第1話
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第1話 鉄格子の馬車
鉄格子のついた馬車が、大きく揺れた。
その中に、一人の少女が座っている。
これから彼女が嫁ぐ先は、幸福な結婚ではない。
――身売り同然の婚約だった。
激しい雨の中を進む。
雨は、まるで天が怒りを叩きつけるかのように、容赦なく地を打っていた。
雨粒が馬車の屋根を打ち、乾いたはずの木材が重く湿った音を響かせた。
灰色に沈んだ空。
遠くで唸る雷鳴。
そのすべてを引き裂くように、一台の古びた馬車が峠道を進んでいた。
車輪はぬかるみに深く沈み、引きずるような音を立てる。
まるで進むことそのものを拒まれているかのように。
少女はぼんやりと、鉄格子の付いた窓を見る。
灰青の瞳。
雨に濡れた空を映したような色。
腰まで届く金の髪は丁寧に整えられているが、その美しさに生気はない。
彼女の名はミラベル・ウィルスナー。
その身に纏うのは、隣国ヒースの花嫁衣装。
柔らかなシルクに金糸が織り込まれ、光を受ければ本来は祝福のように輝くはずのもの。
だが今は、ただ重い。
濡れた空気を吸い、じっとりとした冷えが身体にまとわりつく。
かつては誇り高き辺境伯令嬢。
だが今は違う。
これは縁談ではない、取引だ。
家の存続と引き換えに差し出された“代価”。
嫁ぎ先はヒース国の辺境を治めるパルス伯。
五十九歳。
そしてミラベルは十九。
四十年という隔たりは、もはや夫婦ではなく、ただの「所有」と「従属」に近かった。
しかも立場は正妻ではない。
五人目の側室。
――選ぶ余地など、最初からなかった。
馬車に嵌められた鉄格子は、まるで鳥籠の網だ。
外へ逃げ出さないためのものか、それとも中のものを閉じ込めるためのものか。
どちらでもいい。
ミラベルは静かに思う。
(同じことだもの)
指先で、そっと格子に触れる。
ひやりとした冷たさが、骨の奥まで沁みた。
それはまるで、これから先の人生そのもののようだった。
外には荒れ狂う雨。
中には逃げ場のない静寂。
その狭間で、ミラベルはただ座っている。
泣くことも、怒ることも、もうない。
すべてを諦めたわけではない。
――諦めることすら、もう終えてしまったのだ。
「これが……私の最後の旅、かしら」
呟きは、ほとんど息に溶けて消えた。
誰にも届かない。
御者は外で必死に手綱を握っているのだろうが、その気配すら、もはや遠い。
この馬車の中は、世界から切り離された檻のようだった。
やがて峠の頂へ差し掛かる。
その瞬間だった。
地鳴りのような低い震えが、馬車の床から足の裏に伝わってきた。
ぐらり、と、不自然な揺れ。
次いで、馬の悲鳴のような嘶き。
御者の声が鋭く張り上がる。
「地滑りだ!!」
その言葉を理解するよりも早く、
地面が崩れた。
支えていたはずの大地が、音を立てて消える。
馬車は横転し、そのまま土砂と共に谷へと滑り落ちる。
ミラベルは咄嗟に身を丸めた。
だが次の瞬間、身体は容赦なく壁へと叩きつけられる。
肺から空気が押し出され、声にならない呻きが漏れた。
何度も、何度も。
衝撃が繰り返されるたびに、どこが痛いのかすら分からなくなる。
視界が揺れ、上下も分からない。
ただ――落ちている。
――砕ける音。
次の瞬間、すべてが弾けた。
馬車が壊れ、世界が開ける。
冷たい雨と土砂が一斉に襲いかかり、ミラベルの身体は宙へと投げ出された。
そして――待っていたのは、濁流。
息ができない。
喉の奥まで水がせり上がる。
咳き込む暇もない。
上下の感覚は消失し、ただ濁流に翻弄される。
木片、土、石――無数の凶器が容赦なく肌を叩き、意識を削っていく。
(いや……)
必死に手を伸ばす。
何か、掴めるものを。
指先が、何かに触れた。
流木だ。
それに縋るようにしがみつく。
だが腕に力が入らない。
指が、少しずつほどけていく。
痛い。
冷たい。
暗い。
もう、いい――そう思いかけた、その時。
「……嫌」
かすれた声が、水の中に溶けた。
「……いや……」
違う。
違う。
こんな終わり方は――。
「こんなところで、終わりたくない……!」
それは初めての“抵抗”だった。
家のために差し出され、
何も選べず、何も望まなかった彼女が、
初めて、自分の意思で願った。
――生きたい。
その瞬間だった。
流れが、変わった。
激流の中で、ほんの僅かに。
だが確かに、水の流れが緩む。
まるで、誰かが導くように。
あるいは――“迎え入れる”ように。
ミラベルの身体は、流木と共にゆっくりと岸へと寄せられていく。
抗うこともできず、
ただ流されるままに。
やがて、浅瀬へ、身体が地面に触れた。
冷たい泥と石の感触。
水が引き、呼吸が戻る。
だがもう、力は残っていなかった。
そのまま、意識が闇に沈もうとした――その時。
強い力で、肩を掴まれた。
「無事か! しっかりしろ!」
声だ。
低く、はっきりとした声。
遠くからではなく、すぐ傍で響く。
重たい瞼を、わずかに開く。
ぼやけた視界の中、ひとりの青年の顔があった。
雨に濡れた髪。
真剣な眼差し。
その奥に、確かな意志と――優しさが宿っている。
(……誰……?)
問いかけることもできない。
ただ、その存在だけがはっきりと残る。
「大丈夫だ。もう、安心しろ」
不思議な声だった。
なぜか、その言葉を疑えなかった。
そして、最後に――
「俺が守る」
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた何かが、ふっとほどけた。
ミラベルの意識は、静かに闇へと沈んでいく。
――だがそれは、終わりではない。
これは、彼女の運命が動き出す“始まり”だった。
つづく
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