第7話
第7話 王の庭
追手を退けた翌朝、ミラベルはマルクスと共に森の奥深くへと足を踏み入れていた。
「安全な場所に移動する。ここは、もう知られてしまった」
短く告げるマルクスの声は、いつもより低く、緊張を帯びている。
その横顔には、昨日見せた穏やかさはなかった。
代わりにあるのは――研ぎ澄まされた警戒。
ミラベルは小さく息を呑み、その背中を追った。
森は深く、そして静かだった。
だがその静けさは、これまで感じてきた穏やかなものとは違う。
どこか張り詰めたような、息苦しさを含んでいる。
鳥の声も、獣の気配も遠い。
ただ風が木々を揺らす音だけが、やけに大きく耳に残る。
(……怖い)
思わずそう感じてしまう自分を、ミラベルは振り払う。
前を行くマルクスの背中は変わらず頼もしい。
それだけが、今の彼女の支えだった。
やがて道は次第に険しさを増していく。
踏み固められていない地面、張り出した木の根、湿った斜面。
だが、ミラベルは不思議と歩きにくさを感じなかった。
マルクスが一歩先を進み、足場を確かめ、危険な場所を自然と避けるように導いてくれているからだ。
「……大丈夫か」
振り返らずにかけられる声。
「ええ。あなたのおかげで」
そう答えると、ほんのわずかに彼の肩の力が抜けた気がした。
(やっぱり、この人は……)
ただの森の住人ではない。
そう思う場面は、これまでも何度もあった。
剣の腕、判断の速さ。
そして、時折見せる言葉遣い。
(でも――優しい人だわ)
その事実だけは、疑いようがなかった。
しばらく歩いたそのときだった。
ふいに、視界が開けた。
「……え?」
思わず足を止める。
それまで鬱蒼と茂っていた木々が途切れ、そこだけぽっかりと空間が広がっていた。
柔らかな光が差し込み、地面には淡い緑の草が広がっている。
その中央に、巨大な石柱が立ち並んでいた。
円を描くように配置されたそれらは、どれも人の背丈を遥かに超え、長い年月を経てもなお崩れることなく、その姿を保っている。
表面には蔦が絡みつき、風雨に晒されてなお消えない模様が刻まれていた。
(……遺跡?)
ミラベルは息を呑む。
こんな場所が、森の奥にあるなんて。
ゆっくりと近づき、石柱のひとつに視線を向ける。
蔦の隙間から覗くその文様を見た瞬間――。
心臓が、大きく跳ねた。
(……これ……)
見覚えがある。
幼い頃、何度も読み聞かされた物語。
『王の庭に咲く花』
その挿絵に描かれていた模様と、目の前のそれが、酷く似ていた。
「何で……こんなところに……」
無意識に呟きが漏れる。
(偶然……?それとも……)
何かの導きだとでも、言うのだろうか。
そのとき、背後から静かな声が届いた。
「……ここは“王の庭”だ」
振り返る。
マルクスが、いつになく真剣な表情で立っていた。
その瞳には、わずかな緊張と、何かを決意したような色が宿っている。
「ヒース国に伝わる場所。初代王と妖精が、“ある力”を封じたとされている」
ざわり、と木々が揺れた。
まるでその言葉に応えるかのように、風が石柱の間を抜けていく。
ミラベルは無意識に、もう一歩踏み出していた。
導かれるように、ゆっくりと石柱へ近づく。
「ミラベル――」
マルクスの声が背後からかかる。
だが、その声はどこか遠くに感じられた。
視線は、ただ一点に引き寄せられている。
蔦に覆われた石柱。
その隙間から覗く文様。
指先が、震えた。
(……同じ……)
ウィルスナー家に伝わる、あの花。
自分が生まれた時に咲いたという、特別な花。
幼い頃、何度も見せられたその姿。
目の前の文様は、寸分違わず一致していた。
「この花……」
思わず零れた声は、かすかに震えている。
ゆっくりと、手を伸ばす。
「待て――」
マルクスが制止の声を上げる。
だが。
その瞬間、ミラベルの指先は、すでに石柱に触れていた。
微かな、温もり。
「……っ」
石のはずなのに、冷たさではなく、確かな“熱”が伝わってくる。
次の瞬間、淡い光が、文様に沿って走った。
「……え?」
ミラベルは目を見開く。
光は、彼女の触れた場所から広がっている。
ゆっくりと、だが確実に。
石柱の刻印をなぞるように、淡い輝きが巡っていく。
それはまるで、応えるように。
「ミラベル、離れろ!」
マルクスの声が、今度ははっきりと届いた。
しかし、身体が動かない。
否――動かせないのではない。
(離れたく……ないの?)
そんな感覚が、指先から全身へと広がっていく。
胸の奥が、熱い。
心臓が、大きく脈打つ。
まるで、何かに応えるように。
「……熱い……」
息が浅くなる。
視界の端で、マルクスが手を伸ばしているのが見えた。
けれど、何も起きていないかのように見える。
(……違う)
これは、偶然じゃない。
(私に……反応してる……?)
その理解が、ゆっくりと形を持つ。
石柱、文様、花。
すべてが、繋がっていく。
(どうして……)
震える指先。
(どうして、私に……?)
その疑問が、はっきりと胸に浮かび上がった瞬間。
瞬時に熱が、ぎゅっと縮まる。
光が、一際強く脈打った。
びくり、と身体が震える。
次の瞬間、ふっと、すべてが消えた。
光も、熱も。
まるで最初から何もなかったかのように。
「……はぁ……っ」
ミラベルはその場に膝をつき、荒く息をついた。
遅れて、マルクスが駆け寄る。
「ミラベル!」
肩を掴まれ、現実に引き戻される。
「大丈夫か……!?」
その声には、明らかな焦りが滲んでいた。
ミラベルはゆっくりと顔を上げる。
まだ鼓動は速い。
だが、意識ははっきりしていた。
「……ええ……でも……」
震える手を見つめる。
「今の……感じた?」
問いかける声は、不安に揺れている。
マルクスは、一瞬だけ言葉を失った。
「……いや」
低く、静かに答えた。
「何も、感じていない」
その言葉に、ミラベルの胸が小さく軋む。
光も、この熱も、彼には届いていなかった。
やはり、あれは自分だけに起きたことだった。
沈黙が落ちる。
森のざわめきだけが、二人の間を満たしていた。
やがてマルクスは、強く息を吐いた。
そして、まっすぐにミラベルを見る。
その瞳には、もう迷いはなかった。
「……話す必要があるな」
低く、決意を込めた声。
それは、これまでの彼とは違う響きを帯びていた。
ミラベルは息を呑む。
何かが、変わる。
そんな予感が、確かにあった。
つづく
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