ビターチョコレート
狭い部屋の中、紙の本を捲る音だけが響く。
使われていない空き倉庫、学生服の少年とワイシャツ姿の男性が漫画本を読みふけっていた。
時折、菓子を咀嚼する音が混じる。
ただそれだけの時間が流れていた。
「先生、7巻取って」
その静寂を破り、少年が声をあげた。
「あん?」
先生と呼ばれたワイシャツの男が、こちらが手に持った漫画のタイトルを確認し、本棚から次巻を取り出した。
無精ひげを掻きながら、ぶっきらぼうに手渡してくる。
「サンキュー」
「ん」
漫画を受け取り、ページを開く。
再び、静寂の時間が流れた。
「そいやさ。この漫画、最新刊がそろそろ出るよね」
確か来月、2月末だっただろうか。
その頃には自分の受験も終わっているだろう。
「そいや最終巻だったな。どっちのヒロインを選ぶんだろうな」
男女の三角関係を描いた恋愛漫画。最後の最後までヒロインを絞らない優柔不断な主人公が、選ぶ相手は誰なのか。
そんな有り触れたフレーバーで彩られた漫画は何度も読んでいる。
だが、毎回違った楽しみを与えてくれた。
前回読んだ作品は意外にもバッドエンドで絞められた。
「これはどっちか選ぶ雰囲気だし、どっちを選んでもビターな終わり方になるよね」
目線を漫画のコマから教師に移し、ふと気になった事を質問する。
「先生って彼女いたっけ?」
「おらん」
教師は漫画から目を離さずに答えた。
「いないのかよ」
「お前もいないだろうが」
「オレは受験生だしね。先生は彼女欲しい?」
「むしろ結婚したい。てか、受験生が漫画ばっかり読んでんなよ・・・」
意外だった。独身を貫きたいタイプだと思っていた。
3年近くの付き合いになるが、知らない事も多いものだ。
後半は無視しておく。
(こうやって漫画読んでるだけだしな)
「先生、マジで結婚とか似合あわないね」
言って、一口チョコをかじる。
「うるせえ」
唾液で溶けたチョコが、ほどよい甘味と共に口内に広がっていった。
□ □ □
受験が終わった数日後、高熱を発して入院した。
目が覚めた時には合格通知を受け取っており、第一希望への進学が決まっていた。
地元を離れて一人暮らしの新生活。
そして――、
「女として新しい人生を。ってか」
目が覚めた時、女の子の身体になっていた。
最近稀に発生する病だった。
発生時は通常の発熱と変わらず、風邪などと併発するため初診での識別が難しく、発症事例が少ないため元に戻る方法は発見されていない。
「うーん」
しかしこれが意外に巨乳、意外に可愛い。
娘を欲しがっていた母親は喜びを隠しきれていなかったし、弟は急に優しくなった。
残り数日の為に女生徒用の服を購入する訳にもいかず、男子用の学生服のまま卒業式の日を迎えた。
「はあ、やっぱり胸がパンパンだな」
この姿で写真に写る気分になれず、卒業式を無視し、いつもの部屋へ向かう。
どうせ不良教師もサボっているだろう。
扉の前に立ち、ドアノブを捻った。
無精髭の教師が眠たそうな目でこちらを見る。
『・・・』
それ以上の反応は無かった。
自分が誰だか解っていないのかも知れない。
「なんかさ、オレ、女の子になっちゃったんだよね」
「そっか、大変だな」
いつもと変わらない様子で返事をし、すぐに漫画に目を戻した。
「――」
その様子に安心し、教師の横に座った。
今までと変わらず。
□ □ □
「なんかさ、女の子って距離近すぎじゃね?むっちゃ触ってくるし、オレ男なのに触り返していいのかなって思うじゃんね」
「別に触られたなら触り返していいんじゃないか?女になったんだし」
教師が漫画から目を離し、菓子箱からチョコを取り出して口に放り込んだ。
咀嚼しながら、思い出したように呟く。
「距離が近いのも、ベタベタ他人を触るのも女子の本能的なものらしいぞ」
知らなかった。
自分は、今教師を触りたいと思わないが、そのうち変わるのだろうか。
「まあ、本能なら仕方ないなあ」
「だろ」
そんなやりとりをしながら、携帯を取り出す。
携帯を持った手を、組んだ足の上に置こうとしたところで、大きな胸が邪魔で画面が見えない事に気付く。
携帯を胸の前まで持ち上げた。
「デイリーやってなかったんだよね」
ゲームアプリをタップすると、ロードが開始された。だが――、
「今日はメンテだぞ」
メンテナンス画面が表示される。
「あー、そうだった」
今日は推しキャラが新スキンで実装される予定だった。
天井出来る程の素材は貯めているが、理想は10連で出す事だ。
推しへの運命力を、クラスメイト達に自慢したい。
「あー、なんかさあ、よく知らないクラスメイトにむっちゃ連絡先聞かれたんだよね。春休み遊びに行こうとか。下心みえみえっつーか、女の身体なら誰でもいいのかっての」
