「第三十一-生き恥曝しても死に恥曝すな-」
裾野さんに仕掛けられる人間関係の罠――
※約9,200字
※見直しと内容変更のため、遅くなってしまいました。
2015年7月29日 午後(天気:曇り)
後鳥羽家本館 紅夜兄さんの部屋
裾野(後鳥羽 龍)
今日の話柄既婚者に是非聞いてもらおうと、”怠惰”の紅夜兄さんの部屋の扉をノックした。
そう言えば……言わなかったか?
紅夜兄さんは2015年現在32歳で同い年の奥さんも、小学6年生の男の子と4年生の女の子も居る。
本人には恥ずかしくて言えないが、憧れの当主像だ。
気の抜けた返事が聞こえたところで部屋に入ると、夏休みだからか子どもたちは居らず、奥さんは部屋のどこを探しても居なかった。
だがその代わりに……
「紅夜、お主は何も分かってはおらぬ。何故父上殿に反対されてまで夏祭りを催した?」
と、やたらと周りに物や机が集中しているベッドで横になる兄さんに向かって、足場の少ない中その傍で立って説教を繰り広げている、兄さんと同い年にして後醍醐家当主の詠飛さんが居た。
どうやら夏祭りに関してのお話のようだが、屋台の方々も来てくれたお客様方も喜んでいたのに今更どうしたのだろう?
「ん~……前の当主がやたら閉鎖的だったからかな~?」
兄さんはダークレッドチェリーの重い前髪で細い目を隠し、186cmの身長を活かしたしなやかすぎる寝返りに、俺は怒る気すら失せてしまう程であった。
だが詠飛さんは見慣れていることもあり、すぐに背中から手を回してグイと起き上がらせ、
「理由はよく分かったが、それを俺の目を見て言えぬのか?」
と、前髪を掻き分けて言う詠飛さんも、かなりの世話焼きだと思う。
付き合いの長い同級生故かもしれないが。
「え~……? 龍が来てるから後にして~?」
だが気だるそうに言う兄さんは、詠飛さんの肩をポンと叩くとスッと立ち上がった。
俺はベッドから離れた途端柔らかな表情に変わった、背丈の然程 変わらない紅夜兄さんを前に何だかドキマギしてしまった。
「どうしたの?」
と、不思議そうに訊く兄さんが前髪を左手で軽く流すと、薬指に輝く結婚指輪が少しズレたせいか深い指輪跡が見え、これまでの行いを思い出して胸が痛んでしまった。
「……今日の過去語りが、ちょうど女性関係のお話なので、恋愛結婚された兄さんに訊いてもらおうと思ったのですが――」
と、ぼそぼそと話し始めると、紅夜兄さんは細い目を更に細めて、
「ん~……俺は責任を取らせただけだよ?」
と、苦笑いを浮かべながら気恥ずかしそうに言った。
俺はすぐに状況が理解できず、居る筈のない子虫を追っていると、
「奥さんは、本当は俺を殺す気だったんだけど……殺気を感じて腕をナトロンで固めて……現在に至るのかな」
と、愉快そうにはにかむ姿には余裕が見え、当時の俺とは比べ物にならないな、と苦笑いを浮かべていると、
「政略結婚だけは嫌だったから、責任取ってって。それだけの話」
と、更に付け加えられてしまい、俺は黙って愛想笑いを浮かべるのが限界であった。
だがやはり詠飛さんは目を見開き、
「そうだったのか!? しかし……そうは見えぬ程仲が良いではないか!!」
と、紅夜兄さんの肩を揺する姿は、騅も言っていたが……武士だな、と思ってしまう。
あまり話してこなかったが、紅夜兄さんの奥さんは元殺し屋だが新人の頃だった為、特に未練も何も無く責任を取って後鳥羽家の妻に転職したが、挙式は面倒だからという理由でしていない。
とにかく社交的で裏表がない性格のため、同性からも好かれているそうだ。
もちろん、腕のナトロンは元に戻したそうだが……。
「そうだね~。色々とあっさりしてるからね~いろいろと」
と、頬を緩めて話す兄さんは、本当に幸せそうだ。
「左様か……。そう言えば、龍と話すのだろう? それなら俺は出て行く」
と、武士らしく一礼して出て行く詠飛さんは、騅の話によれば結婚や恋愛に興味がないというからな……。
子どもがいることは勿論、結婚したことにすら理解を示せないのだろう。
しばらくしてから兄さんはサイドテーブルに腰かけ、
「あっちの当主の耳に入れたらマズイ事も話すんでしょ?」
と、顎で扉の方を指した。
「そうですね。あの……失礼ですが、奥様はどちらに?」
と、話を聞かれる心配もあってそう切り出すと、兄さんは微笑みながら重い前髪をまた左側に流し、
「名家の他の奥様方とティーパーティ? らしいよ。子どもたちが帰る頃には戻るんだけど、あー……部活があるから……19時前までに終われば大丈夫」
と、頬杖して考え込みながら言う様は、完全にお父さんの顔だ。
たしか息子さんも娘さんも、剣道と柔道をやっていて……部活は演劇部をやっている筈だ。
どちらも兄さんに似て柔らかい雰囲気で、娘さんは奥様に似て社交的でもある。
あぁ将来どんな大人になるのだろうか? いや、まだ早いだろうか……?
