薬草摘みの娘
つまらないことで、罪を犯した。子供の頃に、見知らぬ町で食べ物を盗んだ。やがて捕まり、罰を受けることになった。親もなく、帰る家もなかった。額に、罪人の印を刻まれた。それは、一生消えないものだ。
身柄を引き取ってくれたのは、今の師匠だ。漢方医として、町から離れた山村で暮らしている。身の回りの世話や、薬草の収集を手伝うことになってから十年以上過ぎた。師匠は独り身で、白髪も増えた。
「師匠は奥さんを迎えたりしないんですか?」
興味本位で、聞いたことがあった。
「別に、不自由はしていない。お前がいるからな」
ごりごりと草をすり潰しながら、師匠はそう答えた。
「じゃあ、師匠。私がどこかへ嫁に行ったら、どうするんです?」
「そのときは、そのときだ。それに……」
師匠の目が、こちらの胸や腰を一巡して、ふっと笑った。
「それに?」
「そうそう現れんだろう。お前を嫁にしたいとぬかす男は」
「どこ見ておっしゃいました、師匠?」
「聞きたいのか」
「もう……私は、これからなんですっ!」
「そうだな、お前はこれからだ」
そんなやり取りがあり、結局師匠が独り身である理由を知ることはできなかった。
師匠の家計は、時折運ばれてくる怪我人や病人の治療をして得られる礼金で成り立っている。たまに、肉や野菜などと置き薬を交換することもあった。山仕事に危険はつきもので、師匠の調合する薬は好んで用いられているようだった。
材料の薬草を摘みに行くのは、いつしか師匠の役目ではなくなった。摘むべき野草の知識と、欲しい分量。あとは山の危険を充分に知ったときから、一人で山に入るようになった。蔓草の先に付いた黄色い実を摘む。赤いものは、熟しすぎて使えない。地面から腰の高さまで伸びた草の葉だけを、千切って籠に入れる。背の高さまで伸びてしまえば、その草は自然に立ち枯れた。湧き水のある岩場では、浅い緑色のコケを採った。籠の中身は三層に仕切られていて、用途に応じて収納する場所を変える。
清水で指先を洗ってから、家に帰った。収穫物を師匠が点検して、分別する。そのまま使うものもあれば、干して何かと混ぜるものもある。水に漬け込んで上澄みだけを用いるものもある。材料の様々な処理は、師匠といっしょにやった。
薬鉢でかき混ぜた粘液を、小麦粉と一緒にして粘りが無くなるまで混ぜる。出来た塊を千切り、秤で計量して丸めていく。
「なんとか、さまになってきたな、お前も」
黄色い実をすり鉢で粉にしながら、師匠が言った。
「師匠が病気になったら、私の薬で助けてあげます」
「お前の作れるのは、腹痛とねんざの薬だけだろ。俺は、どっちにも縁がない」
「じゃあ、他にも教えてくれますか?」
「十年早い。俺がくたばるまでには、全部教え切れないだろうな」
「がんばって、全部覚えます。だから師匠も長生きしてください」
「お前のために、ろくに死ねないのか、俺は?」
はい、と答えると、師匠はくっくっと笑った。
作業がひと段落終わると、夕食になる。摘んできた野草の中の、食べられるものを鍋に入れて煮込む。ついでに、備蓄してある小麦も少し使った。あと使うものは、味噌と、ちょっとした隠し味である。程よい酸味がくわわり、鍋の味が一層深まったと感じた。
「いつもまずいな、お前の鍋は」
椀を手にした師匠が、心底顔を歪めて言った。
「そうでしょうか? 今日のは、結構いい出来だと思うんですが」
野草と小麦が、味噌と酸味のハーモニーの中で踊っている。何度も味見もしたし、会心の出来だと確信していた。
「余計なものを、入れただろう。ユズの実か」
「はい。皮だけ剥いたものが、いくつかありますから」
「苦くて、まずい。味噌とは合わないな」
「私は美味しいって思いますよ?」
「じゃあ、お前が全部食べろ。俺はもういい」
そんなことを言いながら、師匠は二人分の鍋の三分の一は食べた。悪態をつくのはいつものことなので、気にならなかった。
「師匠、最近小食になりましたね」
食事の後片付けをしながら、言った。
「お前の飯が、効いてきたのかもな」
「それはどうでしょう」
「お前の旦那になる奴は、不幸だ」
「いませんよ、そんな人。額に印もありますし」
「前髪伸ばしてりゃ、わからんさ」
