第6話 ライフオアデス(Life or Death)
第一章、これがラストです!
アルムが“生きる”ことを選び、
そして出会ってしまう――これからを大きく変える“誰か”と。
小さな声が、小さな命を呼びました
「――アルム!!」
外から、裂けるようなミアの悲鳴が響いた。
その瞬間、ノンナの顔がぴたりと固まる。
「ッ……失礼いたします」
小さく呟くと、彼女はすぐに踵を返し、長衣の裾をひるがえして玄関へと駆けていった。
扉の開閉音とともに、冷たい空気が流れ込む。
そのころ、アルムは静かな室内の窓辺に座っていた。
「……?」
視線を外に向けると、そこには見たこともない風景があった。
森の奥から現れたのは、緋の装束に身を包んだ一団――カリュディアの近衛部隊だった。
木々の間から現れたその姿は、まるで静寂そのものが形を持ったように、冷たく鋭かった。
彼らの前に立つのは、若くも威厳ある女将。
長い銀髪に、翡翠色の瞳。美しく、そして冷たい。
「……?」
(なんか……ひとがいっぱい?)
その中でも、特に目を引いたのは――長い耳、艶のある髪、やわらかな衣の色。
彼らは武器を持っていたが、それよりも、アルムの目には「装飾」が先に映った。
(……え、かわいい)
目をぱちくりさせて、窓に額をくっつける。
(ちっちゃ……エルフって、もっと大きいのかと思ってた)
戦場の緊張など、彼女には届いていない。
ただ――初めて見る「別の生きもの」に、興味津々だった。
(この髪、シルクみたい……服、ひらひらしてる……)
外では、クロロが馬車の前に立ち、剣に手をかけたままミアの前に立ちはだかっている。
ミアは今にも倒れそうなほど青ざめ、震える手でクロロの袖を握っていた。
だが、窓越しのアルムにとっては――それすら“遠くの景色”。
彼女は、ただ思った。
(……なんか、おひめさま、みたいだね)
扉の外では剣と魔法が交差する直前の緊張が張りつめていた。
――そして、ノンナがその異変の真ん中へ踏み込んだ瞬間から、
静かな嵐が動き始めるのだった。
中心――緋衣の女将が、杖を掲げ、凛とした声を放つ。
「†エル=ティア・ナ=レイザ・フィンガル?」
意味はわからない。
その響きは、まるで旋律のように美しく、そして刃のように鋭かった。
(……これ、ただの“言葉”ではない!!)
クロロが感じたのは、威圧でも咆哮でもない。
“問う者の意志”そのものだった。
ギィ……。
屋敷の扉が重たく開いた。
「やめなさい」
白いローブを揺らしながら、ノンナ・オルタナクトが姿を現した。
その瞬間、エルフたちの間に目に見えない衝撃が走る。
一人、緋衣の将だけが、冷ややかな笑みを浮かべた。
「ノンナ・オルタナクト。今は“賢者”と呼ばれているそうですね」
(※以下、会話はすべてエルフ語によるやり取りです)
ノンナは答えた。
「呼ばれようが呼ばれまいが、私は私です。名など風と同じ。流れても、変わらぬものがある」
将は杖を軽く回す。
「では、答えていただきましょう。
この地で発生した“魔”――あれを放ったのは、貴女たち人間で間違いありませんか?」
ノンナの目が静かに揺れた。
「放った者は、分かりません。
……ただ、私には“魔力の揺らぎ”さえ、感じられませんでした」
将の眉がぴくりと動く。
「それは――あなたほどの魔導の才をもってして?」
「だからこそです。滑らかすぎて、波すら立たなかった。
……あなた方も、同じではありませんか?」
一拍の沈黙。
将が後ろの兵に目をやる。何人かが無言でうなずいた。
「……感じなかった。あの現象に、前兆はなかった。
ただ、“結果”だけが、世界に突き刺さっていた」
ノンナは頷く。
「それこそが、この事象の“異常性”です。
“理”に触れず、“力”が現れるなど、常ではありません」
将の目が鋭くなる。
「……ならば、こう結論づけましょう。
――この力の存在は、“祝福”ではなく、“災厄”である」
ノンナはそれに何も返さなかった。
代わりに将が静かに言葉を継ぐ。
「白鯨戦争。
我らが敗北した理由は明白です。あなたが、そこに“いた”からだ」
ノンナの目が、わずかに細められる。
「……あの戦は、もう終わったことです」
将は笑わなかった。ただ、事務的に言い放つ。
「ええ。終わりました。だからこそ、今のあなたが怖い」
そして、最後に――彼女は一歩前に出て告げた。
「そこにいる人間たちは、すでに“異常”を見ました。
目撃者がいれば、混乱が生まれるだけです。
従者もろとも――ここで、殺させていただきます」
その言葉と同時に、矢が構えられた。
風が、止まる。
ノンナは静かに、しかし確かに杖を握り直した。
「……やはり。
理を尊ぶ種族が、理を破るときは――一際、美しいものですね」
その声音は、まるで遠い昔の戦場を思い出すようだった。
だが屋敷の中――窓の奥では、
アルムが窓ガラスに顔をぺたんとくっつけて、口をとがらせていた。
(……うーん、たぶんもうすぐケンカになる気がする……)
無垢な思考だけが、張り詰めた空気の向こうで、ぽつんと響いていた。
ノンナの言葉が空に消えるより早く、
その“瞬間”は、何の前触れもなく訪れた。
誰も動かない。
誰も声を上げない。
最初に倒れたのは、馬の御者だった。
目を見開いたまま、音もなく崩れる。
そのすぐあと――クロロが膝をつく。ミアが叫ぼうとして、声を出す前に気を失う。
矢を構えていたエルフの兵士たちも、ひとり、またひとりと静かに地に倒れていった。
命の気配が、まるで一斉に“削り取られた”ように、周囲から消える。
音はない。
風もない。
ただ、沈黙だけが世界を支配した。
ノンナの身体が、ぐらりと揺れる。
「……これ……は……」
彼女の瞳が、初めて“恐怖”を映した。
(デス魔法……?)