そんなことを考えていると、ふと兄さんがグッと顔を近づけ頬をぎゅっと握り、
「あ~ニヤニヤして……何考えてたんだ~?」
と、そのままグイグイ引っ張られてしまうと、弁解の余地も無い。
それにふわっとCHANELの男性用香水のベルガモットの香りがし、
「ん……いい香りですね」
と、頬の解放と同時にポロッと言ってしまうと、兄さんはフフッと柔らかく微笑み、
「既婚男性もストライクゾーンに入る?」
と、眉尻を下げ薬指を見せながら言うので、俺もつい釣られて微笑んでしまった。
まったく冗談の上手い方だ。
「ふふっ……えっと? 既婚男性と――」
と、更に悪い顔をしながら冗談を重ねようとするので、
「俺の最初で最後の純愛のお話ですよ」
と、危険を察知して言葉を遮ると、兄さんは目を細めて先程のサイドテーブルに腰かけ直した。
最初で最後の。
もちろん、弓削子のことは好きだが……光明寺家からの政略結婚だから、恋の罠とは言え恋愛結婚をした紅夜兄さんが羨ましい。
俺もあのとき……言ってしまいたかった。
責任取って結婚してほしい、と。
2011年4月1日 15時頃(天気:晴れ)
関東 カフェ Boulangerie前
裾野(後鳥羽 龍)
3月中旬ごろに弓削子が性行為が出来ないなら昏睡妊娠してみせようか、などと調子の良いことを言ったので、今年末に19歳になる俺が年甲斐も無く論破してしまい、それから上手くいかなくなっていた。
だがそれを菅野に悟られるのは癪でな……もしかしたら、やたらと触ってしまったかもしれないな……。
それもあってか、この日は安息日であるにも関わらず、菅野を部屋に置いてきたまま街中を当てもなく、それこそ幽霊さながらに彷徨っていた。
そうしているうちに弓削子が以前から気になっていた、行列の出来るほどパンが美味しいカフェ、とこちらの業界のマスコミも報じたあのカフェの前に来てしまっていた。
「……!」
俺は話し合いの場を温める為に出来る話だと思い、すぐに歩を進めた。
カフェのコンセプトが、”木漏れ日が注ぐ午後”だったか。
それもあって内部は柔らかい薄茶色のフローリングと壁で統一され、観葉植物がコーナーや入口の端の方に置いてあり、店員は勿論客層も若年層の女性やカップルのみ。
俺は雰囲気にのまれる前にパンカウンターの列に並ぶと、そのときレジを終えたであろう、艶のある黒髪ストレートを尻の上ほどまで伸ばした女性の髪の香りに惹かれ、思わず目で追ってしまった。
駄目だろう……弓削子の為にこの店に来たのだから。
俺は心中で髪が乱れる程振ってみても、足元までロングスカートで覆われた女性の流し目で吹っ飛んでしまい、その丸みを帯びた美しい目尻に夢中になっていると、女性は何もないところで躓いてしまった。
誰でも起こりうるちょっとした躓きにも過剰反応してしまい、思わず柔らかい腕を掴んだ俺の瞳には、顔を赤らめて恥ずかしそうにうるんだ瞳で上目遣いをする彼女が映っている。
「あのっ……」
女性は俺に掴まれていない方の腕で黒髪を手繰り寄せて顔を覆い、上ずった声で周りを見渡す。
だが彼女が思ったほど周りは気にしていないようで、それに気づいたことも相まって更に頬の温度を上げていく。
「申し訳ございません。……大丈夫ですか?」
