その後34(恋が変えるもの)
「ずいぶん楽しそうに話していたなアニエス……」
耳元に響くのは先ほどの声とは違う男性的な低く、胸をかき乱すような色気と冷たさのある声音。
いったいいつの間にアニエスのすぐ背後まで来ていたのだろう。それこそほぼ抱きしめるような距離にセオドリックはいる。
「どうやら、まだ私の躾が足りてはいないみたいだ。躾のなってない悪い子はお仕置きをされるのをわかっているか?」
うん、とりあえず今振り向くのは命取りだということだけはアニエスにもわかる。何故ならその怒りが空気越しに針のむしろのように伝わってくるからだ。
「でで殿下……先に行っているのではなかったのですか?」
「そのつもりだったが、そんなにかからないだろうと判断して待っていた」
「もうかなりセシリア様たちを待たせていますし……」
「ああ、だから多少前後してもこちらが揃って行く方が先方にも誠実だと判断したんだよ。行ってからまた後から誰それが来るなんてなると、人が揃うまでは場が落ち着かない感じがしてしまうだろう?」
「そ、それはご英断……あ、あの殿下は今すこぶるお元気じゃないですか、言ってみればそれは私のアイテムのおかげ……ですよね? だからどうかその」
「ああ、おかげで魔力は全回復、頭も最高にクリアだ。何でもできる」
「で、ではその回復した魔力は北の街が発展するのに使われてしまってはどうでしょう? きっと皆さん喜ばれるし殿下の株はますますうなぎ上りですよ?」
「使うとしたらこれは全部きっちり君に使うから、それはできない相談だな」
「は、ははは、私にどう使うというのですか? 殿下ってば本当にご冗談がお好きなんですから!」
「……」
アニエスはくるりとノートンを振り返った。
「ノートン様助けてください、すごく怖いです!」
「これまた不味いところを見られましたね。アニエス嬢」
「ち、違うんですよぅ……まずはどうか私の話を」
「アニエス」
セオドリックに名前を呼ばれアニエスの背中がびくっと反応する。
冷たくも何かひどく黒く熱いドロドロとしたものを内に隠したような、それでいて美しいこの声はいったい身体のどこから響いてくるのだろうか。
「あとで私の部屋に来い。返事は?」
「…………はい」
「良い返事だ」
そう言いセオドリックはアニエスを後ろから抱き寄せ首筋に噛みつくように吸い付いた。
「っんんー!?」
「しっかり予約は入れたからな」
アニエスの首筋にしっかりとセオドリックのキスマークが入る。どうでもいいがこれらは全て高級ホテルのフロントで起こっていた。
ほぼ貸し切り状態とはいえ、それでも大勢の注目の的を浴びアニエスは内心、言葉にならない絶叫を上げる。
「じゃあ、行こうか」
「……はい」
セオドリックは当たり前にアニエスの腕を自分の腕に添えエスコートの形をとった。だが、アニエスはそれどころではなく放心状態でされるがままになっている。
「……殿下、それで向かわれるおつもりですか?」
「ああ、それがどうかしたか?」
ああ、この目は完全に執着と嫉妬と怒りに支配されている。これは話を聞いてくれないなとはわかりつつ、ノートンはセオドリックの腹心として言わないわけにはいかなかった。
「あんなことがありましたから。セシリア嬢がこの状態を見れば心中、穏やかでなくなるのではありませんか?」
「そうかもしれないな。でもこのままでいい」
やっぱり聞いてはくれなかった。とはいえそのままジオルグを殺しに行かないだけマシかもしれない。
「わかりました。でもせめて、お部屋に入る瞬間だけはどうかお離れください殿下」
「……善処する」
ああ、すでに波乱の予感しかしないのだが……ノートンは胃がキリキリ痛むのを必死にこらえた。
もちろんノートンはセオドリックの乱れるその気持ちもよくわかる。
遠目にも電話に出た瞬間アニエスはまるで今、開いた花のようにパッと色付き全てが変わってしまったように見えた。
『色っぽい』という言葉は、きっともともとはこんな状態を指して誕生した言葉なのだ。
ほんのり全体が朱色に染まり、目が潤み、唇には鮮やかな血が通いだし、雰囲気にしっとりとした水分を含んだことでその柔らかさが増す。
自分が懸想する乙女が恋をし美しくなる様を目の前でまざまざと見せつけられ、それが自分に向けられたものなら最高の誉れだが、他の男によって変えられたとなって我慢できる男などこの世にあるのだろうか?
(とはいえ普通はそこで一歩引いて怖気づいてしまうもの。それに踏み込める殿下は、それだけで並の男ではないでしょう)
そんな強靭な強さがセオドリックをセオドリック足らしめている。
(この強さと誇りと自信のありふれる様。……多くの自信がない人々は常に不安を抱えているが故にそれだけで殿下にすがり群がらずにはいられない。それは側にいれば自分もそうなれると錯覚するし、させてくれるからだ)
そうセオドリックはただそこに存在しているだけで、ある意味人々に夢を見せられるのだ。
(そして、今から会うセシリア嬢もそんな風に殿下に夢をみているお一人だ)
ノートンは実はセオドリックがセシリアのところに足しげく通っていた時期から、ある種の不安を抱いていた。
一見、セシリアは享楽的で小悪魔で物分かりが良かったが、その実セオドリックへの激しい執着をノートンは見抜いていたからだ。
なんてことなく軽く笑うその瞳の中に激しい焔があった。
それは、セオドリックに一番近い存在でありつつ、第三者で冷静に俯瞰して見れる立場であるノートンがきっと一番気付きやすいポジションだったからというのがあるだろう。
何故ならそんな彼女の違和感に、自分をおいてあの勘の鋭いセオドリックすら気付いてはいなかったからだ。
彼女とセオドリックが疎遠になった時ノートンは内心ひどく安堵した。
(本当に彼女と殿下を今から会わせても良いのだろうか?)
ノートンの胸に不安の影が差す中、ホテルのティールームの扉の目前まで来て、もはや扉は開けるしかない。
はたして鬼が出るか蛇が出るか。
ノートンは扉を開けたのだった。




