#000.5 プロローグ
昨日、私は死んだ。正確には殺された。けど、ここは別に死後の国とかいうわけではない。この世には、人間が考える天国も地獄も存在しないということをアイツは言っていた。かと言えば来世というわけでもない。残念ながらそんな素晴らしい希望も、現実には一部たりとも存在しない。人間は生まれて死ぬまでがひとセット。元に戻すもやり直すも効かない。命を失えばそこで終わり。
では、私がこんなことを考えることができているのはなぜか。当然、生きているからである。
死んだ、というのは比喩だ。
現に私はこうしていつものようにベッド上で座っている。今は朝。少なくとも何の変わり映えもしない朝。いや、いつもより少しだけ早く目が覚めたと思う。けど、それだけ。あとの行動はいつも通り。顔を洗い、クローゼットから適当な服を取り出し、着替え、朝食を摂る。教えられたとおりの、適切で習慣的なものだ。
でも、心が平静を無理やりに保とうとしているのは自分でもわかる。
私は幻滅している。落胆している。そして何より、そんな感情の全てがどうでもよくなっている。
今までの生活だって、大した感傷を覚えるほどのものではない。昨日までの朝は、今日の朝とは変わらないし、今日この後に起きることは、確かにいつもとは違うけど、ある意味で今までの集大成であり、分岐点なのだと思う。私がこれまでに繰り返してきた人生の採点を、これからの人生で行う。そこには何の希望もない。
そう希望はないのだ。
今までだって別に希望を持って生きてきたわけじゃない。無感動に繰り返されるだけの日々では、希望なんて見出せるはずもない。本当に変わることのない機械的な毎日を過ごしてきた。でも、それでも、思い返せば、昨日までの私は、まだ希望じみた何かを抱えていた。それが、今はもう欠片も残ってはいない。筋道は定められた。私はその上を往く。だから、希望はない。
後悔することができる資格は私にはないのだと思う。ここに生まれ落ちてしまった時点で、そもそも私には選択肢なんてなかった。きっと最初から、辿るべき道と、行くべき目的地は決まっている。
それに抗うことにも、どうしてか最初から諦めていた。私は受け入れたのだ、この人生を。
でも、恨み、みたいなものはある。私を拾ったあの男に対して。育ての親――と言ってもそれらしいことなんて一つもしてくれなかったけど。というか、それらしいことなんて私にもよくわからないし、望んでもいない。できれば距離がある方がいい。互いに近づかずに、話なんてしない方が良いのだ。
ただ、今日からはそうはいかなくなる。受け入れなくてはいけない道に立ってしまった以上は、あの男と私も関わらなくてはいけない。
憂鬱だ。やりたくない。逃げてしまいたい。何にもない、真っ暗闇に自ら足を踏み入れるしかないなんて馬鹿げてる。でも……
逃げてしまうことは許されない。
いや、正確には逃がしてはくれるだろう。私はこの生まれ育った場所を飛び出して、今すぐ好きなように生きていくこともできる。多分咎められることもない。アイツはそういうヤツだ。笑って見逃すだろうし、ひたすらに追い回すなんてこともしない。じゃあ、どうして逃げてしまわないのかと問われれば、逃げた先を想像できないからだ。きっと生きていくことはできる。どうにかして私は天寿とやらを全うする。でもそれは同時に、私にはできないことでもある。今日から歩み出す、本当は心底吐き気がする日々も、まだそこに真っ暗闇が存在する。けど、逃げ出した先に待つのは本当に空っぽの虚。暗闇すら存在しない。
やってみないとわからないだろうって? そうかもしれない。生きていくことができる予感があるのだし、今からの人生には何の希望もないのだから、なら定められた筋道を外れて、虚だと思っている場所に踏み出してみるのもいいだろう。でも、きっと私は踏み出せない。踏み出さない。希望のない今が、私にはふさわしいから。
だから、いつも通りを繰り返す。立ち上がり、定められたように目を擦って、私は洗面所へと向かう。鏡の中で昨日の声を思い出す。王と呼ばれる、憎たらしい線のない笑顔を浮かべた男の顔と、あの私を定めてしまった声を。
「茜には、俺の騎士になって欲しい」