俺は露出の少ない清楚な服から僅かに主張する胸元に目がいきそうになり、目を泳がせる。
見えないことがそんなに……。
弓削子が逆に見せつけたりすることもあるだろうが、ここまで肌を隠されると新鮮味がある。
「はい……あ、ありがとうご、ざいます……」
女性がそう俯き加減で言う声は、か細くて高いのに掠れていないせいか、聞き取りやすい声だった。
「……」
俺と女性はそれから何秒か見つめ合ってしまい、どちらも何も切り出せないままでいると店員に、「後ろに並んでいる方が居るので……」と、気まずそうに話しかけられ、
「よかったら奢りますから……お話していきませんか?」
と、背中を押された俺が勢いで言うと、女性は目を見開いてオドオドしながらも頷いてくれた。
あぁ……そんな可愛らしい仕草……してくれないだろうな。
「ご迷惑をお掛け致しました」
俺は女性からの返事を聞いた後すぐ周りの方々に謝り、一緒にパンを選んだ。
どうやら女性はクロワッサンが大好きなようで、10種類あるクロワッサンを全てトレーに乗せてしまった。
その理由を訊いた気もするのだが、不思議なことに全く覚えていない……。
その後観葉植物がいい障壁になっている席に座ると、女性は緊張しているのか、もじもじしてみたり髪をポンポンと触ってみたり、かなり落ち着きがない。
だがこのままという訳にはいかないので、一旦座り直し、
「俺は裾野聖と申しますが……よろしければ、貴女のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
と、最大限の配慮と紳士の心を持って訊くと、女性はハッとした表情になり、
「…………多村麗華と申します」
と、薄化粧に映える美しい笑顔を向けられたとき、俺は過去の行いが心を抉り、ほんの一瞬だけ彼女の目を見られなかった。
生きている筈がない……詠飛さんの最後の恋人だと言われる彼女が……この、生まれ変わりの無い世界で生きている筈がない。
偶々だ。同姓同名なだけだ……。
「聖さんって、すごく素敵な名前! それに誠実そうなお名前ですね!」
表情に出ていないせいか、俺の心情も知らない麗華は膝に両手を置き肩を1回上下させた。
「あ、あぁ……誠実さなんてな、見えているモノは偽りのものだ」
俺は頼んでいた紅茶に口をつけると、麗華はあからさまに眉を下げ溜息をつき、
「やっぱり私……騙されているのでしょうか? えっと――」
と、豊満な胸を腕で隠しながら言いだし、その後もジェスチャーをする度に揺れてしまうせいか、どうにも話が入って来ないため、話が一区切りついたところで、
「カフェだと周りの方の耳に入ることもありますから、今度個室の飲食店で話しましょう」
と、机に置いてあった携帯に密かに連絡先を入れ、元の場所に戻しておいた。
携帯番号はもちろん……仕事用のもので、登録名は「鷹」ということも話しておき、麗華の携帯に登録してあった名前の中で気にかかるものは全て携帯にメモしておいた。
誤解を招く言い方だったが、どう考えてみてもおかしい名前があるのだ。
「イフェーカー 店長」、「シダレザクラ」、「ケゴンモウセ」など……明らかにソウイウ店のものだろう。
そうだとすれば……楽に稼げるとでも言われたのだろうか?
