな金の薔薇が飾られていた。


エルナはまず、両手を合わせた。


これは前世からの癖だった。


こちらの世界に仏教はない。それでも、死者の身体に触れる前だけは、どうしてもそうしてしまう。


「失礼します」


返事のない相手へ声をかけ、頬にかかった髪を払った。


冷たい。


当然だ。


死亡からすでに数時間経っているという。


エルナは首元を確かめ、腕を持ち上げた。


そこで手が止まった。


妙だった。


重さが違う。


死んだ人間の腕は、生きている人間が眠っているときとは違う。言葉にすると難しいが、長く遺体に触れている者なら分かることがある。


エルナはヴィオラの肘を曲げ、指を開いた。


硬直がない。


死亡時刻は夕刻と書かれている。この寒さを考えても、まったくないのは少し不自然だった。


「……ん?」


袖を上げる。


皮膚を確認する。


身体の低い場所に現れるはずの色も、ほとんどない。


ただし、これは今世の死体と前世の死体で必ず同じとは限らない。魔力を持つ人間は死後変化が遅れることもある。エルナは思い込みを嫌った。


だから、もう一つ確かめた。


瞼を開く。


そして手首へ指を置く。


何も感じない。


位置を変える。


もう一度。


気のせいかと思うほど弱い何かが、指先に触れた。


エルナは息を止めた。


待つ。


一度。


長い間隔。


そして、もう一度。


「……嘘でしょ」


今度は首筋へ指を当てた。


間違いない。


とても遅い。


弱い。


けれど、ある。


エルナは立ち上がると、処置室の扉を開けた。


外で待っていたアルフレッドがすぐに顔を上げる。


「どうした」


「入って」


「何かあったのか」


「早く」


声の調子で察したのだろう。アルフレッドが処置室へ入り、棺へ近づいた。


エルナはもう一度ヴィオラの手首を取った。


「妹さん、まだ生きてる」


アルフレッドの顔から表情が消えた。


「……何を言っている?」


「脈がある」


「そんなはずはない。王宮医師が」


「その王宮医師が何を言ったかは知らない。でも、確かに脈がある」


アルフレッドが棺へ駆け寄った。


「ヴィオラ」


肩を揺すろうとした手を、エルナが掴む。


「強く動かさないで」


「助かるのか」


「分からない」


即答した。


期待させるための嘘だけは、こういう場所で言ってはいけない。


「私は医者じゃない。前世でも今世でもね。でも、死んでいる人と、生きている人の違いなら分かる。この人は死者じゃない」


アルフレッドは妹の顔を見つめた。


一瞬、何かに耐えるように目を閉じたあと、低い声で聞いた。


「何をすればいい」


そこからは早かった。


身体を冷やさないよう毛布を重ね、呼吸を妨げる衣服を緩める。葬送院には、死亡が確認できない者を誤って棺へ入れないための古い処置法も残っている。エルナは父から教わった覚醒香を使い、アルフレッドには湯を用意させた。


