第2話
第2話 森の青年
目を覚ましたとき、ミラベルは――すぐには“それ”が現実だと理解できなかった。
呼吸が、ある。
痛みが、ある。
けれどそれ以上に、自分がまだ“生きている”という感覚が、どこか遠かった。
ゆっくりと瞼を持ち上げる。
視界に映ったのは、見知らぬ天井だった。
木で組まれた梁。
煤けた跡。
人の手で丁寧に使われてきた、静かな生活の痕跡。
(……ここは……?)
鼻をくすぐるのは、湿った木の香りと、
火の温もりを含んだ煙の匂い。
そして――どこか懐かしい、優しい香り。
耳を澄ませば、小さく弾ける薪の音。
コトコトと何かが煮える、穏やかな音。
そこでようやく、ミラベルは気づく。
自分の身体に、毛布がかけられていることに。
――温かい。
その感覚は、あまりにも久しぶりで。
一瞬、胸が詰まった。
同時に、空腹が押し寄せる。
思い出したかのように、強く。
(……お腹、空いて……)
体を起こそうとした瞬間、全身に鈍い痛みが走った。
骨の奥に残るような重い痛み。
「……っ」
小さく息が漏れる。
「無理はするな」
低く、落ち着いた声だった。
その声は不思議とよく通り、耳にすっと入ってくる。
ミラベルはゆっくりと視線を向けた。
そこにいたのは、一人の青年だ。
黒髪に、琥珀色の瞳。
整った顔立ち。
だがそれ以上に――。
その眼差しには、ただの村人にはない“静かな強さ”が宿っていた。
身に纏うのは質素な衣服。
だが、その立ち姿には無駄がなく、
どこか鍛えられた気配を感じさせる。
(……この人……)
ぼんやりとした意識の中で、ミラベルはわずかに違和感を覚えた。
だが、それを言葉にする前に――。
「ここはヒースの森。君は近くの川辺に倒れていた……覚えているか?たまたま通りかかったんだ」
青年は静かに言葉を続けた。
「医者に診せた。衰弱はしていたが、命に別状はない」
淡々とした口調。
だが、その言葉の端々には、確かな配慮が滲んでいる。
「もう、安心していい」
そう言って、彼は一歩近づいた。
手には木の椀。
そこから立ち上る湯気と、優しい匂い。
「飲めるか?」
差し出されたスープ。
その温かさが、目に見えるようだった。
ミラベルの喉が、小さく鳴る。
それを隠すこともできずに。
「……ありがとう」
ミラベルはかすれるような声で礼を述べた。
震える手で椀を受け取る。
湯気が頬に触れ、その温もりにわずかに目を細めた。
そっと口をつける。
優しい味だった。
刺激もなく、けれど確かに体に染みていく。
冷え切っていた内側に、じわりと熱が広がる。
(……生きてる……)
「美味しい……」
自然と口から零れた。
喉を通る熱が、死を待つだけだった空っぽの身体を満たしていく。
冷たいだけだった指先が、今は温かい木の椀を握りしめている。
(ああ、私、本当に終わらなかったのね……)
じわりと視界が熱くなり、目を伏せた。
気づけば、指先に確かな力が戻っていた。
「助けて頂いて……ありがとうございます」
改めて言葉にすると、その一言にすべてが込められているようだった。
青年はその言葉を聞いて、わずかに息を抜いた。
張り詰めていたものがほどけたように、表情が柔らぐ。
「味はどうだ?」
少しだけ、気軽な口調になる。
「飲めそうなら、もう少しいけるだろ」
そう言って、空になりかけた椀を軽く指差した。
ミラベルが返事をするより先に、彼は立ち上がる。
すぐに戻ってきた椀には、
さっきよりも具が多く入っていた。
「ほら。今度は少し多めだ」
差し出し方が、どこか不器用で。
けれどその気遣いが、はっきりと伝わってくる。
「ありがとうございます……本当に」
ミラベルは小さく微笑んだ。
「実は、とても、お腹が空いていたんです」
その言葉に、青年の口元がふっと緩む。
「喜んで貰えて良かった。あと、そんなに畏まるな」
軽く肩をすくめる。
「君は、貴族だろう?やけに豪奢な服を着ていたからな。ここは貴族様の屋敷でも何でもない。……ただの森の中だ」
柔らかな声音。
どこか距離を詰めすぎない優しさ。
その空気に触れて、ミラベルの緊張がわずかに解けた。
――その時。
ふと、自分の服が変わっていることに気づく。
視線が揺れ、頬が熱を帯びる。
青年はその変化にすぐ気づいた。
わずかに目を逸らし、早口で言う。
「ああ、すまない。勝手に着替えさせた」
「もちろん顔は伏せさせてもらった。……その、できるだけ見ないようにはした」
言葉の端が少し乱れる。
その様子に、ミラベルは思わず目を瞬いた。
(この人……)
少しだけ、おかしくて。
少しだけ、安心する。
「大丈夫です」
ミラベルは小さく首を振った。
「……あの服は、もう必要ありませんから」
そう言って、少し考える。
「そうね……雑巾にでもしてしまいましょうか」
一瞬の沈黙。
そして――。
青年は吹き出した。
「……はは、なるほど」
「面白いな、君は」
その笑い方は、作ったものではなかった。
心からのものだった。
「……ところで」
笑みを残したまま、彼が問いかける。
「名前を聞いてもいいか?」
ミラベルは一瞬、言葉を失った。
――名乗るべきか。
今の自分は、誰なのか。
どこへ向かうはずだったのか。
ほんのわずかな逡巡。
だが、目の前の青年の瞳には、疑いも打算もなかった。
ただ、まっすぐに待っている。
だから――。
「……ミラベル」
静かに、名を告げる。
「ミラベル・ウィルスナー」
その名を聞いた瞬間、青年の目がわずかに細められた。
ほんの一瞬だけ。
だが、それは確かに“何かを知っている反応”だった。
「ミラベル、か」
すぐに穏やかな表情へと戻る。
「いい名前だ」
そして、軽く胸に手を当てる。
「俺はマルクス」
「この森で暮らしている。ただの猟師だ」
――その言葉が、わずかに嘘であることを、今のミラベルはまだ知らない。
「粗末な場所だが……回復するまでは好きに使うといい」
ミラベルは思わず体を起こそうとした。
だが力が入らず、再びベッドに戻る。
「……ごめんなさい」
苦笑が漏れる。
「どうやら、しばらくはお世話になるしかなさそうね」
その言葉に、マルクスは小さく笑った。
視線が合う。
ほんの一瞬。
だが確かに、互いに笑みがこぼれる。
それは、とても静かで――とても穏やかな時間だった。
こんな感覚は、いつ以来だろう。
ミラベルの胸に、かすかな予感が灯る。
(……ここから、何かが変わるかもしれない)
その予感はまだ小さく、頼りない。
けれど確かに――彼女の中で、何かが動き始めていた。
つづく
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