俺は探りを入れる為に机の上に手を置き、
「ここにはよく来られるのですか?」
と、柔らかい笑みをイメージして訊いてみると、麗華は恥ずかしそうに俯き、
「いえ……はじめましてなんです。それに、その……久しぶりの、お休みで……」
と、ゆっくりと丸目で上目遣いをされながら言われてしまうと、瞳に吸い込まれてしまいそうになる。
「……そうなんですね。差し支えなければ、どういったお仕事をされているかお聞きしたいのですが……ちなみに俺は経営コンサルタントをしております」
俺はカウンセラーや税理士の資格を持っているため、こういう時に怪しまれない職業を選ぶのだが、麗華は愛想笑いのまま固まってしまっている。
なるほど、これで踏ん切りがついた。
俺はすぐに胸の前で手を振ってみせ、「失礼いたしました。それよりも、最近こういったお菓子が流行っているのですが――」と、世間の流れや芸能の話をしてみれば、麗華はぱぁっと明るい表情になって熱心にメモを取っている。
それからも、「勉強になります!」と、喜んでいる顔を見てしまうと……菅野の顔が浮かんできてしまい、更に多村麗華という女性に惚れ込んでしまっていた…………。
だが最近また仕事が週7で入っていると断られ続け、メールを送っては送信履歴を消している状態が続いていた。
それでも俺は彼女が欲しかったため、けーちゃんとカラオケ店前で待ち合わせをしている時も送ってしまっていた。
すると正面から来たけーちゃんが携帯を引っ手繰り、内容と送り先を見るや否や険しい顔つきになり、カラオケ店の中に連れ込んだ。
受付している間も苛立っているようで、笑顔で女性店員に飲み物の注文をしていると、何度か靴を踏まれそうになった。
そしてようやく女性店員が鍵を奥から取り出し、
「それでは、20号室になります」
と、俺に向かって見せつけるように胸を寄せて渡すので、けーちゃんは横から引ったくり、一礼した俺の腕をグイグイ引っ張り部屋に入るなりソファに投げ飛ばされた。
すぐに体勢を整えようとすると、今度はマウントポジションを取られてしまった。
「うなぎ!! 浮気はいかんぞ、浮気は! 法律で裁けないとはいえ、お天道様は絶対に不純なお前を許しはせんぞ! だから人間性においては立派な違法行為!」
と、俺が鰻を食べられないことからそう呼ぶけーちゃんは唾を飛ばしながら大声で言うと、俺の春用のVネックニットをの肩口を引っ張って起き上がらせ、
「うなぎのためだぞ! 俺たちはな……純粋な恋愛結婚なぞしてはならんのだぞ、わかるか!?」
けーちゃんは名家の中でも中の上ほどの紅里家の出身のため、そのうち政略結婚をすることになる身だ。
俺も弓削子の実家である光明寺家から政略結婚の話が入っている……。
脇を見たくなる気持ちは分かるが、ぐっと堪えろ……そう言いたいのも分かる。
だがここで麗華を放っておいたら、一生いかがわしい店に騙され続けることになる。
それだけは……彼女を救いたいから……せめて何かをしてあげたい。
だがそれに下心が入ってしまい、彼女を欲してしまっている俺も相当な悪人だ。
「分かる……。それなら、弓削子と別れてしまおうか……」
と、殴られるのを覚悟で呟いてみれば、けーちゃんは戸惑ったような表情になり、照明のせいかオレンジがかってみえる黒髪短髪の襟先を弄り、
「そんなの……自分で決めろ……」
と、語気を弱めて言い、一曲目の曲名を機械に打ち込んで歌い始めてしまった。
やはり同じ運命を背負う者同士、強く言えない部分もあるのだろう……。
親の決めた結婚相手など…………愛するに値しないのかもしれない。
その日の帰りのことだったか、けーちゃんと別れた後の話だな。
麗華が働いているイフェーカーという店も近くにあるし、少し見てから帰ろうと地図を携帯画面に映し出しながら歩いていると、夜道から突然ミニスカートを履いた子どもが飛び出してきたのでひらりと避けた。
するとその子は俺を壁際に追いやってきたため、
「どうしました?」
と、軽く押し返しながら言うと、グイと背伸びをし、
「イイコト……しません?」
と、どう解釈しようにも男子高校生が無理に高い声を出しているような……ふざけた時に出す声のようにも聞こえ、からかわれていると思った俺が、
「似合わない女装はやめて帰りなさい」
と、一蹴してやれば、その子は男の目で睨みつけながら走り去った。
何なんだろう……?