三十分ほど経った頃だった。


ヴィオラの指が動いた。


アルフレッドが息を呑む。


「ヴィオラ?」


反応はない。


それでも、さきほどより呼吸は明らかに深くなっていた。


さらに待った。


やがて少女の唇がかすかに震え、喉の奥から掠れた音が漏れた。


エルナが顔を寄せる。


「聞こえる? 大丈夫。ここは葬送院。あなたは生きてる」


瞼がゆっくりと持ち上がった。


焦点の合わない紫色の瞳が天井をさまよい、それから棺の縁を見た。


その瞬間、ヴィオラの身体が震えた。


「……いや」


声にならないほど小さい。


エルナはすぐに顔を近づけた。


「大丈夫。出してあげる」


ヴィオラの指がエルナの袖を掴んだ。


力などほとんどない。それでも必死だった。


「棺を……閉めないで」


アルフレッドが顔を背けた。


エルナは何も聞かなかったことにして、ヴィオラの身体を抱き起こした。


「閉めないよ。もう大丈夫」


棺から出し、隣の小部屋へ運ぶ。


温かい寝台へ横たえるまで、ヴィオラはエルナの袖を離さなかった。


夜半を過ぎた頃、ようやく話せる程度まで回復した。


最初に水を飲ませたのはアルフレッドだった。


「兄様」


「ここにいる」


「私……死んだの?」


「死んでいない」


「そう」


しばらく黙ったあと、ヴィオラは目を閉じた。


頬を一筋だけ涙が流れた。


エルナは見ないふりをした。


泣き方には、人それぞれ形がある。


「覚えてるところまででいい。何があった?」


アルフレッドに聞かれ、ヴィオラはゆっくり息を吐いた。


「祝賀会のあと、自室へ戻ったわ。あんなことがあったもの。侍女たちは泣いていたけれど、私は別に死にたいなんて思っていなかった」


「だろうな」


「何よ、その言い方」


「お前は死ぬくらいなら、エドガー殿下を一発殴って帰ってくると思っていた」


「……王族を殴ったら処刑されるでしょう」


「そこを考える理性は残っていたんだな」


ヴィオラの口元が、ほんの少しだけ動いた。


この兄妹はこういうふうに話すのか、とエルナは思った。


兄が妹の無実を信じた理由も、少し分かった気がした。


「そのあと、グレゴール先生が来たの」


ヴィオラの声が変わった。


「気が昂っているから、眠れる薬を飲んだ方がいいと言われた。父も心配しているから、と。私は先生を疑っていたけれど……あのときは、まさか私を害するとは思っていなかった」


「飲んだのか」


「ええ。すぐに身体がおかしくなったわ。立とうとしても足が動かなくなって、そのうち指一本動かせなくなった」


ヴィオラはそこで言葉を切った。


唇が白くなるほど噛み締めている。


「意識もなくなったと思った。でも……途中から、声だけ聞こえたの」


エルナは何も言わず、続きを待った。


「先生が『残念ですが、亡くなっています』と言った。侍女が泣いていた。父が何度も私の名前を呼んでいた。私は返事をしたかった。でも、息をするので精一杯で、声が出なかった」


