その後31(竜の仮眠室とマッサージ)
ガチャリッと馬車のドアが開きセオドリックが顔を出した。
「殿下、お着替えは無事に済んだようですね」
出てきたセオドリックにすかさず最側近のノートンが声をかける。
セオドリックはなんだか少しぼーっとしているようで、返事に少し間があった。
「ああ、ノートンおはよう」
「? 急にどうされましたか」
「あ、いやいやいや何でもない。ところで私が馬車に乗ってどれくらい時間が経つ?」
「はい? 三、四分かと思いますが」
「ちょっと時計を貸してもらえないか」
セオドリックはノートンから懐中時計を借り確認し、それでも納得がいかないのか市長の時計も見せてもらう。
「殿下、確かに予定は押しておりますが、着替えの三、四分なら別に大した時間ではないと思いますが」
ノートンがセオドリックの真意が測れず困惑していると、セオドリックの後ろからセオドリックの着替えた服を持ってひょっこりとアニエスが顔を出した。
「ノートン様、着替えが無事に終わりました」
「ご苦労様です。問題はありませんか?」
「はい、何も問題はございません」
アニエスがニコニコと答える。それにセオドリックはアニエスを振り返り言った。
「サーシャ(※アニエス)改めて君の魔物の能力は恐ろしいな。しかし彼らが勝手にそんな能力を使っていたことが見つかれば最悪、最高王立議会行きだぞ。どうして今も彼らが人質になっていると思っているんだ」
「ですが殿下も今回のことで同じ穴のムジナでしょう? 見逃してはいただけませんか?」
「……それなら、こっちにもあの黒いカードを融通してくれないか?」
「殿下の仰せのままに」
ノートンがいったい何をやり取りをしているのか訳が分からず二人の顔を交互に見た。何かそのことにヒントがあるとすればセオドリックが馬車に入る前よりも、顔の血色が明らかに良くなっていることくらいだ。
いったいたった三、四分の間に何があったというのだろう。
……実はそれにはこういうことがあったのだ。
事の起こりは現実世界のほんの数分前ーーー。
ドゥクシッッ!
「ぐはっっ!!」
セオドリックに急に抱きつかれ、アニエスがセオドリックの鳩尾に強烈に鋭いアッパーパンチをお見舞いする。
「ぐあっ! 久々に貰った……!」
アニエスはそんな反撃を貰い悶絶するセオドリックを静かに見下ろした。
「あれ、まだ起きているんですね? そのまま眠らせようと思ったのに……」
「さ、サイコパス!」
だがアニエスはセオドリックのそんな様子はひとまず無視して、自分のポーチからあるものを取り出した。
それは黒い二つ折りのカード状のもので金で書かれた複雑な術式のようなものが見える。
「これを使うのに説明を出来れば省きたかったのにな。あんまりバラしちゃいけないと思うし……」
「いったい私に何をしようって言うんだ?」
「ふふふ、実はこれはエースが私に作ってくれた竜の力を使うための『魔符』でございまして……」
「魔符?」
「はい、でこれを使って殿下に、ぐっすりお休みいただこうと思い立った次第!」
「え、もしかして私を消すつもりか?」
「いえいえそういうのではなく。これは言ってみれば竜の亜空間に入るための特別なチケットなんです。で、その亜空間で過ごす八時間はなんと現実世界ではたったの一分!」
「……どういうことだ?」
「殿下も報告書を見てご存じだと思いますが、万物の王、最恐の生物である竜の最も得意とするのは次元と時空間の操作魔法です」
「ああ報告書の字面でならよく知っている」
「で、今回特別にエースの竜がその魔法を使い、現実世界との時間の流れが異なる亜空間の簡易休憩所を私のために作ってくれて……そのカギともいえる魔符をくれたというわけです」
「なるほど?」
「というわけで説明は以上になります。他に質問があれば中にて受け付けますね。ではオープン・ザ・ドア!」
「いやいや、ちょっと待っ」
セオドリックの制止を待たずにアニエスがカードを開いた。すると光とも闇ともつかない何か大きなもので周囲は一瞬で包まれ何もかも見えなくなっていく。
しばらくしてセオドリックがそっと目を開けると、そこには馬車の中の見慣れた風景ではなく、うっすらとピンクや水色の綿菓子のような雲みたいな大きなふわふわしたものが一面に広がる別世界になっていた。
「あ、殿下ちなみになんですが、水洗のお手洗いと水場とお茶やお茶菓子はあちらにございますので、ご入用の際はご自由にお使いください」
しかもトイレと水道、お茶も完備である。
「……よし! ツッコみどころが多すぎる」
「そうですね。竜って本当、人間より圧倒的な上位生物だけあってやたら気が利きます。この砂糖とミルクなんてオーガニックですよ?」
「そこもそうだけどそこじゃない!」
「じゃあ殿下さっそくシワになるのでそのシャツは一旦、脱いじゃいましょうか?」
「え」
「うつ伏せになっていただけますか? ここは完全抗菌いつでもピカピカな清潔な空間ですし、下はふわふわと柔らかく弾力があるのでそのまま横になって結構です。でも床に直に寝るのはやっぱり王族として気になりますか?」
「いや別にそれに関しては特に……」
「それならよかった。ではお願いします!」
「……」
セオドリックは訳が分からないまま上半身裸でうつ伏せになると、何とも言えない不安とかすかな期待が脳裏によぎった。
「殿下、私が肌に触れても大丈夫でしょうか?」
これは一体どういうことなのか?