どこかで見たことのある顔だった。
140cmほどの身長の男子高校生は……そう多くはない筈だ。
俺は片桐組で今まで出会った隊員、藍竜組の面々を思い出してみたが、片桐組に至っては記憶が古いため成長している可能性が高い。
……また思い出した時にしよう。
俺はそう考えた覚えがある。
その後も麗華の休みが取れ次第会うことにしていたのだが、今思えばよく菅野に勘付かれることもなく過ごせていたな、と感心してしまう。
だがこの人の目と鼻は欺けなかったようで……数日後もすれば組内ですれ違った弓削子に呼び止められてしまった。
「……女の匂い」
弓削子はギリッと下から睨みあげると、何も動じない俺の首筋にナイフを突きつけた。
その手は僅かに震えており、彼氏の浮気を許せない瞳の揺れと相まって哀れに感じた。
君に無い魅力が彼女にはあったのだ、ということは言える筈もないうえに、ただ弓削子を傷つけるだけだ。
あぁ匂いですら残ってしまうなら、それなら――煙草で隠せばいいだろう。
愛煙家である総長に憧れた、であるとか疲れたと言えば……菅野も賛成してくれるだろう。
「……」
俺が何の感情も浮かべぬまま無言で立ち去ろうとすると、弓削子は唇を噛んでナイフの切っ先で毛先を僅かに掠め、
「絶対に貴方と結婚してやる……」
と、大胆に開いた胸元からピルケースを取り出し、横目で見る俺の目元にチラつかせて脅すような口調で言った。
……知っている。
弓削子は純粋に生きることも、純粋に恋をすることもとうの昔に諦めている。
だからこの先……その薬で俺の意識を奪って結婚し、妊娠して産んだ子どもが「空」ということも。
本当は全て知っていてその罠に掛かった。
そうでもしないと、光明寺家である優太さんのことも乞田のことにも……恩返しが出来ないから。
そんなの間違っている?
……それなら存分に笑ってくれ。
それから何か月が経っただろう?
2011年になった本国の殺し屋業界は、今年のトレンドやら流行りの武器を報じはじめている。
一般の業界も三が日は特番ばかりで、今年の流行りを作り始めている。
そんな中、三が日は休みだという麗華とついに一線を越えてしまった。
だが不自然な点がいくつかあった。
下着を脱いでくれないこと、盛り上げた先を掛け布団で隠してくれないと嫌だと言ったり、一緒にお風呂は絶対に嫌だと頑固になってしまうこと。
今は冷静だから分かるのだが……このときは、麗華が恥ずかしがり屋なのだろう、と心の中の鼻の下を伸ばしてしまったせいで、見抜くことが出来なかった。
見抜く?
そう首をかしげるのもおかしくない。
多村麗華は――布団で隠して行う行為の途中で、僅かな殺気を出してしまった……言わば殺し屋だ。
首に抱き着く彼女の腕にはいつの間にか注射が握られており、液体の色からして中身はどう見ても毒。
俺は自分の勘を信じて腕を捻りあげ、注射を部屋の端まで蹴とばした。
「どこの組だ?」
俺は下着姿の彼女に馬乗りになり、腕は捻りあげたまま頭の上で組ませた。
「……バカじゃないの」
だが彼女は流し目で俺を見据えると、少しだけ低くした声で言った。
「……?」
あらゆる可能性を考えては否定する俺が眉を潜めていると、彼女は「訳を話すから退いて」と、どこかで聞いたことのある声で言う。
嘘だろう……?
俺は洗面台で蛇口を捻って化粧を落とす彼女を見遣り、自分の愚かさに血の気が引いていくのが分かった。
更に彼女は尻の上ほどまで伸びる黒髪を1つに結び、俺は誰と一線を越えてしまったのかを理解し…………身体の中心を銃弾で射られたように放心状態になった。
というのも、目の前に立つ妖艶な出で立ちの人間は、どう見ても……あの組の総長お気に入りの……
「黒河月道……」
片桐組の最年少エーススナイパーにして騅の腹違いの弟、父は後醍醐詠飛さん、元ナンバーワンキャバ嬢、現在は高級クラブのママを勤める色気のある女性を母に持つ彼が……女性に完璧になりすますとは。
「何? 寝たのは女の方だから、俺に謝らないで」
そのうえ、多重人格者の為他の人格がしたことなど興味を持たない。
その証拠に月道は下着を鬱陶しそうに外し、軽蔑の目で俺を睨んだ。
しまいには化粧を落としたことで元の切れ長の目になった彼の目は、麗華の時とは打って変わって温もりを微塵も感じさせない氷の瞳だ。
だがこれはもしかしたら……この状況は、内通者よりも役に立つ情報提供者が出来るチャンスかもしれない……?
