終章
終章
「神は生きているか?」
「神は何時如何なる時も、我らの希望と栄光と共に……」
「どうもこんにちは。クエイダルさん」
古びた扉を開け、湿気のこもった地下室へと入ってきたクエイダルに、バールは軽やかに声をかけた。
シーナが去ってから一週間、厳粛な葬送ムードも次第に弱まり、リンゲルにはまた新たな日常が流れはじめていた。バールは町医者から依頼された薬の調合と研究に明け暮れる日々、またクエイダルも厳しい訓練の毎日と、それぞれの日常へと立ち戻っていた。
「ひょっとしたら、腕が退屈してるんじゃないですか? シーナがいなくなって」
「ハハッ……とんでもない。つい最近、また骨のありそうな奴が師団に入ってきたんだ。おかげでこっちもうかうかしてられなくってな」
冗談じみたバールの問い掛けを、クエイダルはすぐさま笑い飛ばした。
「今にして身に染みてるぜ。今まで二年も師団を引っ張ってきたけど……それがここまで過酷なもんだって分かったのはつい最近だ。もしシーナに出会えなかったら、一生分かんないままだったかも知れないな」
そう言いながらクエイダルは、右腕につけている銀の籠手に目をやった。
籠手には黒ずんだ剣の傷が付いており、戦の形跡をまだ留めている。彼がそれを見て思い起こすのは、シーナと共に歩んだアルシアでの騎行である。バールにとって、冷たい唇の感触がシーナを思い起こすきっかけであるのと同様に、クエイダルにとって右腕の籠手に刻まれた戦の軌跡が、彼女との記憶の接点となっていた。
「どうです? お茶でも」
「いや……悪いけど遠慮しとくよ。今日はそんなにゆっくりもしてられなくってな。この後から飛行訓練があるんだ」
「そうですか……」
茶を勧めるバールに、クエイダルは残念そうな表情を浮かべたまま首を横に振った。
「もしお暇があったら、またどこかへ飲みにでも行きましょうか? カルシュの時みたいに」
「そうだな……近いうちに」
笑みを浮かべながらバールは、クエイダルに誘いをかけた。それにクエイダルは大きく頷きながら、はっきりとした口調で答えを返した。
大地を揺るがす程の戦が終わっても、バールとクエイダルとの親しい関係は変わる事がなかった。奇しくも二人が知り合うきっかけとなったのは激しい戦争だったにせよ、数月の激しい日々を駆け抜けた彼等の絆は強固な物になっていた。その戦が結末を迎えた今も、彼等の縁が疎遠になる事はなかった。
「それじゃ、また来るぜ」
クエイダルは右手の人差し指を立て、頭の上で空を切りながら微笑んだ。そして続けざまにバールに向かって一礼すると、そそくさと部屋を後にした。
バールはその姿を見送ると、再び仕事机の前に座り、目の前に山積した書類を見つめながら小さくため息を吐いた。
ただ地下室に響くのは、石英ガラスのフラスコの中で煮沸している薬液の泡が弾けていく音のみ。その口から立ちのぼる煙は、排気口を伝って天井へと消えていく。その様を虚ろに見るバールの耳にはただ、果てる事のない煮沸音が響いた。
バールにとってシーナという存在を失った事は、彼の心に大きな穴を空けた。それだけシーナの存在は彼にとって大きな存在だったのである。特にシーナの強さだけでなく、激しさ、厳しさ、優しさ、深さ……彼女の多彩な面を深く知るバールにとって、その欠落感は尚更大きかった。
絶え間なく弾ける泡の音色が、空洞化したバールの心へと流れていく。ため息を吐きながら、彼が粉薬の入った壺へと手を伸ばしたその時、
「えっ……クエイダルさん、もう帰っちゃったんですか?」
突如耳に響いた高く涼しげな声に、バールは右手に握っていたさじを止め、視線を移した。
声の主を探ったその目に映ったのは、流しがある奥の小部屋から顔を出すエミーナの姿だった。
「ああ」
「そうですか。せっかくお茶も入れてきたのに」
エミーナの手には、薄茶色の茶で満たされた白磁のティーカップが二つ、トレイの上に揃っていた。トレイを持ったまま困り顔で呟くエミーナに、バールは壺に突っ込もうとしたさじを置き、優しく微笑みかけた。
「そうだ……だったら君が、クエイダルさんの分を飲みなよ」
「……そうですね。捨てるのももったいないし」
バールの言葉に甘える様にエミーナは彼の隣に腰掛けると、側にあったテーブルの上にトレイを置いた。その一方を書類と薬坪が混み合っている仕事机の上に手際よく置き、そしてもう一方を自らの手の中に収めた。
「…………」
ティーカップに手を伸ばしながらバールは、隣でゆっくりと茶を飲むエミーナの横顔を無言で見つめていた。
『気づけばいつも側にいるのに、いつまで経っても答えを待ってなきゃいけないなんて……もどかしいんだよ』
シーナが放ったその言葉が未だに頭から離れないバールは、以前にも増してエミーナを女性として強く意識するようになっていた。
彼女のあどけない横顔に気づけば自然と目をやっているのだが、何故だか照れ臭くて凝視できず、また目を逸らしてしまう。ましてや目が合ってしまえば、まともに本心すら語れない。バールにとってそれはもどかしい日々の繰り返しだった。
そうこうとバールが思案している間にも、彼の胸中を知らないエミーナは顔をバールに向け、屈託のない笑顔を満面に浮かべた。
シーナの言葉が彼の脳裏を巡り、動揺は最高潮にまで達した。だが彼は、いつもの如く彼女の笑みから目を逸らす事はなかった。そして……
コトッ……
バールは茶を勢いよく飲み干すと、白磁のカップを置くや否やエミーナの瞳をじっと見つめた。
「あ……あの、さ……」
死セルコトバ
~サムシュトラス歪曲英雄譚~
執筆開始 1999/9/1
執筆終了 2000/3/16
改訂終了 2016/9/11




