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至高の瞬間

作者: 野狐





 辺りをうかがいながら男はなるべく人の少ない場所を選び、端から二つ目のテーブルの席に座った。そして両手で持ったプレートを静かに、音を鳴らさないように机へ置いた。高まる気持ちを抑え、激しく脈打つ心臓の鼓動も、今の男にとっては清々しいものにさえ思える。カバンを隣の席に置き、姿勢を正して目の前の見ると、そこには神々しいばかりの光を放つ創造物が男の目を逸らせさせないのだ。

 ここは大学の食堂。男はこの大学に通う四年生で、彼は昼食を食べに来たところだった。男は袖を素早くめくると、腕時計にちらりと視線を飛ばした。今は昼の十三時三十一分丁度を回ったところだ。それから男は顔を上げて広い食堂の中を見渡した。ずっと向こうのテーブルにガラの悪そうな男たちが四人で集まっていて、なにやら雑談をしている。男たちはもうすでに食べ終わっているらしく机の上には空の食器が並んでいるようだ。他には食事をしているさも大人しそうな二人。彼らの間には会話はない。さらに黒い長髪を後ろで一くくりにして、うどんをすすっている男がいる。どこまで伸びているのか?と思うほどに長い黒髪は、ワカメのようにうねって、男がうどんをすすり、面長の顔を持ち上げるたびにざわざわと上下した。

 あれは仙人だ。確か俺よりも六つも上だったな・・・ずっとこの大学に居続ける男。いつの頃からついたあだ名が仙人。

 他にも女だけのグループやカップルなどいくつかのグループがあったが、それでも広い食堂の中ではまばらだった。だがこれを男は知っていたのだ。今は午後の授業が始まっており、昼は混み合う食堂もこの時間は空いていて、この時間ならば落ち着いて満足するまで食事を取れる。男はその企みが見事に的中したと言わんばかりににやついて、一息ついてから再び机に正対した。

 彼の前には定食が一式並んでいる。しかしこれは普通の定食ではない。全ての生徒を魅了して止まないこれは「デラックスミックスフライ定食」五百六十円。この食堂でもっとも高価な定食なのだ。多くの生徒が普段口にするのが「日替わり定食」三百六十円か「から揚げ定食」四百二十円であることを考えるのであれば、貧乏な大学生諸氏においてはこれがどれだけ高級であり、神聖なものであるのかが分かる。彼はそれについに手を出してしまった。

 メインプレートに乗っているのは四種類のフライ。キャベツの千切りを枕にして(もちろんしっかりと水を切っているからべたつかない)大きなエビフライ、白身魚のフライ、メンチカツ、そしてから揚げが二つ、何と豪華だ!さらには手作りのポテトサラダまで乗っている。マカロニサラダではなくてポテトサラダ!これがいいのだ!その他小鉢のほうれん草の胡麻和え、大盛りの白御飯、赤だしの味噌汁がメインを引き立てている。あぁ、何と素晴らしい。

 男は笑い出したいのを我慢して、「デラックスミックスフライ定食」を見やり、それから厨房をちらりと見て、おばちゃんたちに心の中で小さく感謝をした。そしてイタチのような眼差しで周りを睨みつけ、誰も自分を見ていないと確認すると、素早く携帯電話を取り出して、カメラで一枚写真を撮った。

 最高の一枚だ・・・待ち受けにしよう。

 男は割り箸を割って、だが使わずに御飯茶碗の端に置いた。

 まだ焦ることはない。忘れているぞ、大切なものを。お茶だ。お茶が絶対に必要だ。

 男は立ち上がって食堂では無料のお茶を汲みに行った。しかも両手に二杯。再び汲みに行かなければ行けないというリスクを避けるためだ。男は「よしっ」とうなづいて席に戻った。しかし男が席に戻って見たものは、驚愕の光景だった。

 男の机の隣にいつの間にか女性グループが陣をとっていたのだ。しかもすでに盛り上がり始めている。男は驚いて立ち止まった。

 何ということだ。これでは落ち着いて食事なんて出来やしない。しかも陣取るこの速さ。奴らめ、かなり手馴れてやがるぞ。これでは・・・だが、ふふふっ、これは予想していた展開よ。こんなこともあろうかと端から二つ目を選んでおいたのだ。隣が取られても移動が出来る。退路を、いや違う、逃げではない。先の一手を考え、予備に出来る陣を取っておくことこそ戦の心得よ。