アルフレッドの拳が震えた。


「それから、棺に入れられた」


ヴィオラの視線が、処置室の方向へ向いた。


「蓋が閉まる音も聞いた。釘を打つ音も」


エルナは、自分の胸の奥が冷えていくのを感じた。


死んでいる人を棺へ納める仕事を長くしてきた。


けれど、生きている人間がその音を聞くことを考えたことはなかった。


「最後に先生が言ったの。夜明けまでに焼けば問題ない、と」


沈黙が落ちた。


アルフレッドが立ち上がった。


「王宮へ行く」


「待って」


エルナが止める。


「何を待つ」


「今行ってどうするの。王宮医師があなたの妹に薬を飲ませた、本人は生きていたって訴える?」


「それ以外に何がある」


「その医師はヴィオラ様の死亡診断を書いて、王宮名義で夜明けまでの火葬命令まで出してる。少なくとも一人でやってると思わない方がいい」


「なら、なおさら」


「ヴィオラ様が生きてるって知られたら?」


アルフレッドが止まった。


「今度こそ、本当に殺しに来るかもしれない」


ヴィオラが目を開けた。


しばらくエルナを見つめ、それから尋ねる。


「あなた、お名前は?」


「エルナ。エルナ・クロウ」


「エルナ。あなたなら、どうする?」


「私?」


「あなたが私なら」


エルナは困った。


自分は探偵ではない。


王宮の陰謀にも詳しくない。


死者を整えて、送り出す仕事をしているだけだ。


けれど、それなら一つだけ思いつくことがある。


「……死んだままでいてもらう」


アルフレッドが眉をひそめる。


「何?」


「向こうはヴィオラ様が死んだと思ってる。それなら、そう思わせておけばいい。棺は予定通り出す。火葬したことにして、灰も用意する」


「妹を死者として扱えと言うのか」


「生きていると知らせるより安全だと思う」


ヴィオラは黙っていた。


やがて、かすかに笑った。


「死んだふりなんて、生まれて初めてだわ」


「普通は何度もやるものじゃないよ」


「そうね。二度目は遠慮したいところだわ」


アルフレッドだけが納得していない顔をしていたが、最後には妹の意思を尊重した。


翌朝まで、ヴィオラは葬送院の奥にある家族用の休憩室へ隠すことになった。


棺には砂袋を詰める。


それで一晩をやり過ごせばいい。


最初はそう思っていた。


ところが、ヴィオラは眠ろうとしなかった。


「私が殺されかけた理由を知りたい」


「今は休んだ方がいい」


「寝て起きたら、また棺の中かもしれないでしょう」


冗談めかして言ったが、声が硬い。


エルナは止めるのをやめた。


「心当たりは?」


ヴィオラが頷く。


「聖女リリアの奇跡を調べていた」


思わぬ名前だった。


聖女リリア。


王太子がヴィオラとの婚約を破棄するきっかけになった少女である。


数年前、辺境の村から連れてこられた平民の娘。神殿で祈ったところ、死んだはずの人間を蘇らせた。それ以来、何度も奇跡を起こし、今では国中から愛されている。


「私が彼女を妬んでいたと思う?」


ヴィオラに聞かれ、エルナは少し考えた。


「会ったばかりだから分からない」


「普通はそこで否定するものではなくて?」


「知らない人を、いい人とも悪い人とも言えない」


ヴィオラは目を瞬かせた。


そのあと、ふっと笑う。


「なるほど。あなた、変わっているわね」


棺から出てきた人に言われたくない、とエルナは思ったが口にはしなかった。


ヴィオラによれば、王太子妃教育の一環として王宮の記録を整理していたとき、聖女の奇跡について妙な共通点を見つけたのだという。


これまでリリアが蘇らせた死者は七人。


七人とも、死亡確認から三時間以内に蘇生している。


「最初は偶然だと思った。でも、死亡診断書を確認したら、全員同じ医師だった」


「グレゴール?」


「ええ」


ヴィオラは頷く。


「奇跡が本物なら、なぜ三時間を超えた死者は一人も戻っていないのか。なぜ死亡を診断するのが毎回同じ人なのか。私はそれをリリア本人に聞いた」


「それが、いじめだと言われた?」


「ええ。『聖女様を偽物呼ばわりした』とね」


ヴィオラは苦々しく笑った。


「言い方がきつかったのは認めるわ。あの子の前で帳簿を広げて、『あなたの奇跡、随分と都合がいいのね』と言ったもの」


「それは、まあ……」


「何?」


「ちょっと嫌な人には見える」


「でしょうね」


そこを否定しないところが、エルナは気に入った。


「でも、だからって殺されていい理由にはならない」


ヴィオラの表情から笑みが消えた。


「ええ」


エルナは腕を組んだ。


死者蘇生。


死亡診断。


三時間。


葬送院。


頭の中で何かが引っかかった。