いいえ、そんな言葉では言い表せない。
これは、《死》そのものだ。
詠唱も、魔力の揺らぎも、兆候もなかった。
ただ世界が、“この場にいる者”を殺すように命じられたかのような――
そんな“異常”だった。
ノンナは必死に防御障壁を張り直す。
常に張っている五層の結界。
その全てが、一瞬で焼き切られた。
(……まずい、まずい……)
立っているのがやっとだった。
「……誰……が……っ……!」
そのまま、膝をつく。
意識が、ぐらぐらと揺れる。
視界の端では、地に伏したクロロの手が、かすかに痙攣していた。
もはや、生きているのかも分からない。
そして――
ノンナの意識が落ちる、その直前。
たったひとつだけ、最後に見えたものがあった。
屋敷の窓。
そこに、まだ小さな手が貼りついている。
「……あ……」
ただ、こう思った。
(……アルム……逃げなさい……)
そして――彼女の意識は、闇の底へと沈んだ。
世界が、一瞬だけ完全に沈黙した。
誰も動かない。
誰も息をしていない。
だが――たった一人、屋敷の中から、その光景を見下ろしていた者だけがいた。
その少女の目が、かすかに見開かれる。
その手のひらが、すうっと温かくなっていく。
まるで、何かに反応するように。
風が、戻る。
けれど、それはもう“いつもの風”ではなかった。
これは――
嵐の、始まりだった。
アルムは窓辺に座り、外を眺めていた。
倒れた大人たち、ノンナも、ミアも、クロロも、兵士たちも――動かない。
倒れている、ということは分かっていた。
けれど、それが“なぜ”なのかを考える必要はなかった。
ただ、事実として、そこに“動かない人たち”がいた。
アルムは椅子から降りると、扉のほうへ歩いていった。
森の匂いも、空の色も、屋敷の石の質感も、すべてが知らないものだった。
それでも、怖さはなかった。
扉を開け、足を一歩踏み出す。
外の空気は、少し冷たかった。
アルムはミアのそばにしゃがみこむ。
目を閉じて動かないその顔は、どこか眠っているようだった。
次にクロロのもとへ向かう。
いつもより静かで、呼吸もなかった。
立ち尽くしたまま、アルムは考える。
みんな、動かない。
誰も、目を覚まさない。
ならば――少し、歩いてみてもいいのかもしれない。
見上げた空は、少しずつ茜色から紫へと変わっていた。
森の奥には、行ったことがない。
この土地も、この道も知らない。
けれど、今なら――誰も止める者はいなかった。
面倒だな、と一瞬だけ思う。
けれど、それだけで足を止めるほど、自分はまだ“止まる理由”を持っていなかった。
だから、一歩を踏み出した。
無言で。無表情で。
ただ、静かに。
倒れた者たちの隙間をすり抜けて、アルムは森の中へと歩いていく。
まるで、何かを“確かめに行く”かのように。
あるいは、“何かに呼ばれている”かのように。
その背中は、小さくて、静かだった。
けれど――
確かに、その一歩が“物語の起点”になっていたことを、
このときはまだ、誰も知らなかった。
ノンナは、微かに冷たい風を感じて、意識を取り戻した。
まぶたを開くと、淡く色づいた空が見えた。
木々の間から差し込む光は、ほんのりと朝の気配を含んでいた。
(……私は、いつ……)
体を起こそうとすると、全身に鉛のような重さがのしかかる。
身体中の魔力回路が焼かれたような感覚。
結界はすべて剥がれ落ち、防御魔法は“存在そのもの”を消し去られたようだった。
デス魔法。
けれど、それは“既知のそれ”ではなかった。
もっと深く、もっと静かで――「死」が空気のように降ってくる、そんな魔法だった。
ノンナはゆっくりと辺りを見回した。
その場に、声はなかった。
気配もなかった。
そして、――生きている者もいなかった。
馬車の御者、エルフの兵たち、緋衣の将。
クロロ、ミア。すべてが、動かなくなっていた。
倒れたまま、誰も目を開けない。
呼びかけても、答えは返ってこなかった。
ノンナは立ち上がる。足元がふらつき、杖に体を預ける。