「旦那様の前で、ずっと前髪下してるんです?」
「そうやって隠してなきゃならん相手とは、付き合うな」
「それじゃあ私、いつまでもお嫁に行けない気がするんですが、師匠」
「先のことはわからん。俺は、もう寝る」
そう言って、師匠は背を向けて寝転がった。夜具を押し入れから出して、隣に並べる。ころころと師匠を転がして、その上へ寝かせた。
「そんな人が現れても、たぶん私はお嫁に行ったりしませんよ、師匠」
ぽつりとささやいた。返ってきたのは、師匠のいびきだけだった。
薬草を塗った湿布をおばあさんの腰へ貼り付け、包帯をした。月に一回はやってくる、近所の農家の住人である。
「よし、これでおしまいっと。調子はどうです?」
「ああ、すっかり良くなったよ。ありがとうねえ、アカネちゃん」
「お礼は師匠に言ってください。師匠の薬は本当によく効くんですから」
「ゲンリュウ先生も、ありがとうねえ」
師匠は背中を向けて、薬鉢をかき回している。
「俺は、そいつの次かい、ばあさん」
「昔から、変わらないねえ、ゲンリュウ先生」
おばあさんはくすくすと娘のように笑う。
「変わらないのは、あんただ、ばあさん。あと百年はそのままだよ」
「先月にも同じことを聞きましたよ、先生」
陽の当たる縁側に、優しい空気が満ちた気がした。
「ゲンリュウ先生、大変だ!」
玄関口で、男の声が聞こえた。駆けつけると、村の猟師たちが男の人を乗せた担架を担いでいた。
「どうしたんだ」
「崖から落ちたんだ! 足がぐにゃぐにゃになって……先生!」
「落ち着け。まずは、寝かせて診てみなけりゃな。寝床の用意だ」
はい、と答え、すぐに寝具を敷いた。履物なんぞそのままでいい、と師匠の怒鳴り声が聞こえ、まもなく担架が運ばれてくる。そっと男の人を寝具へ移すと、うめき声が漏れた。
「湯を沸かせ。あと、痛み止めの薬湯の準備だ」
男の人の足から履物を抜いて、師匠が言った。薬壺の中にある痛み止めは、わずかな量だった。あまり日持ちしないので、備蓄はほとんどしていなかった。
「師匠、痛み止めが……」
「なら、作るまでだ。ばあさん、悪いが、今日の診察は終いだ。あんたは百まで生きる。それから若い衆、こいつの話は後で聞く。今はばあさん送って、出ていってくれ」
はいよう、と答えたおばあさんと、猟師たちが診療所を出て行った。
「お前は、今から言うものを持ってこい。時間が無い」
「はい!」
師匠が言ったのは、いくつかの薬草ときのこだった。痺れる毒のあるきのこで、絶対に口に入れてはいけないものだ。日に干してカラカラになったきのこと薬草を持って、師匠のところへ戻った。
「今から薬を作る。そいつの身体を拭きながら、よく見ておけ」
はい、と答えて、熱い布で男の人の身体を拭った。鍛え上げられた身体のあちこちに、傷があった。新しい傷は、崖から落ちたときについたものだろう。まだ、血がにじんでいた。
「きのこの毒は、カズラの成分で弱められる。あとは強壮と、滋養だ」
師匠は手早く材料を薬鉢へ入れて、ゆっくりとすり潰していく。
「師匠、そのきのこって、毒……ですよね」
「分量が大事なんだ。少ない量じゃ効き目が無いし、多ければ患者は死ぬ」
師匠が投入したきのこは、ひとかけらくらいの量だった。材料を入れる順番、分量を、頭の中に刻み込む。
「手が止まってるぞ。しっかり拭いてやれ」
言われて、男の人の身体に意識を戻した。体中についた泥を、布で拭っていく。足は膝から下が紫色になっていて、触れると男の人がうめき声をあげた。
「よし、もういい。あとは薬を塗って、固定しておく。添え木の準備だ」
薬鉢の中には、深緑の粘液が出来上がっていた。新しい布を出して、粘液を男の人の足へ塗り付ける。師匠が持ってきた添え木ごと、包帯で縛った。
「これでいい。運がよけりゃ、こいつは助かる。歩けるようになるまでは、しばらくかかるだろうがな。左腕の処置は、お前がしておけ。ただのねんざだ」
師匠は立ち上がり、外出着に着替えはじめた。
「どこへ行かれるんですか、師匠?」
「こいつの身許を聞きに行くんだ。しばらくここに置いておかなくちゃならないからな」
あとは任せた。そう言って、師匠は出かけて行った。息を一つ吐いてから、男の人の左腕の治療にとりかかる。ねんざの薬は備蓄もあり、簡単な処置だけで済んだ。
