3、神官長ルヴィス
ルヴィスは、朝の祈りを終えたばかりだった。
厚手の法衣に身を包み、黄金の装飾が施された椅子に腰を下ろす。
高価な香の匂いに満ちた神官長室は、彼にとって最も心が安らぐ場所だった。
「……しかし、困ったことになったな」
机に並ぶ報告書を見下ろし、眉をひそめる。
昨夜、国中に響いた聖女の声。
託宣を下す、などという前代未聞の宣言。
そして、脳裏に流された第一王子の醜態。
(いつから、神と同等だと思い上がったのか……)
聖女は神殿の管理下にある存在だ。
神に近い力を持つからこそ、俗世から切り離し、余計な知恵を与えてはならない。
「……しっかり、躾けてきたはずなのだが」
口に出した言葉は、ため息に近い。
神殿では聖女アリアを「道具」だと認識していた。
カイル殿下の言葉は間違ってはいない。国を、世界を、回すために便利な道具なのだ。
強大な力を持つが、本人に意思を持たせてはならない。何に力を振るうかは、こちらで全てを決める。
だから服従を教え込み、余計な自我を削り、疑問を抱かぬように育てた。
「意思がなければ、感情も欲望も生まれぬ。生涯、無垢なる精神で生きることが、世界にとっても聖女にとっても最善なのだがな……」
ルヴィスは本気でそれが世界のためになると思っていた。
「神官長様」
側近の高位神官が恐る恐る声をかける。
「早朝から、神殿の外に信者たちが集まってきております。おそらくは聖女様のことについて話が聞きたいのかと……」
「放っておけ」
ルヴィスは即答した。
「聖女にとって、婚約者のカイル殿下は唯一の身近にいた者。裏切られたことをどこで知ったのか知らぬが、少々暴走しただけ、いずれ収まる」
彼は椅子にもたれ、隣国から取り寄せた高級な果実を口に運ぶ。
「……重要なのは世界の秩序だ。安寧を保つためなら、多少の犠牲はやむを得んと考えずともわかるものだが、信者はひたむきなだけに愚かでもあるからな……」
(聖女一人の人生など、その“多少”にも入らぬのに、あのような扱われ方はかわいそう、などと思う馬鹿も多かろうな)
そのときだった。
『おはようございます』
再び、声が響いた。
『神の御使いを務めさせていただいております、聖女のアリアです』
ルヴィスの眉が、ぴくりと苛ただしげに動く。
聖女は昨夜から自分の部屋にこもり、神殿騎士が扉を破ろうとしても駄目だったと聞いた。力を使って閉じこもっているのなら、この声を止めさせる手段はないだろう。
『瘴気は負の感情や欲望から生まれます』
聞き慣れた教義。
『ですが、その教えを語る者が、守っていない場合はどうでしょう』
一瞬、空気が変わった。
「……何を、言い出すつもりだ」
ルヴィスは長年、神の名を盾に権力を振るい、世界に安寧をもたらさんと尽くしてきた男だ。
聖女の力がどれだけ強かろうと、権威を握るのは自分だと信じている。
だが。
その次の瞬間、視界が反転する。
豪奢な食卓の宴。
笑う神官たち。
――そして、自分。
「ははは、今回の聖女は実に使い勝手がよいな」
骨付き肉の肉汁をしゃぶりながら、自分の笑い声が響く。
「平民出身で、贅沢を知らないのがいいのかもしれません。疑問も不満も持たせぬよう、神官長様が育てたおかげですな」
「確かに。百五十年前の聖女は貴族出身だったせいか、我が侭がひどく、当時の神官長がそれはもう苦労された記録が残っておりますしね」
側にいる神官たちがワインを注がれたゴブレットを片手に、追従するように笑う。
「うむ。引き取ってすぐに躾けたおかげだ。犬と同じだな。餌を与え、命令すれば働くよう、何度も何度も教え込む」
そう言いながら、まだ肉片の残る骨を犬に投げるかのように床に放った。
映像を見るルヴィスの喉が、ひくりと鳴った。
「王家や貴族どもからの献金もそろそろ莫大な額になっておりましょう。神官長様の名で芸術の粋を極めた、荘厳で、きらびやかな大神殿を建ててはどうでしょう? 神聖歴に名を残すことになるかもしれませんぞ」
「それはよいな。なんなら私の像も女神像の横に設置するか? この世に、安寧と秩序をもたらした者として」
「違う……!」
思わず、声が漏れた。
「酔っていたせいだ! 私はそのようなことを思ってはいない! 誰だって酒に酔えば、このように心にもない大言壮語を吐くだろう?!」
だが、誰にもその言い訳は届かない。
映像は続く。
聖女への人格を損ねるような指示。
神殿内で行われる聖女への虐待と過酷な労働。
貴族からの賄賂の受け渡し。
自分たちだけが最高級の食事を取る光景と比較するように、聖女の貧しい食事風景。
すべてが、整理され、淡々と。
『以上が、一例です』
聖女の声は、相変わらず感情がない。
『神の教えに反する行為は瘴気を生みます。神の名のもとで行われているのなら余計に』
ぷつり、と映像が消えた。
神官長室は、死んだように静まり返る。
「……馬鹿な」
ルヴィスは、震える手で机に縋った。
「 聖女め、悪い一面だけを殊更に抜き出して、私を断罪する気か……。私は神のために……世界のために、尽くして……」
そのとき、窓の外から地鳴りのような音が響いた。
怒号。
叫び声。
石を叩く音。
「神官長様!」
側近が青ざめて叫ぶ。
「扉を破られ……信者たちが神殿に……!」
ルヴィスは悟った。
自分が掲げてきた「信仰」という名の秩序が、民衆の怒りという形で牙を剥いたことを。
(馬鹿どもが……実際に私のおかげでこの国はうまく回っていただろう……)
『欲望を抱くことは醜い』
聖女の声が、頭の奥で反響する。
「……神よ」
誰に向けた祈りだったのか、自分でもわからないまま。
神官長ルヴィスは、流れ込んできた暴徒たちの中心で、初めて裁かれる側として膝をついた。