屋敷へと駆け込む。
だが――アルムはいなかった。
寝台にも、暖炉の傍にも、どこにも。
扉にはわずかな泥の跡。小さな足の形が、外へ続いていた。
(……まさか)
ノンナは、まだ完全に回復しない体を押して、森の中へと歩き出した。
あたりは静まり返っている。
鳥の声も、枝のざわめきも、どこか遠い。
「アルム……アルム!」
声に応じる返事はなかった。
何日も探した。
足がふらつきながらも、森の中を、川辺を、丘の下を――
けれど、アルムは見つからなかった。
あの《死》を放ったのが彼女だったのか――それは、今も分からない。
あまりに異質で、あまりに痕跡がなさすぎた。
ノンナにはただ、一つの疑念だけが残された。
(……もし、あれが“あの子”によるものだったとしたら?)
そんなはずはない――けれど、完全に否定しきれるほど、世界は単純ではなかった。
そして――
森の奥。
小さな足音が、湿った土の上に落ちていた。
少女は黙って歩いていた。
あてもなく、理由もなく。
ただ、歩くことを止める理由がないから。
誰もいない森の奥で、
彼女はときおり魔物を見つけては、立ち止まる。
魔法の使い方など、誰にも教わっていない。
けれど、手をかざせば、
必要な形をした“何か”が生まれてくる。
火の粒。光の矢。刃のかたちをした風。
あるいは、見たこともない色をした槍のようなもの。
目の前の生きものを狩るには、それで足りた。
倒したあとは、切り分け、焼く。
焼けなければ、乾かして噛む。
草の中に眠り、木の下で目を覚まし、
雨が降ればじっと座って、濡れるままにしていた。
時間の感覚はなかった。
けれど季節は変わった。
木の葉の色が変わり、花の形が変わった。
草が生え、枯れ、また新しい草が伸びた。
(……そのうち、お父様かお母様が見つけてくれる)
そんな想いだけが、彼女を止まらせなかった。
叫びもしない。泣きもしない。
ただ、誰かに見つかるそのときまで――
生きていればいい。そう思っていた。
そうして、一年が過ぎた。
誰の声も届かない、
誰の魔法も効かない、
誰の理屈も通じない、そんな場所で。
彼女は今も――言葉ひとつ発さず、ただ歩いていた。
森の奥、誰にも踏まれないような獣道。
その先に、少女が座っていた。
古い木の根元。
泥に汚れた膝。ほつれた髪。
それでもどこか、月のように静かで、澄んだ存在だった。
アルムは無言のまま、そこへたどり着く。
(……この子、なんでこんなところに)
声はなかった。
けれど、胸の奥にだけ“言葉にならない何か”が生まれていた。
そして――
その少女が、ゆっくりと顔を上げる。
重なる視線。
時間が止まったような一瞬。
アルムの唇が、ふるえるように動いた。
「……ともえ?」
それは、
この世界で初めてアルムが発した“言葉”だった。
音は小さかった。風よりも静かだった。
けれど、確かに耳に届いた。
それは、誰にも知られていなかった名を――
なぜか“知っていた”ような、そんな声だった。
少女は、ぽかんと目を見開く。
今回登場した“デス魔法”について、少しだけ補足を。
この世界においてデス魔法は、基本的に魔法防御をしていれば防げる魔法です。
そのため、魔力の低い者から順に倒れていくのが通例であり、今回もまず倒れたのは――
> メイドや馬飼い → クロロ → ミア → エルフ → ノンナ
といった、魔力や魔法防御の強さの順でした。
しかし――今回は違いました。
今回放たれたデス魔法は、“魔法防御すら貫通する”という異常な構築を持ち、
圧倒的な速度と範囲で、対象者を即座に昏倒・あるいは死亡させています。
特に、“魔法に対して最も耐性がある種族”であるエルフが全滅している点は、
この世界では極めて異例であり、歴史的事件級の出来事です。
あの場で、何が起きたのか――
誰が、何のために、その魔法を使ったのか。
そして、どうしてアルムだけが無傷だったのか。
……その答えが明かされる日は、もう少し先になりそうです。