「待って」


立ち上がる。


「蘇生された七人、死亡診断が出たんだよね」


「記録上は」


「なら、葬儀の手配も始まってるはず」


アルフレッドが顔を上げた。


「どういうことだ」


「人が死んだら、医者の次に呼ばれるのは誰だと思う?」


エルナは奥の帳簿部屋へ向かった。


クロウ葬送院は王都で三代続いている。大貴族の葬儀こそ少ないものの、王宮に仕える役人や騎士、その家族なら何人も扱ってきた。


古い帳簿を引っ張り出す。


埃を払い、ヴィオラから聞いた七人の名前を順番に探した。


一人目はない。


二人目もない。


三人目。


「あった」


予約だけが記録されていた。


王宮騎士ベルン・ハイド。落馬事故による死亡。翌日の納棺を依頼。


その横に赤い線が引かれている。


――依頼取り消し。聖女の奇跡により蘇生。


「四年前だ」


アルフレッドが呟く。


さらに備考。


エルナは目を細めた。


「遺体処置は王宮にて実施済み。王宮医師グレゴール・バレスの指示により、当院での処置不要」


次もあった。


次も。


七人のうち四人が、クロウ葬送院へ依頼を出していた。


すべて直前に取り消されている。


すべて、王宮で遺体処置済み。


すべて、グレゴールの署名。


「エルナ」


ヴィオラが帳簿を覗き込む。


「これだけでは、証拠にならないわ」


「分かってる」


エルナは考えた。


処置。


何をしていた。


死者に必要な処置ではない。


むしろ、生きている人間を死者に見せるための――。


その瞬間、鼻の奥に微かな匂いが蘇った。


ヴィオラの髪を整えたときに感じた、甘いような、青臭いような香り。


「棺」


エルナは処置室へ戻った。


ヴィオラが入っていた棺の内張りを外す。布の下に、小さな茶色い染みが残っている。


顔を近づけた。


やはり同じ匂いだ。


「これ、保存剤じゃない」


「分かるのか」


「葬送師は死体保存にいろんな薬を使う。でもこれは使わない。少なくとも、うちでは」


エルナは棚の下から古い薬草帳を出した。


父が若い頃にまとめたものだ。


ページをめくり、記憶にあった植物を探す。


やがて、黒い葉の絵が描かれた項目で指が止まる。


「冥眠草」


声に出して読む。


戦場で負傷者を深く眠らせるため、昔使われていた薬草。体温と脈拍を著しく低下させ、大量に用いると死亡との判別が困難になる。事故が相次ぎ、現在は王国内での医療使用を禁ずる。


アルフレッドの顔色が変わった。


ヴィオラは、むしろ静かだった。


「そういうこと」


「何が?」


「リリアは死者を蘇らせていなかった」


誰も言葉を挟まない。


「最初から、誰も死んでいなかったのよ」


その言葉が部屋に落ちた。


奇跡を起こした聖女。


死者を診断する王宮医師。


三時間以内に蘇る人々。


すべてがつながった。


グレゴールは患者を仮死状態にする。


死亡を宣告する。


聖女を呼ぶ。


祈らせる。


そして薬が切れる頃、患者が目を覚ます。


人々は奇跡だと思う。


聖女自身でさえ。


「じゃあ先生は、聖女様を使って……」


エルナが言うと、ヴィオラが首を振った。


「利用していただけではないわ。リリアの奇跡が国に必要だと思わせれば、彼女の健康管理を任される医師も必要になる。王族も貴族も、聖女を失うことを恐れる。その聖女を医学的に管理できる唯一の人間がグレゴールなら?」


「誰も逆らえない」


アルフレッドが低く言った。


「だから、お前を消そうとしたのか」


ヴィオラは自分の手を見た。


「私は、あの人が作った奇跡を壊しかけた」


しばらく沈黙が続いた。


雨はいつの間にか止んでいた。


窓の向こうが、薄く明るくなり始めている。


夜明けが近い。


アルフレッドが立ち上がった。


「もう十分だ。これだけあれば王宮へ訴えられる」


「弱いわ」


ヴィオラが即座に言った。


「死亡診断書と葬儀記録が同じ医師につながっているだけ。冥眠草だって、今ここにあるものが先生のものだと証明できない」


「お前自身が証人だ」


「悪役令嬢の証言よ」


自嘲するでもなく、事実として言った。


「昨日までの私なら、公爵令嬢としての信用があった。でも今の私は、聖女を害した末に自害した女。生き返って何を言っても、追い詰められて錯乱していると思われる可能性がある」


アルフレッドが言葉を失った。


それは正しい。


評判というものは、真実より強いことがある。


エルナは何度も見てきた。生きているうちに疎遠だった家族が、葬儀になると「誰より愛していた」と言い出すこともある。逆に、世間から嫌われていた人の棺の前で、一晩中泣いている人もいる。