「……」
そんな邪な気持ちが横切れば、俺はすぐさま気持ち悪がる月道を御姫様抱っこし、ベッドに優しく下した。
すると月道は観念した目つきで俺を見上げ、
「仕事を失敗した殺し屋なんて……早く殺せばいい。遺体を裸にして絞首なんて変な趣味。気持ち悪いから早く殺して」
と、淡々と氷山のように気高く言い、覚悟からか目を閉じるので、俺はふっと口の端から息を漏らし、
「まだ夜は長い……」
と、すべすべの白い肌に手を這わせ、名誉のために口づけはせず首筋に噛みつくと、
「ちょっと!? 俺、男なんだけど?」
と、軽蔑の目線で刺す月道を見ているだけで愉快……かもしれない。
俺はニッと口の端を僅かに上げ、
「お前がどんなに化けても抱けるからな……」
と、布団を剥いで言うと、手を下腹部の方に動かしたことに気付いた月道は全てを理解したのか、
「弱味を作るなんて最低。地獄に堕ちればいいのに」
と、荒くなる呼吸混じりに悪態をついた。
流石にこの先は語ることは出来ないが、たまに月道を使って片桐組のものを探らせたり、情報提供させているそもそもの源はこの出来事にある。
だがもし……紅夜兄さんのように月道ではなく本当の女性で、そのまま恋愛結婚出来るとしたら…………俺の運命はどれだけ変わっていたのだろうか?
だが月道であることにも意味があったのは事実だ……彼を襲う機会がなかったら、片桐組の情報は入ってこないも同然だからだ。
ときどき藤堂さんから情報が入るのも、月道の弱味を知っているからこそで……ボランティアな訳がないのだ。
せめてこの出来事に名称でもあれば所謂、と言えるのだろうが、彼の人生最大の屈辱に対して何か歴史に残すようなことをすれば、それこそ俺は地獄に堕ちる。
それ以前に妻になる女性を傷つけ、幼馴染を困惑させ激高させたのだ。
…………生き恥さらし、だな。
現在に戻る……
そうして話し終えた俺に対し、紅夜兄さんは西日が差し始めたのを気にしてか首をぐるりと回し、
「龍が死ななくてよかった」
と、脚をピンと伸ばしてから立ち上がった。
俺はその一言に、胸が熱くなった。
「……ありがとうございます」
だからこそ、何よりも感謝したかった。
紅夜兄さんも自分の勘を信じ、毒針を刺して人の道を外れようとしていた奥さんをこちら側に戻したのだ。
俺は立ち上がって紅夜兄さんに一礼し、そのまま部屋を出ようとしたのだが、
「……あの結婚式は葬式みたいだった。龍みたいな優しい子が……薬指に跡をつけないなんてさ……政略結婚はおかしいよね」
と、俺のまっさらな左手の薬指を指しぼそぼそと呟くその姿は、後鳥羽家当主として何かを強く決心したような表情であり、俺は思わず目を見開いてしまった。
それに気づいた兄さんは、元の気だるそうな表情に戻り、
「なーんてね。戯言だから」
と、むしろ俺の背中を押して部屋を追い出されてしまった。
俺は歴史を動かそうとする人物の強い覚悟を、初めて本の世界以外で見た。
執事長の乞田です。
文章自体は昨日の夕方に出来上がっていたのですが、内容を大幅に変更いたしましたため、本日の更新となりました。
お待たせしてしまい、申し訳ございません。
月道様と龍様の微妙な距離感は、ここから生まれたのですね。
……って、紅夜様って……ご成婚されていたんですか!?
乞田、知りませんでしたよ!?
もう、言わないだなんて酷いものですね。
次回更新日についてですが、夏休みに入る為来週の土日ではなく、どこかで急に更新する可能性もあるそうですよ!
是非毎日ページをチェックしてみてくださいね!
それでは良い一週間を!
執事長 乞田光司




