第5話
第5話 静寂の異変
誰にも知られぬはずの場所に、わずかな“違和”が忍び寄る。
森は、いつもと変わらないはずだった。
――それなのに。
「本当に一人で大丈夫か?」
出発前、マルクスがそう言ったとき。
ほんの一瞬だけ、言葉に詰まった自分がいた。
「留守番くらいできるわ。家のことは任せてちょうだい」
笑ってそう答えたはずなのに、胸の奥に小さな棘のようなものが残っている。
そして、それは消えないまま、一日が過ぎようとしていた。
ミラベルは周囲を、訝しげに見回した。
朝から、何かがおかしい。
風は吹いている。
木々も揺れている。
けれど――音が、足りない。
鳥の声がしない。
小動物の気配もない。
いつもならどこかで聞こえるはずの“気配”が、すっぽりと抜け落ちている。
どうしてだ。
ハーブを摘む手が、自然と止まる。
何度もこの森を歩いた。
目を閉じても分かるほどに、慣れたはずの場所。
それなのに、今日はまるで“知らない森”のようだった。
夕方。
川辺でハーブについた泥を落としていたミラベルは、ふと手を止めた。
見られている。
理由は分からないし、音も、気配もない。
ただ、確かにそう感じた。
ゆっくりと振り返るが、そこは木々の間に、影が揺れているだけだった。
風に合わせて、葉が擦れる。
それだけ。
それだけのはずなのに。
(……今、誰か……)
言いかけて、言葉が消える。
そこには、何もいない。
――何も、いないはずなのに。
心臓の音だけが、やけに大きく響いた。
その夜。
ミラベルは、眠ることができなかった。
窓の外に広がる森は、闇に沈んでいる。
「静かすぎるわ」
普段なら聞こえるはずの虫の声すら、今夜は一つもない。
まるで、森そのものが息を潜めているようだった。
じっと外を見つめる。
何も見えない。何も動かない。
けれど――ミラベルは、首を巡らせた。
(……いる)
視線を逸らせない。
暗闇の向こうに、何かがいる。
こちらを見ている“何か”が。
気づいてはいけない、と本能が告げていた。
ミラベルは、ただ息を潜めた。
――翌朝。
まだ薄暗さの残る時間に、ミラベルは目を覚ました。
――音がする。
昨日の静けさとは違う、わずかに混じる“人の気配”。
息を潜めたまま、ゆっくりと身を起こす。
足音を立てないように床を踏み、窓のそばへと近づいた。
指先で、ほんの少しだけカーテンをずらす。
果たして、外には――
男たちがいた。
人数は多くない。
森の中を、一定の間隔を保ちながら歩いている。
その動きは、獲物を追う猟師のものではない。
探している。
確実に、何かを。
(そう……)
「……娘を……見つけろ……」
(……私を)
押し殺した声が、風に乗って届く。
断片的な言葉。
だが、それだけで十分だった。
ミラベルの背筋に、冷たいものが走る。
(……やっぱり)
視線を凝らす。
粗野な服装の腰にあるのは、似つかわしく無い剣。
森に生きる者ではない。
必然的に、獲物は獣ではなく。
人だ。
喉が、ひどく乾いた。
男たちは周囲を見渡しながら、少しずつ距離を詰めている。
無駄がなく、慣れた動きだ。
まるで、――逃げ場を潰す動き。
ミラベルはそっとカーテンを戻した。
「……私を、探しているのね」
呟きは、ほとんど音にならなかった。
浮かぶのは、ただ一人の名。
パルス伯。
あの男なら、これくらいのことはする。
いや――むしろ、当然のように。
(ここにいたら……)
思考が、一瞬で研ぎ澄まされる。
隠れる?――いいえ、だめ。
この家は目立つ。
囲まれたら終わり。
逃げる?森は広い。
だが、相手もそれを理解している。
なら――。
(今、動くしかない)
まだ完全に包囲されていない。
この瞬間だけが、唯一の隙。
ミラベルは静かに立ち上がった。
荷物は最小限でいい、音を立てないことが最優先だ。
必要なものだけを素早くまとめる。
指先が、わずかに震えていた。
ふと、ある顔が浮かんだ。
(――マルクス)
何気ない笑顔と、あの穏やかな声。
(……だめ)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
(ここにいたら、あの人まで……)
自分のせいで、巻き込んでしまう。
それだけは、絶対に避けなければならない。
「……行かないと」
小さく呟く。
それは恐怖からの逃走ではない。
――守るための選択だ。
ミラベルは、スカートの布をほんの少し破り取った。
植物を叩いた汁でインクを作ると、枝の先で文字を綴る。
――マルクスへ
今まで、ありがとう
ミラベルより
深緑色で書かれた“マルクス”の文字をそっと撫でて、テーブルに置く。
マントを羽織り、フードを深く被ると扉に手をかけた。
その先に待つものが何であれ、もう、立ち止まることはできなかった。
つづく
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