死者は反論できない。


だから、好きなように語られる。


ヴィオラは昨夜、それより少し早く同じ目に遭ったのだ。


生きているのに、死者として話を作られた。


「それならさ」


エルナは棺を見た。


「もう少し、死んでてもらおうか」


二人がこちらを見る。


「どういう意味だ」


「向こうは、夜明けまでにヴィオラ様が焼かれると思ってるんでしょう」


「そうね」


「だったら、葬式をしよう」


アルフレッドが目を見開いた。


「正気か?」


「相手はヴィオラ様が死んだと思ってる。だったら一番油断してるのは、葬式のときじゃない?」


ヴィオラがゆっくりと笑った。


さきほどまで毛布にくるまって震えていた少女とは別人のようだった。


「いいわね」


「ヴィオラ」


「兄様。せっかく私のために葬式まで用意してくださったのよ。本人が欠席するのも失礼でしょう」


「お前は一度死にかけたんだぞ」


「だからよ」


ヴィオラは寝台から足を下ろした。


まだふらついている。それでも背筋を伸ばした。


「二度も殺されるつもりはないわ」


その顔を見たとき、エルナはようやく理解した。


この少女がなぜ嫌われたのか。


怖いのだ。


正しいかどうか確かめる前に、相手が王族でも聖女でも医師でも、疑問を口にする。曖昧なまま笑って流すことをしない。言われる側からすれば、さぞ鬱陶しいだろう。


けれど、棺に入れられてなお同じ目をしている人間を、エルナは嫌いになれそうになかった。


準備には時間がなかった。


アルフレッドは公爵家へ戻り、父親にだけ事情を伝える。ヴィオラが生きていることは、屋敷の使用人にも伏せることになった。


エルナは火葬済みと見せるための灰を用意し、空の棺を大聖堂へ運ぶ手配をした。


その途中、アルフレッドが戻ってくる。


二人きりで帳簿を箱へ詰めていると、彼が不意に言った。


「君は覚えていないだろうな」


「何を?」


「俺たちは以前、会っている」


エルナは手を止めた。


記憶を探る。


貴族の顔を忘れるほど物覚えは悪くないつもりだが、アルフレッドを見ても思い当たらない。


「ごめん。覚えてない」


「五年前だ。母が亡くなったとき、ここの世話になった」


「あ」


少しずつ記憶が戻る。


まだエルナが見習いだった頃だ。


レインフォード公爵夫人の葬儀そのものは王家御用達の大葬送院で行われたが、亡くなった直後の処置だけは、たまたま近くにあったクロウ葬送院が担当した。


気丈な少年がいた。


母親を亡くしたのに泣かず、父を支え、幼い妹の手を握り続けていた。


「もしかして、あのときの」


「思い出したか」


「少し」


アルフレッドは苦笑した。


「正直だな」


「何かしたっけ、私」


「俺に言った」


彼は棺に掛ける黒布を畳みながら続けた。


「ここには、泣いてはいけない人はいない、と」


エルナはしばらく黙った。


言ったような気もする。


言っていないような気もする。


五年前の自分なら、たしかに言いそうだった。


「あのとき、初めて泣けた」


アルフレッドはエルナを見なかった。


「母が死んでから、父を支えなければ、ヴィオラを守らなければと思っていた。俺まで泣いたら駄目だと勝手に思っていた」


「子供だったのに?」


「十六だった」


「子供じゃない」


「十六は子供だよ」


今二十歳のエルナに言われ、アルフレッドは少し笑った。


「だから昨日、ヴィオラを預けるならここにしようと思った」


「私がいるって知ってたの?」


「調べた」


「……それ、ちょっと怖い」


「五年間つけ回していたわけではない」


「ならいいけど」


短い沈黙のあと、二人で笑った。


こんなときに笑っていいのか、とエルナは一瞬思った。


すぐに打ち消した。


葬儀の前でも、人は腹が減る。


誰かが亡くなった夜でも、くだらないことで笑うことはある。


そうしなければ人間は、悲しいことの全部に耐えられない。


朝の鐘が鳴る頃、ヴィオラ・レインフォードの葬儀が始まった。


大聖堂は人で埋まっていた。