 男は何も言わずに席に戻ると、定食ごと持ち上げて隣の席に移動した。女性グループがこちらを怪訝な目で見ている。しかし男は気にもせずに顎をつんと持ち上げ、半ば勝ち誇った表情で隣へ座った。

 さぁ食事だ。どれからいこうか・・・いや、落ち着け。まずは御飯と味噌汁。ここからだ。口を慣らしておかなければ。

 男は御飯と、続いて味噌汁を口に運んだ。

 上手い・・・あぁ、他の定食についているのと同じはずなのに、どういう訳か格段に上手い。これが「デラックスミックスフライ定食」がデラックスたる所以なのか。よい将の下では凡兵さえも精鋭と化す、そう言うが、まさにこれだな。続いては・・・ポテトサラダだな。これがまた上手いに違いない。

 無意識の内に口角が持ち上がり、にやけてしまっている男はポテトサラダを視線の高さに持ち上げると、納得したかのように一度うなずいて、目元をほころばせたままで口の中へ入れた。しかし男の下あごが一つ、二つと上下するのに合わせて、どういうわけか男の表情からは笑みは消え失せていった。その顔はまさに希望を失ったかのような、情けなく、哀しく、そして惨めなものに変わっていく。

 何だと、このポテトサラダ、まさか玉ねぎを入れていないのか・・・玉ねぎこそがポテトサラダの甘みであり食感であり、いわば陰の主役とも言うべきものなのに、それなのに入っていないなんて、認めるものか!俺は認めないぞ、絶対に認め・・・こ、これは?

 男は目を見開いた。

 口の中の中のものを全て飲み込み、新たな一口を口に入れる。

 間違いない、これはキャベツだ!キャベツを入れているんだ!なるほど、これが玉ねぎの代わりというのだな。しかし、これは、おぉ、悪くないぞ!玉ねぎとはまた違った適度な甘み、主張しすぎない歯ごたえ!キャベツ!悪くはないぞ!

 残ったポテトサラダを男は嬉しそうにほおばった。時おり舌先でキャベツを探りながら、見つけては味わうようにして噛み締めた。

 さぁ残るは定食の主役、ミックスフライたちだ。男の目が素早くプレートの上を走る。カラッと上がったサクサクの衣たちが煌き、男を誘惑せんと香りを立ち上らせるのを、目で鼻で感じながら、男は喉を鳴らしてしげしげと見つめた。

 どれからいこうか、やはりエビフライ。いや白身フライから・・・はっ、待てよ・・・これは本当に白身フライ?

 男は唾液を飲み込んだ。背筋に冷たいものが一筋、音もなく走りすぎていくのが分かる。男は恐ろしくなって振り返った。だがそこにはさっきの女性グループがいるばかりだ。男は体の向きを戻し、白身フライに割り箸の先を当てがると、再び息を呑み、意を決してフライを真っ二つに裂いた。

 やはり!

 男は驚愕の視線をその切り口へ向ける。

 やはりそうだったか。騙されるところだった。まさかこんなところに罠があるとは思いもよらなかった。何という策士だ。白身フライだと思わせておいて、このサーフボード型はコーンクリームコロッケだったのか!危なかった・・・本当に。今回は騙されなかったが、少しの油断が敗北を招く。えぇい、意識を高めろ!ここは戦場だと思え!納得が大事なのだ。思い込みが一番恐ろしいのだぞ!決まったことなどこの世にはない!今目の前のことを信じるんだ・・・そう、全ての事柄は常に流転しているのだから。

 容赦のない割り箸はフライたちを次々と裂いていった。そして中身を露にするフライたち。切れ端からは彼らの魂が天に昇るかのごとく、薄っすらと白い湯気が立ち上り、同時に男の鼻を刺激する。男はきつく口を結び、テーブルに備え付けられたソース挿しを手に、流れるようにフライ全体へソースをかけた。

 男は涙を流しそうになった。恐ろしく長い時間が経ったような気がする。どんな小さなことであっても、自分の思い通りに物事を成すということがこれほどまでに難しく、重要であったなどと今までに考えたことがあっただろうか?これまでの自分がひどく小さなものに思えて目頭が熱くなり、目を閉じてそこに映る達成感と充実感は、自分が一つ成長したのだと気づかせてくれる。

 これこそ至高の瞬間だ。

 目を開いた男は真剣な面持ちでメンチカツを持ち上げ、感慨深く眺めてはっきりと実感する。

 これで終わるのだ。これで戦いが終わる・・・

 男はそっと口に入れた・・・

 ・・・

 ・・・・・・

 ・・・・・・・・・

 しょ、醤油だったぁ!







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