◆血染めの天使
鮮血の天使は異世界への扉を開く、それは決して開けてはいけない禁断の扉・・・
東京、大都市の闇は獣たちが身を隠す絶好の環境だった。溢れかえる混沌は現実をぼかし真実の輪郭を曇らせる。だからそこは有る意味闇と同等で光を感じる事は出来るがそれは虚構、決して真実を語ってはいないのだ。
その事実に気づく人は数少ない、いや、わざと気付かないようにしているのかもしれない。そこから生まれる仮初めの幸せという特殊なフィルターはおそらく獣たちの存在を肯定するための摂理であり、地球と言う生命体委の持つ寛容でかつ平凡な能力なのかもしれない。そして、その闇に身を潜める獣の一人『リュイ』は今夜も高層ビルの屋上から地上を見下ろし獲物を物色する。
彼女の求める物は若い女性の生き血。吸血鬼としてこの世に生まれた彼女は若い女性の血を好む。新鮮な若い女性の生き血は刺激的で下手なワインよりも陶酔させ心を満たす。柔らかで栗色の癖っ毛をポニーテールに纏め、それをビル風に靡かせながら瞳を金色に輝かせながら一時の快楽を求め闇を見詰める。
地上高239.7メートル、東池袋に聳え立つ超高層ビルの屋上から見下ろす人々の姿はまるでマチ針の頭の様にしか肉眼では認識出来ないがリュイの心には各々《おのおの》が手に取る様に映る。現代のハイテクノロジーを駆使しても彼女の感覚にはかなわない、それが獣たる所以。
本能の赴くままの欲望に身を任せて今夜もリュイはこの場所に来た。ここに来れば何時物様に屈折した欲望を満たせる筈だったがその日は目的を果たせそうになかった。何故なら目の前に広がる異様な風景に言葉を失ってしまったからだ。
闇に潜む獣が言葉を失うその光景とは、超高層ビルの屋上中央に横たわる少女。年齢的には十五歳前後だろうか、あどけなさが残る面差しは目を閉じ、口を少し開いた状態で意識は無いように見えた。
それ以上にリュイの視線を釘付けたのは背中から覗く大きな純白の二枚の翼。更にそれには鮮血が飛び散り大きな染みが多数見える。いや、翼の部分だけではない、染みは体全体に飛び散っていて鮮烈なコントラストはリュイをその場に張り付け動きを止める。足元に散らばるこの有翼人から抜け落ちたと思われる大きな羽根が散乱している事に気が付いて、それを一枚拾い上げ、リュイはそれを繁々と見つめる。
「な、なんじゃこれ……」
眉間に皺を寄せ、ぼそりとこう呟いてからリュイは周りの様子を隙無く伺いつつ横たわる遊翼人に注意深く近づいていく。
「リュイ止まれ、そいつに近づくな!!」
闇の中に男の声が響く、聞いた事の有る声だ。声の発信源に向けて視線を移すとそこには見慣れた男の姿が有る。長身で痩せ型、ぼさぼさの髪の毛に無精髭を生やし、よれた煙草を口の端っこに銜えたそいつは異様に鋭い眼光を輝かせながら顎で遊翼人から離れるように指図する。
「何よ狼、何殺気立ってるのさ」
「いいからそいつに近づくな」
「訳ぐらい言いなさいよ、大体あんたこの一年、どこに姿晦ましてたのよ」
「追いかけてたんだよそいつを」
「そいつって……この子?」
「ああそうだ」
リュイは再び横たわる有翼人に視線を移す。彼女が浴びている鮮血はどうやら今、リュイが『狼』と呼んだ男と関係が有りそうだった。狼は闇の端っこから照明の光が差し込む屋上の中央まで進み、リュイにはっきりと姿が見える場所まで出てくると、リュイをじろりと睨みつける。
「ったく、何凄んでるのよ」
「いいからそいつから離れろ」
「その前に、ちゃんと説明しなさいよ、色々抜けてるわよ」
「お前が首を突っ込む必要はない、何も聞かずに忘れろ」
狼の態度が癇に障る。高飛車に出る奴に対してリュイは自動的に反感を持つというある意味プライド高い性格だから、この場合は徹底的に逆らって見せる。リュイはつかつかっと横たわる遊翼人に近づくと素早くお姫様抱っこする。そしてオオカミに向け大きく舌を出して見せてからふわりと柵に飛び乗ると躊躇うことなく地上に向かってダイブする。あっという間の出来事で狼はリュイを制止することが出来ずその表情はまるで苦虫を噛み潰した様に歪んでいた。
「あの、莫迦……」
唇の端っこを歪めながら小さくいてみたが残っているのは深夜の闇だけで、目的を達成できなかった悔しさは更にそれを濃縮しているような気がした。眼下には都会を彷徨う人々が放つ光の粒が無限の宇宙で瞬く星の様に冷たい光を放っている。眠りにつこうとしている大都会は喧騒と言うメイクを落として、暫し素顔に戻るのだ。