聖女を害した悪役令嬢の最期を見届けたいのか、本心から死を悼んでいるのか。参列者の胸の内までは分からない。ただ、ひそひそ声だけはそこかしこから聞こえた。


「かわいそうにねえ」


「でも自業自得でしょう」


「聖女様をあれだけ苦しめたのよ」


死者は反論できない。


エルナは棺の横に立ちながら、そのことを改めて思った。


棺の中は空だ。


本人は大聖堂の裏口近くにいる。


あとは待つだけだった。


王太子エドガーは祭壇の近くにいた。


顔色が悪い。


罪悪感はあるらしい。


その少し離れたところで、聖女リリアが泣いていた。


エルナは初めて彼女を見た。


もっと派手な少女を想像していたが、実際には小柄で、華奢で、どこか頼りない。目元を赤くし、何度も棺を見ている。


「あの方が亡くなるなんて、私……」


王太子が肩へ手を置く。


「君のせいではない」


「でも、私がもっとちゃんとお話ししていれば」


「ヴィオラは君を傷つけたんだ」


その会話を聞き、エルナは少しだけ安心した。


少なくとも、リリアは演技をしているようには見えない。


やがて、グレゴールが現れた。


五十歳ほどの痩せた男だった。


白髪交じりの髪を後ろへ撫でつけ、医師らしい白い長衣をまとっている。


棺を見るなり、エルナへ近づいてきた。


「火葬の準備はできていますか」


挨拶より先だった。


「葬儀が終わり次第」


「できるだけ急いでください。体内に残った毒が危険です」


「聞いています」


「棺も開けないように」


エルナは彼の顔を見た。


「最後のお別れも?」


「危険があります」


「公爵家のご令嬢ですよ」


「身分は関係ありません。死者は死者です」


その言葉に、エルナの胸の奥で何かが冷えた。


死者は死者。


そうだ。


だからこそ、扱い方がある。


「分かりました」


エルナはにこりと笑った。


「それでは、火葬の前に一つだけ確認を」


「何です」


「死亡診断書を書いたのは、先生で間違いありませんね」


グレゴールの目が細くなった。


「そうですが」


「ヴィオラ様が亡くなっていることも、先生ご自身で確認した?」


「何が言いたい」


「仕事柄、確認しているだけです」


「くだらない。早く火葬を」


「まあ、そう急がずに」


声がした。


グレゴールが振り返る。


大聖堂の後方。


参列者たちの間を縫うように、一人の女性が歩いてくる。


黒い喪服。


濃い紫色の髪。


その顔を見た瞬間、あちこちから悲鳴が上がった。


王太子が立ち上がる。


聖女リリアは口元を両手で覆った。


ヴィオラはゆっくり祭壇まで歩くと、集まった人々を見渡した。


顔色はまだ悪い。


それでも、堂々としている。


「申し訳ありません」


静かな声が大聖堂に響いた。


「自分の葬式だというのに、少々遅刻いたしました」


誰も動かなかった。


グレゴールだけが、一歩後ずさった。


「な……なぜ」


ヴィオラが彼を見る。


「先生。お久しぶり、と言うべきかしら。昨夜、私の死亡を確認してくださって以来ですものね」


「奇跡だ」


グレゴールが叫んだ。


「聖女様の加護だ! 死者が蘇った!」


参列者がざわめく。


ヴィオラは首を横に振った。


「いいえ。私は一度も死んでおりません」


「馬鹿な」


「棺の中で、先生のお声を聞いていました」


グレゴールの顔から血の気が引いた。


「夜明けまでに焼けば問題ない、と」


「錯乱している! 毒の影響だ!」


「そう言うと思ったわ」


ヴィオラがエルナへ視線を送る。


エルナは帳簿を持って前へ出た。


緊張していないわけではない。


葬儀で話すことには慣れている。


ただし普段は故人の経歴を読み上げるのであって、王宮医師を告発するわけではない。


「クロウ葬送院のエルナ・クロウです。昨夜、ヴィオラ様のご遺体をお預かりしました」


「遺体ではなかっただろう!」


グレゴールが怒鳴る。


「そう。だからおかしいんです」


エルナは彼を見る。


「死亡診断書があったのに、ヴィオラ様には脈があった。死後硬直も死斑もなかった。身体からは、今は禁止されている冥眠草に似た反応も確認しました」