「う、ああ……」
しばらくすると、男の人が目覚めた。顔についた泥を拭っている途中だったので、うっすらと開けた目がよく見えた。
「目が覚めたんですね。もう、大丈夫ですよ」
「こ、ここは」
「山村の診療所です。ゲンリュウ先生の。わかりますか?」
「ゲンリュウ……先生。隣、村の」
「はい。あなたは、崖から落ちて、ここに運ばれたんですよ」
「崖から……そうだ、熊が、熊を追って……隣村の皆さんは、無事ですか」
「猟師さんたちは、皆元気そうでした。膝の砕けたあなたを、皆で運んできたんです」
「そう、ですか……よかった」
そう言って、男の人は小さく笑った。言葉に詰まり、男の人の首を布で拭う。
「あなたは……」
「私は、ゲンリュウ先生の弟子で、アカネといいます」
「アカネ……さん」
男の人の右手が、布を持つ手に重ねられた。
「え、あ……?」
「ありがとう。助けてくれて」
「し、師匠の処置がよかったからです。それに、あなたが歩けるようになるには、まだ時間がかかりますよ」
男の人の右腕も取って、布で拭った。そうしているうちに、師匠が戻ってきた。
「なんだ、邪魔だったか」
「師匠! ……なんですか、邪魔って」
「何でもない。それより、熊の肝、貰ってきたぞ。お前の鍋に入れて、こいつに食わせてやろう」
「そういえば、もう夕方ですね。すぐに、食事のしたくしますね」
立ち上がって、炊事場へ向かう。
「おい、若いの。覚悟しとけよ。あいつの鍋は、酷くまずい」
「師匠! 聞こえてますよ!」
師匠が、声をあげて笑った。
「まあ、お前さんは、まずい飯には慣れているだろうがね」
「私の素性をお聞きになったのですね、先生」
「俺には、関係ないことさ。半年ほどは動けないと思うが、ゆっくり養生していきな」
「ありがとう、ございます」
師匠と男の人の声が、それから低いものになった。
細かく刻んだ野草と熊の肝が、いい具合に煮えていた。薬膳の鍋にするので、隠し味は控えめにしておいた。今日の出来は、少し薄味になった。
「今日のもまずいが、少しマシだな」
「もう、師匠! この人もいるんですから……あ、そういえば」
「シエン、と言います。名乗るのが遅れました。あと、美味しい鍋ですね」
「あ、ありがとうございます、シエンさん」
男の人はシエンという名で、隣村の軍人の息子だった。兄弟は上に二人の兄がいて、ともに軍人をしているという。年齢は、二十歳。彼もまた、軍人だった。
「軍営では、めったに食べられない味です」
「これだけまずい飯は、軍でも食えない、か?」
「師匠!」
師匠が笑い、シエンも笑っている。三人分の鍋は、あっという間に空っぽになった。
「こいつに、悪さするんじゃないぞ」
シエンを指さして、師匠が言った。寝床は師匠を挟んで三人で使うことになった。
「普通、逆じゃないですか、師匠?」
「こいつは怪我人だ。お前が動かなきゃ問題ない」
「しませんっ! もう、灯り消しますよ」
ふっと、蝋燭の火を吹き消した。闇の中、師匠のいびきとシエンの寝息が聞こえてくる。いつもと違う、夜だった。
その日、ようやく眠れたときには、夜が明けていた。
半年が過ぎた。シエンの足は、良くなっていた。杖を使えば歩くこともでき、もう添え木も薬もいらないようだった。
「今日も、薬草を摘みに?」
籠を背負って立ち上がると、シエンの声がかかった。
「はい。今日は、ヨモギの葉とカズラを摘んできます」
「私も、一緒に行って構わないかな?」
シエンの提案に、答えたのは師匠だった。
「問題ない。そろそろ、杖なしで歩く訓練もしなきゃならないしな」
「感謝します、先生」
「なに、ちょっとぐらい、遅くなっても構わんぞ?」
「師匠! 冗談ばっかり言わないでください」
「じゃあ、行きましょうか、アカネさん」
二人で、山に入った。薬草を摘んでいると、シエンは黙ってこちらの手許を見ているようだった。担いでいた籠はシエンに取られてしまったので、摘んだ草はシエンのところへ持っていき、籠に入れる。
「大丈夫ですか、シエンさん?」
「ええ、大丈夫です。籠は、軽いですから」
立ち上がり、追随してくる足取りは、しっかりしたものだった。
