第4話
第4話 2人の距離感
「マルクスはこんな森の奥で、どうして一人で暮らしているの?」
川の水音が、静かに流れていた。
二人で魚の処理をしながら、ミラベルは疑問を口にする。
マルクスはなんでも出来る。
わざわざこんな場所で過ごさなくても、働き口ならいくらでもあるように思えた。
彼はナイフを持つ手を止めると、少し考えるように間を置いてから答えた。
「そうだな。ここは静かで、誰にも干渉されない。それが心地いいんだろう。……例えば王都のような場所とは違ってな」
その言葉に、ミラベルは不意に彼の素性に違和感を覚えた。
彼の平民らしからぬ言葉遣い。
ミラベルの胸に引っかかるには十分だった。
――それこそ貴族のような言葉遣い、振る舞い。
何より強い意志を秘めた琥珀色の瞳――。
森に隠れるただの庶民には見えない何かがあった。
「……王都にいたのね?」
ミラベルの問いに、マルクスは微かに笑みを浮かべた。
「そうだな。……気にするな、ただの昔話だ」
彼の曖昧な返答に、ミラベルは深く追及することをしなかった。
それでも、彼の背後に何かしらの秘密があることは感じ取れた。
マルクスのはぐらかすような態度に、胸の中がずっしりと重くなる。
(……どうして、話してくれないの)
マルクスとは距離が近くなったと感じていた。
自分だけがそう感じていたのかも、と思うと急に悲しくなるのだった。
ミラベルは視線を逸らすように、手元の作業へと意識を戻した。
「……そろそろ、この魚も処理しないとね」
少しだけ、声が硬い。
自分でも分かるほどに。
頭を振って、ナイフを手に取り、魚に刃を入れる。
だが――集中できない。
頭の片隅に、先ほどのやり取りが残っている。
(どうして……)
(どうして、隠すの……)
その一瞬の気の緩みが、指先を狂わせた。
「っ……!」
鋭い痛み。
指先に赤い線が走る。
次の瞬間、強く手首を掴まれた。
「何してる」
低い声。
だが先ほどまでとは違う、明確な緊張を含んでいた。
ミラベルは息を呑む。
気づけば、マルクスの手が自分の手をしっかりと包み込んでいた。
温かい。
そして――思っていたよりも、ずっと力強い。
節くれだった猟師の手だが、剣を握る者が作る特有の硬いタコがある。
(やっぱりこの人は……)
「……大したことないわ」
そう言おうとした声が、わずかに揺れる。
「動かすな」
短く言い切ると、マルクスは水で血を流し、手際よく布で押さえた。
その動きは慣れていて、迷いがない。
問題はその距離だ。
(近い――)
伏せられた睫毛に、真剣な表情。
ミラベルの鼓動が、急に早くなる。
(どうして……)
さっきまでのもやもやが、形を変える。
「……無理をするな」
ふと、マルクスが顔を上げた。
視線が、ぶつかる。
一瞬。
本当に一瞬だけ、時間が止まったように感じた。
言葉が出てこない。
近い。
近すぎる。
けれど――離れたくない、とも思った。
マルクスは何か言いかけて、しかしそれを飲み込むように視線を逸らした。
「……今日はもう休め」
その言葉は、少しだけ硬かった。
ミラベルは、そっと頷く。
けれど胸の奥には、先ほどとは違う熱が残っていた。
(……この気持ちは……)
まだ、分からない。
けれど確かに、
さっきよりも少しだけ――彼との距離が変わった気がした。
その夜。
暖炉の火が、静かに揺れていた。
薪がはぜる音だけが、部屋の中にやわらかく響く。
向かい合うように座る二人。
昼間の出来事のせいか、どこか落ち着かない空気が流れていた。
やがて、マルクスが口を開く。
「……ひとつ、聞いてもいいか」
低く、落ち着いた声。
「どうして、あんな場所にいた?」
ミラベルは、わずかに息を止めた。
その問いが来ることは、どこかで分かっていた。
けれど――。
視線を上げる。
マルクスの瞳は、まっすぐにこちらを見ていた。
問い詰めるでもなく、
ただ「待っている」目。
――逃げなくていい。
そう言われているようだった。
ミラベルは、ゆっくりと口を開く。
自分の家のこと。
没落。
そして、パルス伯への婚姻。
一つひとつ、言葉にする。
まるで、自分自身に言い聞かせるように。
話しているうちに、気づく。
これはただの説明ではない。
――自分の過去を、誰かに“渡している”のだと。
語り終えたとき、胸の奥にあった重いものが、少しだけ軽くなっていた。
「……それが、私の役割だと思っていたの」
小さく呟く。
「家のために、望まぬ結婚をすることが……当然だって」
指先が、わずかに震える。
「でも、今は……」
言葉が続かない。
何を思っているのか、何を望んでいるのか。
まだ、はっきりとは分からない。
ただ一つだけ、確かなこと。
――もう、あのままではいられない。
沈黙が落ちる。
その中で、マルクスはゆっくりと息を吐いた。
「……君は、十分すぎるほどやってきた」
静かな声。
だが、その奥には揺るがない強さがあった。
「家のために生きることを否定はしない」
視線が、まっすぐミラベルを射抜く。
「だが、それだけで人の価値が決まるわけじゃない」
少しだけ、言葉を選ぶように間を置いて。
「君は、自分で選んでいい」
その言葉は、優しくて――同時に、どこか重かった。
まるで、それがどれほど難しいことかを知っているように。
ミラベルの胸が、大きく揺れる。
そんな風に言われたことは、一度もなかった。
(……選ぶ、なんて)
自分にそんな権利があると、考えたこともなかった。
けれどその言葉は、確かに心に残った。
そして同時に、別の想いが浮かぶ。
(……あなたは?)
私はここまで語った。
自分のすべてを、とは言わないまでも。
だから――ほんの少しだけ、期待してしまう。
マルクスもまた、何かを話してくれるのではないかと。
だが、彼は何も言わなかった。
ただ爆ぜる火花を、まるで遠い異国の灯火でも眺めるような眼差しで見つめている。
その横顔は、手の届く距離にありながら、決して越えられない国境線の向こう側にあるように遠かった。
(……やっぱり)
胸の奥に、小さな痛みが走る。
信じたい。
でも――まだ、届かない。
ミラベルはそっと視線を落とした。
暖炉の火が、ぱちりと音を立てる。
その音がやけに大きく聞こえた。
静かな夜。
森の奥で、何かがわずかに揺れた。
それはまだ、気づけないほど小さい。
だが確かに――この穏やかな時間を壊すものだった。
つづく
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