「葬送師風情が医学を語るな」


「医学は分かりません」


エルナは認めた。


「だから、生き返ったとも言っていません。最初から生きていた、と言っています」


グレゴールが口を閉ざす。


「そして不思議なことに、過去に聖女リリア様が蘇らせた七名のうち、当院に葬儀依頼が来た四名には共通点がありました」


帳簿を開く。


「全員、死亡診断を出したのがグレゴール先生。全員、遺体処置済みという理由で当院での処置を断っている。そして全員、葬儀直前に蘇生しています」


「偶然だ」


「四回も?」


「聖女様の奇跡に時間の制限があるだけかもしれない!」


「私も、そう思おうとしました」


ヴィオラが口を挟んだ。


「だからリリア様に尋ねたのです。四時間以上前に亡くなった人を蘇生したことはあるか、と」


視線が聖女へ集まる。


リリアは青ざめていた。


「……ない、です」


王太子が振り返る。


「リリア?」


「ありません」


震える声だった。


「私が呼ばれるのは、いつも亡くなってすぐの方で……グレゴール先生が、まだ魂が近くにあるうちに祈るのだと」


「リリア様」


グレゴールが低く呼ぶ。


聖女がびくりと肩を揺らした。


「余計なことを言う必要はありません」


その言い方が、すべてを決めた。


リリアの顔から、怯えが消えた。


代わりに浮かんだのは、傷ついた人間の表情だった。


「先生」


彼女は小さく聞いた。


「私が祈る時間を、いつも決めていたのも先生でしたよね」


「それは最も奇跡が起こりやすい」


「祈る前に必ず、先生が患者さんへ薬を使っていました」


大聖堂が静まり返った。


「身体を守るための薬だと聞いていました。でも……あれは何だったんですか」


グレゴールが答えない。


リリアの目に涙が溜まった。


「私が助けたんじゃ、なかったんですか?」


その声だけは、聞いているのがつらかった。


ヴィオラが歩み寄る。


昨日まで敵同士だと思われていた二人が、向かい合った。


リリアは怯えたように一歩下がった。


「ごめんなさい」


「どうして、あなたが謝るの」


ヴィオラが言った。


「だって、私のせいで」


「違うわ」


少しきつい声だった。


ヴィオラは、そういう話し方しかできないのかもしれない。


「あなたが私を殺そうとしたの?」


「違います」


「あなたが冥眠草を飲ませた?」


「違います」


「なら、謝る相手を間違えないで」


リリアの目から涙がこぼれた。


ヴィオラは一度息を吐き、少しだけ声を和らげる。


「あなたも騙されていたのよ」


王宮衛兵がグレゴールを取り囲んだ。


彼は何か言い訳を続けていたが、もう耳を貸す者はいなかった。


その後の調べで、王宮の医務室から冥眠草を精製した薬が見つかった。過去に聖女が蘇生した七人の診療記録にも改竄があり、グレゴールは拘束された。


奇跡を捏造した理由について、彼は最後まで「国のためだった」と主張したらしい。


聖女という存在が国民に希望を与える。


王家を安定させる。


死を恐れる貴族たちを従わせられる。


そう語ったという。


その中に、自分の名誉や権力がどれほど混ざっていたのかは、本人にも分かっていなかったのかもしれない。


ヴィオラの嫌疑は晴れた。


もっとも、聖女への言い方がきつかったことや、社交界で何度か相手を泣かせたことまで消えたわけではない。


本人もそこは否定しなかった。


「悪かったところまで無かったことにする気はありません」


王宮で改めて開かれた席で、ヴィオラはそう言った。


王太子エドガーは深々と頭を下げた。


「すまなかった」


「ええ」


「許してくれるか」


「謝罪は受け取ります」


王太子が顔を上げる。


「では、婚約を」


「それは別です」


即答だった。


エドガーが固まる。


ヴィオラは少し考え、それから静かに続けた。


「私は、間違えた人を嫌いません。誰だって間違えますもの」


「なら」


「けれど、自分が間違っているかもしれないと一度も考えなかった人とは、人生を共にできません」


エドガーは何も言えなかった。