「それだけ良くなれば、いつでも隣村に戻れますね」
「はい。これも、ゲンリュウ先生とアカネさんの、おかげです」
「師匠の腕と、シエンさんの運の強さです。私は、何も」
「アカネさんがいなければ、私はこんなに早く歩けるようにならなかったと思います」
シエンの声が、すぐ後ろから聞こえた。
「アカネさんと、ずっと、こうして歩きたかった」
耳元で、熱い声が聞こえる。
「シエンさん……カズラを、採らないと」
「あなたが、好きです。一緒になってください、アカネさん」
ぎゅっと、腰に腕が回ってきた。
「シエンさん、私は」
「あなたの額に罪の印があるのも知っています。それでも、私はあなたを妻にしたい」
「……軍人の妻には、相応しくないです」
「相応しいかどうか、決めるのは私です。家の者には、決して悪く言わせません」
抱きしめる力が、強くなった。
「私は、まだ半人前なんです、シエンさん……」
抱きしめる手に、てのひらを重ねた。
「師匠から、教わることはまだまだたくさんあります。私は、この村を離れたくないんです」
「アカネ、さん……」
シエンの手から、力が緩んだ。
「あなたのことは、私も好きです。一緒になりたい。でも、私は、師匠みたいに、師匠があなたを救ったみたいに、苦しんでいる人を助けたい。だから……」
「困らせて、すみません、アカネさん」
シエンの手が、頬に触れた。涙を拭う手を、そのままにしておいた。
「アカネさんが、私と先生の教えを秤にかけて、悩んでくれたこと、嬉しく思います。あなたなら、きっと良い医者になれると思いますよ」
「シエンさん……」
「さあ、薬草摘みの続きをしましょうか。遅れると、先生に変な勘繰りをされてしまいますよ、アカネさん」
はい、と答えると、シエンはにっこりと笑ってみせた。
それから一週間後、シエンは隣村へと帰って行った。その日の夜、師匠は夕飯の鍋に文句を言わなかった。
シエンが隣村に帰ってから、さらに半年が過ぎた。師匠は寝ている時間が長くなったものの、口の悪さは相変わらずだった。
「朝からお前の鍋を食わなきゃならないなんて、今日は厄日か」
「まずいからいらないって言って、昨日残したりするからです、師匠」
「腹痛の薬だ。腹が痛い。胸やけもする」
「まずはお腹に食べ物入れてからです、師匠」
「食べ物、か。それが?」
「美味しいですよ、この鍋」
「お前の味覚はおかしい」
そんなやり取りをしていると、玄関の戸がバタンと開いた。
「ごめんください、先生、アカネさん」
そこに立っていたのは、シエンだった。質素だが作りの良い着物を身に着けて、にこにこしながら立っていた。
「シエンさん? どうしてここに?」
呆然と立っていると、師匠が横を抜けてシエンの前へ歩み寄った。
「ここへ来たっていうことは、覚悟の上か」
厳めしい声で、師匠がシエンに問いかける。
「はい。軍は抜けてきました。家からは勘当されてしまいましたが、この村に来る際に祝い金を貰いました。しばらくは、それで暮らしていけます」
澄んだ声で、はきはきとシエンは言った。
「これから、どうする」
「身体は丈夫ですし、軍営にいたので質素な暮らしには慣れています。ゲンリュウ先生、私を、この診療所で働かせていただけないでしょうか」
「そうだな……アカネ」
師匠に名を呼ばれたのは随分と久しぶりだったが、そんなことは気にならなかった。
「は、はい、師匠」
「お前が決めろ」
「はい……え?」
こちらを向いた師匠が、にやりと笑った。
「俺はまだまだ元気だが、馬に蹴られるのは御免だ。だから、お前が決めろ」
「し、師匠、それは……」
見つめ返す師匠の目には、悪戯心と優しさがあった。視界が、涙でぼやけ始める。
「どうするんだ、早く決めてやれ」
「はい、師匠!」
シエンに目を向ける。微笑みかけてくる顔が、あった。駆け寄って、飛びついた。厚い胸板に、受け止められる。
「お帰りなさい、シエンさん!」
「ただいま、アカネさん」
抱き合って、しばらくそのままでいた。
「やれやれ、微笑ましいことだな、おい」
呆れたような師匠の声には、笑みが混じっていた。昇りかけた太陽が、暖かな光を運んでくる。吹き込んでくる陽気と薬草のにおいが、診療所には満ちていた。