「学生ならそんなもんかもな。お前が可愛いからかも知れんけど」
可愛いという言葉に少し驚いてしまう。
「え、先生俺の事好みなの?もしかして男の時から狙って――」
「アホ言うな。そういう意味じゃないわ」
「でも、可愛い?」
そうであれば、女の子として生きていく事もできるだろうか。
男に好かれる必要は無くとも、女の子から見ても可愛いと思われるのはプラスだろう。
「まあ、それなりに、程度にはな」
「それなりにかよ。ちゃんと褒めろって」
なんとなく不満を感じ、唇を尖らせる。
「どんな人間でも魅力がないってことはねえよ。人に言われた魅力じゃなくて、自分と向き合って考えてみろって」
自分の魅力など、よくわからない。
「自分で自分を認められないと、結構大変だからな。小さい事でも、性格でも、見た目でも、何でもいいさ」
自分の身体を見下ろす。
「おっぱいが、でかい」
「・・・」
今の自分の中で、これだけはハッキリ自身があるのだが、無視されてしまった。
自分が可愛いかどうかなど、よく分からないし、まだ興味が無かった。
□ □ □
「そうだ、最新刊出てたぞ。選別にやるよ」
そう手渡されたのは、先日まで読んでいた恋愛漫画だった。
「ありがと。帰ってから読むよ」
そう言って買ってきた週刊誌を読み始める。
暫くの間、紙が捲れる音だけが響いた。
週刊誌の漫画でも最終回が描かれており、そちらは結婚式で締められていた。
ふと、教師が結婚したいと言っていた事を思い出した。
「先生結婚したいって言ってたよね。好みのタイプってどんな感じなの?やっぱロリ系?」
「趣味が同じ女かなあ」
(やっぱりオレなのでは?)
ドキドキする訳ではないが、なんとなくそんな事を考えてしまう。
「オレさあ、女の子の身体に慣れるのか心配なんだよね」
「すぐ慣れるだろ、身長だって伸びたんだし。一年のときチビだったろ」
そういうものだろうか。
だが時間を掛ければ、馴染んでいく気もしていた。
「先生って何歳だっけ」
「27」
意外に若い。もっといっていると勝手に思っていた。
「じゃあさ、先生が35歳になったとき、お互い結婚してなかったら、結婚してあげようか?」
揶揄う様に笑いかけて見せる。
「お前、それ絶対に結婚しないヤツだぞ」
「そうなの?」
「マジだ。俺は25まで独身だったら結婚しようって2人から言われた事がある。2人とも別の男と結婚して子供が居るけど」
「マジ、辛すぎじゃん。なんかごめん」
「いきなりトラウマ抉るなよ。泣くぞ」
変な顔をする教師を見て思わず吹き出す。
お互い笑った。
再び漫画を読み込み、楽しみにしていた連載を読了する。
キャラクターの成長、変化が描かれていた。
「オレも変わっていくのかな。今の自分じゃなくて、女の子に。なんか正直不安だよ」
「身体が変わったっていっても、中身はそんなに変わらんだろ。俺は高校卒業してから、大して変わってないぞ」
「そうなんだ。いや、そんな感じだね」
教師がフン、と鼻を鳴らした。
「変わろうとすれば幾らでも変われるけど、変えたいと思ってない部分は変わらないもんだ」
読んでいた本を畳み、肩を竦ませる。
「ガキの頃から今にしたって、そうだろ」
「んー、そうかも」
分かるような、分からないような感じだったが、なんとなく納得した。
肩書、住居、環境、ついでに性別が変わった。
元々色々なものが変化する予定だったところに、ひとつ増えただけとも言える。
携帯が鳴る。
画面を見ると、母親からだった。
「そろそろ帰るよ。親から連絡がきたし」
「そっか、じゃあな」
「うん、じゃあね」
特別な言葉は無かった。
甘いものが欲しくなり、菓子箱から包みをひとつ、適当に手に取った。
ゆっくりと立ち上がる。
ドアノブを掴み、ドアを開いた。
□ □ □
廊下を歩きながら、窓の外を眺める。
青い空の下、少数の生徒がまばらに立っている。
卒業式は終わったようだ。
居心地のいい空間だったと思う。
できれば、ずっと居座っていたかった。
教師とはもう会う機会は無いだろう。
同窓会という接点も無い。
もしかしたら、自分が結婚した後、出くわすかもしれない。
左手に持った漫画、最終巻の表紙を見る。
二人のヒロインが笑顔で描かれていた。
「あ、そうだ」
思い出したようにポケットから菓子を取り出す。
チョコレートだった。
包みを開けて口に放り込む。
「にが――」
ビターチョコレートだった。
唾液で溶けたチョコが、苦みと共に口内に広がっていった。
卒業、別れの季節、変化の季節。
なんとなく切ない。でも好き。