アニエスを抱きしめたら殴られて、変な道具を出してきたと思えば次の瞬間には全く別世界に連れてこられた。
そして今、最初の説明によるとここでは八時間の自由時間を得ている間、元の世界の時間には全くといっていいほど影響がなく、アニエスと自分しかいないこの二人きりの世界で、アニエスが積極的に自分に触れようとしているという現象。
「……やばい、早く起きなければ」
セオドリックは現実とは思えない次々に巻き起こる展開に早々に見切りをつけ、自分がいつの間にか居眠りでもしたのだろうと考えだした。だが次の瞬間……。
「ふうううっぐ!」
アニエスがセオドリックに触れ神経に信号が送られることで、それが紛れもない現実だとわかった。
「殿下、くすぐったかったですか?」
「いや、ぐすぐったいわけではなく……これはいったい?」
「リンパマッサージです。体がほぐれてすっごく楽になりますよ」
そう言いアニエスはマッサージを続け、セオドリックの首から肩、背中や腰をほぐしていく。
しかし、詰まったリンパを押されることによる痛みもあるが、だが、それ以上に……セオドリックはついに我慢しきれずにがばっと起き、アニエスのその両手首を掴んだ。
「殿下もしかして肌が擦れて痛かったでしょうか? も、申し訳ございません。いま手元にクリームやオイルが無いから気を付けてはいたのですが……」
「……違う。むしろぜんぜん逆だ」
あまりに気持ちが良すぎたのだ。
手の温度が非常に高くぽかぽか温かいのはもちろんのこと。
すべすべ、いやむしろそれを通り越してするんするんでおまけに絶妙に肌に吸い付き、まるで元からその肌は一つであったかのように馴染んでくる。
その触り方自体に特別なテクニックを感じるわけではないのに、あまりの衝撃的な気持ち良さに、あのセオドリックが思わず嬌声を上げそうになってしまった。
「アニエス、手に何か仕込んだか?」
アニエスはセオドリックが何を聞きたいのかがまるでわからない。
「な、何も……セオドリック様、私なにか無礼をはたらきましたか?」
「んん、まあここまでの流れ全体通して無礼といえなくもないわけだが、それは今はどうでもいい。この手の問題だ!」
「手……ですか。別に普通じゃないですか? あ、よく見たら手相に『ますかけ』がありますね」
「そうじゃなくて!」
「うーん……あ、でも以前、コーラにお嬢様の手は『滑め手』だといわれたことならあります」
「滑め手?」
「瑞々しく吸い付いてくるようで、触られると背筋がゾクゾクするほど気持ちいいんですって。なんだそりゃって感じですけど、まれにそういう人がいるそうです」
「ほお、成程さすがは『魔性』の呪……祝福を受けているアニエスだな。そんな恐ろしい特質まで標準装備してたとは……だがおかしい。昔アニエスにこんな風に施術を受けた時は何ともなかったぞ?」
「あの時はふんだんにオイルを使っていましたからね。それこそ誰でも変わりはないかも」
「普段はほぼほぼ手袋着用だし余計に気付かなかったな。口で吸い付いた時もそこまではさすがに……」
「あれ? じゃあパンを食べさせたときに吸い付いてきたの、やっぱりわざとだったのですね殿下!」
「ウーンそんなことより、その手で私自身に触れられたら、相当大変なことになるな……」
「殿下はここにいる殿下が殿下でしょう? それとも本体は別に存在するのですか?」
「それはそのうち詳しく教えるから、とりあえず今は流してくれ」
「はい、わかりました?」
「じゃあ続けてくれるか」
「え、宜しいのですか?」
「ああ、開き直って存分に楽しむことにするよ」
「え、なんか…………やだなあ」
とは言いつつもアニエスはセオドリックを丁寧にマッサージをした。
お腹の中心を走る乳糜層やちょっときわどい鼠径部。
腕の付け根の腋窩リンパ節にリンパが滞りやすい骨のきわ、手や足などのツボの多い末端など、仕上げに最終的なリンパのゴミ箱である心臓の左上をマッサージしているときにはセオドリックは静かに寝息を立てていた。
それを見てアニエスはセオドリックの身体の態勢を整え、雲みたいな何かをみょーんと伸ばすとセオドリックの身体全体をそれで包んだ。
自分も少し離れたところで適当に横になり眠りについた。
八時間たつ十分前に空間全体にベルが鳴り響くと二人はむくりと起きあがり、戻る身支度を急ぐ。
そしてすっかりスッキリした面持ちで元の世界に無事に戻ったのだった。
※『ますかけ』の手相は天下取りの手相だといわれています。




