第6話
第6話 逃げ場なき森
森の中を、ミラベルは息を殺すようにして進んでいた。
枝を踏む音が、やけに大きく響く。
自分のものなのか、それとも――追ってくる者のものなのか。
分からなくて、振り返る。
追手の姿は無い。
それでも、確かに“いる”気がした。
(大丈夫、見付かってない)
心臓の音が早い。
呼吸が浅くなる。
(落ち着いて……考えて)
森の中は複雑だ。
道なき道を選べば、追跡を振り切れる可能性もある。
ミラベルは意図的に進路を変えた。
木々の間を縫うように進み、あえて踏み跡を残さないよう足場を選ぶ。
だが――
(……嘘でしょう)
気配が消えない。
それどころか、むしろ――近づいている。
背筋に冷たいものが走る。
偶然ではないし、運でもない。
――気付かれた、追われている。
「どうすれば……ハッ」
思わず声が漏れた、その瞬間。
空気が、変わった。
ガサッ。
すぐ近くで、草が揺れる音。
額に嫌な汗が流れた。
顔を上げる、その、視線の先。
――人影。
「いたぞ!」
低く、鋭い声が森に走る。
終わった。
そう、思った。
反射的に走ろうとするが、足が動かない。
恐怖で、身体が言うことをきかない。
周囲から音がする。
右。
左。
背後。
完全に囲まれている。
逃げ場が、ない。
ミラベルはその場にしゃがみ込み、咄嗟に草むらへと身を隠した。
意味がないと、分かっていても。
足音が近づく。
一歩。
また一歩。
確実に、距離が詰まる。
息を殺す。
指先が震える。
ここにいては、見つかる。
分かっているのに、どうすることもできない。
(いや……)
心の奥で、何かが叫ぶ。
(まだ……終わりたくない)
その瞬間、浮かんだのは――あの人の顔だった。
暖炉の前での、穏やかな横顔。
自分の手を取り、優しく布を巻いてくれた、あの時の温もり。
(……助けて)
声にはならない。
(マルクス――)
祈るように、心の中でその名を呼ぶ。
次の瞬間。
鋭い声が、森を切り裂いた。
「その手を引け!」
鋭い声が、森を切り裂いた。
「……マルクス!?」
信じられなかった。
振り向いた先にいたのは――間違いなく、彼だった。
「戻ってみれば、家はもぬけの殻だ」
低く吐き捨てるような声。
その視線はすでに男たちへと向けられている。
「おまけに置き手紙ときた。嫌な予感がしたが……当たりだな」
次の瞬間。
マルクスは迷いなく駆け出した。
一直線に、ミラベルのもとへ。
そのまま彼女を背に庇うように立ち、男たちと対峙する。
腰には、見慣れない長剣。
その佇まいは――もはや森で出会った“ただの青年”ではなかった。
空気が変わる。
静かで、重く、張り詰めた威圧。
ミラベルは息を呑んだ。
(……この人、本当に……)
「ごめんなさい……マルクス」
かすれた声で呟く。
「謝るな」
間髪入れず、返ってくる。
「俺の判断ミスだ。君を一人にするべきじゃなかった」
そして、男たちへと視線を向ける。
「――その娘には手を出させない。消えろ」
静かな声音。
だが、逆らえばどうなるかは明白だった。
男たちが顔を見合わせる。
その目には一瞬、躊躇の色が浮かんでいた。
だが数の優位を思い出したのか、すぐにせせら笑う。
「一人で何ができる!」
次の瞬間、飛びかかる。
――速い、だが。
それよりも、マルクスの方が速かった。
剣が閃く。
鋭い金属音が一度だけ響き、次の瞬間には男たちの剣が地面に突き刺さっていた。
マルクスは一歩も動いていないように見える。
ただ、翻った切っ先が男たちの喉元を正確に捉えていた。
――暴力ではなく、洗練された「武」。
その圧倒的な実力差に、森の空気が凍りついた。
男たちの動きが止まる。
理解してしまったのだ。
勝てない、と。
「去れ」
冷えた声が落ちる。
「命が惜しければな」
その一言で、十分だった。
男たちは舌打ちと罵声を残し、森の奥へと退いていく。
気配が消える。
森へ静寂が戻った。
その瞬間、全身の力が抜けた。
ミラベルは、その場に崩れ落ちる。
「ミラベル!」
すぐにマルクスが駆け寄り、支える。
「怪我はないか?」
その声は、いつもの彼に戻っていた。
それが余計に、胸を締めつける。
「……どうして」
震える声で、問いがこぼれる。
「どうして、そこまで……」
視線が揺れる。
「あなたに迷惑がかかるのに……どうして私を助けるの?」
一瞬の、沈黙。
マルクスはわずかに視線を逸らし、そして小さく息を吐いた。
「……さあな」
困ったように笑う。
「放っておけないんだ」
その言葉は、あまりにも自然で――だからこそ、嘘がなかった。
「君に何かあったらと思うと……落ち着かなくてな」
胸の奥が、熱くなる。
苦しくて、でも――どこか、嬉しかった。
けれど同時に、別の感情が芽生える。
(……この人は)
剣の腕、立ち振る舞い、あの威圧。
どう考えても、ただの森の住人ではない。
(マルクスは……何者なの?)
その答えに触れる日は、もう遠くない。
束の間の安息の裏で、森の空気は、もう元には戻らなかった。
つづく
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