その隣でリリアが小さく手を挙げた。


「それと、殿下」


「何だ」


「私も殿下と結婚したいと申し上げたことは、一度もありません」


王太子は二度目の沈黙に襲われた。


少しかわいそうだとエルナは思った。


少しだけ。


事件から一月後。


クロウ葬送院には、いつもの静けさが戻っていた。


ヴィオラはときどき顔を出す。


葬送院が気に入ったわけではなく、エルナに会いに来ているらしい。


「棺を見るのはまだ嫌だけれど、あなたのところなら平気なの」


そう言った翌日に、新しく仕入れた棺の材質へ文句をつけたので、どこまで本気なのかは分からない。


リリアとも交流が続いている。


二人が仲良しと言っていいのかは微妙だった。


先日はリリアが焼いた菓子をヴィオラが「甘すぎる」と評し、リリアが「ヴィオラ様は苦いものばかり食べているから性格まで苦くなるんです」と言い返した。


かなり健全な関係だと思う。


午後。


エルナが店先を掃いていると、黒い馬車が止まった。


一瞬身構えたが、降りてきたのは見慣れた男だった。


アルフレッド。


手には花束を持っている。


エルナは箒を止めた。


「今日は誰?」


「誰とは?」


「亡くなった人」


「いない」


「じゃあ、なんで葬送院に来るの」


アルフレッドは少し困ったような顔をした。


あれ以来、何度か会っている。


ヴィオラの見舞いのついでに話したり、事件の調書作りを手伝ってもらったりした。


けれど、今日は妹がいない。


書類も持っていない。


代わりに花束。


「今日は遺族として来たわけじゃない」


「うん」


「君に会いに来た」


エルナは花束とアルフレッドを交互に見た。


「……葬送院に花束を持って告白しに来る人、初めて見た」


「告白とは言っていない」


「違うの?」


「いや」


アルフレッドは視線を逸らした。


「違わない」


思ったより不器用らしい。


エルナは笑いながら花束を受け取った。


白と黄色の小さな花が束ねられている。


葬儀に使う花ではない。


「次は」


アルフレッドが言った。


「君の好きな花を教えてくれ」


「どうして?」


「知らないから」


「知らないなら、聞けばいいじゃない」


「だから聞いている」


なるほど。


エルナは少し考えた。


前世からずっと、人を見送る仕事をしてきた。


こちらの世界へ生まれ変わってからも、それは変わらなかった。


誰かの人生が終わったところへ行き、残された人たちが前へ進めるよう手伝う。


それが自分の仕事だった。


嫌だと思ったことはない。


たぶん、これからも続ける。


けれど。


「今度、一緒に花屋へ行こうか」


「選んでくれるのか」


「違うよ」


エルナは花束を抱え直した。


「一緒に選ぶの」


アルフレッドが、ゆっくり笑った。


死者を送る仕事をしていると、人生の終わりばかり見ているように思われる。


でも本当は、そのたびに見ているのだ。


残された人間が、それでも生きていくところを。


棺から帰ってきた令嬢もいる。


母を亡くして泣けなかった少年が、大人になって花を持ってくることもある。


だったら、自分だって。


誰かと一緒に、この先へ歩いてみるのも悪くない。


エルナはそう思いながら、葬送院の扉を開けた。


「お茶くらい飲んでく?」


「ああ」


「棺の隣でよければ」


「できれば別の席がいい」


「わがままだなあ」


笑いながら中へ入る。


背後で扉が閉じた。


今度は、棺の蓋が閉じる音には聞こえなかった。


最後まで読んで頂きありがとうございます!


作者のペンギンの搾り汁(Tiho)です。

この作品が少しでも面白かったなら、評価・ブックマークなどで応援してもらえるとすごく励みになります


また、私は「ラノベ書きっぱ!」という小説投稿サイトを運営しています。


書く人にも読む人にも楽しんでもらえる場所を目指して作っているので、興味があればぜひ遊びに来てください!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。